第3話:ディートリヒを呼べええええ!
翌朝。
王宮、国王の執務室。
グスタフ国王は、宰相が差し出した書類を三度読み返した。
「……何だ、これは」
「筆頭聖女オデット・ヴァレンティーヌ様の、退任通知でございます」
「退任?」
「昨夜の夜会にて、ディートリヒ殿下がオデット様との婚約を破棄なさいました」
「…………」
「これに伴い、聖女奉仕契約も終了いたしました。解除書式には両当事者の署名と、書記官の印章がございます」
「…………」
「現在、守護結界の管理責任者は不在です」
ぱきり、と羽ペンが折れた。
国王は立ち上がった。
「ディートリヒを呼べええええ!」
半刻後。
「父上! お聞きください、私は真実の愛を――」
「黙れ!」
国王は解除書式を机に叩きつけた。
「第三条は読んだか」
「……第三条?」
「読んだのかと聞いている!」
「オデットが何か申しておりましたが、どうせ未練がましい言い訳だろうと……」
宰相がそっと目をそらした。
「書記官から報告を受けている。あの方は署名の前に、条文を指で示して説明なさった。結界の管理者がいなくなると、はっきりおっしゃった。それをお前は、聞きもしなかった」
「で、ですが父上、結界ならフィオナが――」
「フィオナ嬢は今朝、神殿で倒れた。オデット殿の代わりを務めようと、無理をしたそうだ」
ディートリヒの顔から、血の気が引いた。
「お前は、あと三年も待てなかったのか!」
「ですが、あの女はもう四十八で――」
「年齢が何だ! お前が生まれる前から、この国を守ってくださっている方だぞ!」
国王の声が、執務室の窓を震わせた。
「お前が生まれた夜、王都の北に魔獣の群れが押し寄せた。あの方は一晩中、結界を張り直してくださった。お前を最初に抱いたのは、その帰りのあの方だ。泥だらけのまま、よく泣く元気な子だと笑ってな」
ディートリヒは、何も言えなかった。
「そもそも、七年前の婚約は、あの方を他国や貴族の思惑から守るためのものだった。結婚を強いるものではないと、説明したはずだ!」
「……形式上の婚約だとは、聞いておりました」
「ならば、なぜ!」
「ですが、私は……」
ディートリヒは言葉を詰まらせた。
「父上が決めた婚約者だと、ずっと思っていました。私の意思など、誰も聞いてくれなかったと……」
国王は、息を呑んだ。
七年前。
自分は確かに、婚約の目的を説明した。
だが、成人したばかりの息子が何を感じていたのか、尋ねたことはあっただろうか。
十八の若者に、母親ほども年の離れた婚約者だ。面白いはずがない。
「……それは、私の落ち度だ」
ディートリヒが顔を上げた。
「だが、それと、お前が昨夜したことは別だ。オデット殿にも、フィオナ嬢にも、何の非もない」
「…………」
「下がれ。沙汰は追って伝える」
扉が閉まる。
執務室に、重い沈黙が落ちた。
「……陛下」
「わかっている」
国王は、椅子に深く沈み込んだ。
「あれを怒鳴りながら、私が何を考えていたと思う」
「王国の行く末を、でございましょう」
「そうだ。結界が、守りが、国が困る、と。……あの方がようやく自由になれた、とは、一度も思わなかった」
七年前のことを思い出す。
四十一歳のオデットが差し出した辞表を、国王は受け取らなかった。
あと十年だけ、と頭を下げた。
彼女が責任感の強い人だと、知っていながら。
あのとき、彼女は一つだけ条件を出した。
――殿下が本当に好きな方を見つけたとき、私が足枷になりませんように。
婚約当事者の署名だけで解除できる条項は、そうして生まれた。
「あの条項を入れさせたのは、あの方だった。息子の自由を守るために」
国王は窓の外を見た。
王都の空に、うっすらと結界の網目が光っている。
「私は、あの方の自由を一度でも考えたことがあったか。……いや。私も、あれと同じだったのかもしれんな」
宰相は答えなかった。
国王は姿勢を正した。
「オデット殿には、王家から正式な褒賞を。退職金と、あの方が好んでおられた温泉街の別荘だ。引き留めの条件は一切つけるな。ディートリヒは公務を停止し、神殿で結界管理を下働きから学ばせよ。そして、オデット殿の引き継ぎ資料を全聖女に共有し、複数人で結界を支える体制を整えるのだ」
「御意に」
「……三十年間、一人に背負わせてきた。それがそもそもの間違いだった。二度と、一人の聖女の人生を国の守りと引き換えにするな」
宰相は深々と頭を下げた。
国王は、机の引き出しから新しい便箋を取り出した。
「……陛下、そちらは?」
「詫び状を書く」
「王家の正式な書状でございましょうか」
「いや」
国王は首を振った。
「王としてではなく、七年前に頭を下げた男としてだ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!
三十年間、王国を守り続けてきたオデット。
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