第4話:朝寝坊と温泉と焼き菓子と。
王都から馬車で三日。
湯の町ヴァイスバートは、山あいの谷にひっそりと湯けむりを上げていた。
目が覚めると、窓の外で小鳥が鳴いていた。
日は、すっかり高い。
「……まあ」
寝坊だ。
三十年ぶりの、完璧な寝坊だった。
いつもなら夜明け前に起きて身を清め、神殿の祭壇で結界に魔力を注ぐ。
雨の日も、熱のある日も、一日も欠かさずに。
今朝は、何もしなくていい。
私はもう一度、ふかふかのベッドに潜り込んだ。
朝食とも昼食ともつかない食事は、焼きたてのパンと、蜂蜜をたっぷりかけた焼き菓子。
「お嬢さん、よく食べるねえ」
宿の女将が笑う。
お嬢さん。
悪い気はしない。
午後は、ゆっくりと湯に浸かった。
三十年分の疲れが溜まった腰に、熱がじんわりとしみていく。
「……なんて幸せなんでしょう」
湯の町に来て三日目。
王都から早馬で使者がやってきた。
差し出されたのは、王家の封蝋が押された手紙と、一通の権利書だった。
手紙は、グスタフ陛下の直筆だった。
長い長いお詫びの言葉が、几帳面な字で綴られている。
そして最後に、こうあった。
――この別荘に、いかなる義務も条件も伴わない。どうか、好きなだけ寝坊してほしい。
「まあ。陛下ったら、最後まで世話焼きなんですから」
七年前、私に頭を下げた陛下のつむじを思い出す。
あの頃から、白いものが混じり始めていた。
恨んではいない。
あのときの私は、断れなかったのではない。断らなかったのだ。
けれど、こうして手紙をいただけたことは、やっぱり嬉しい。
私は短い返事を書いた。
――ありがたく頂戴いたします。たくさん寝坊いたします。
それから、もう一通。
神殿にいるフィオナへ、結界の補修について、少しだけ助言を書き添えた。
引き継ぎの資料は残してあるけれど、初めての仕事には不安がつきものだ。
私も、そうだったから。
二通の手紙を使者に託した。
その夜。
宿の中庭の足湯で、星を眺めていると。
「隣、いいか」
低い声がした。
見上げると、背の高い男性が立っていた。
月明かりに銀髪が光る。
夜会の、柱の陰の人だ。
「あら……ヴァルター様!」
「久しぶりだな、オデット」
ヴァルター・グランフェルト様。
長く騎士団長を務められ、四年前、亡き兄君に代わって辺境伯家を継がれた。
三十年前、新米聖女だった私の護衛騎士を務めてくださった方だ。
「夜会にいらしたでしょう。柱の陰に」
「見えていたか」
「何かおっしゃっていましたわね」
「……さあな」
ヴァルター様は私の隣に腰を下ろし、ブーツを脱いで湯に足を浸した。
「本当に、もう聖女を辞めたのか」
「ええ、おかげさまで。今朝なんて、お昼まで寝ていましたのよ」
「そうか」
ヴァルター様は、少しだけ笑った。
「ところで、どうしてこちらに?」
「昔、君が話していたのを思い出してな」
「私が?」
「引退したら、ヴァイスバートの温泉に浸かって、一日中寝ていたいと」
「あら。そんなことまで覚えていらしたの?」
「覚えているとも」
ヴァルター様は、星空を見上げた。
「夜会のあと、領地へ戻る前に寄ってみようと思った。もしかしたら、君に会えるかもしれないと」
「まあ。偶然ですねえ」
「……ああ。そうだな」
なぜか、ヴァルター様は少し困ったように笑った。
「でも、領地を空けてよろしいんですの?」
「領地には有能な家令がいる。少し留守にしても困らん」
それから、しばらく黙って星を見ていた。
「では、今度こそ俺にも機会があるだろうか」
「……何の機会です?」
「君を、食事に誘う機会だ」
「まあ。お食事くらい、三十年前だって言ってくだされば」
「言えなかった。君は毎朝、夜明け前に起きる人だったから」
よくわからない理由だ。
でも、旧友と食事をするのは楽しそう。
「では明日、この町でいちばんおいしい焼き菓子のお店を探しましょう。ヴァルター様のおごりで」
「ああ。喜んで」
ヴァルター様が、とても嬉しそうに笑った。
たかが焼き菓子でそんなに喜ぶなんて、甘いものがお好きだったかしら。
……まあ、明日聞いてみましょう。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
三十年ぶりの朝寝坊を満喫するオデットと、どうやら三十年間ずっと想いを温めていたらしいヴァルター様。
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