第2話:殿下、その書類に署名してくださるんですか!?
書面は、驚くほど早く届いた。
大広間の脇にある控えの間。
燭台の灯りの下で、王宮書記官が一枚の羊皮紙を卓に広げる。夜会の最中に呼び出された彼は、気の毒なほど青い顔をしていた。
「こちらが、国王陛下が定められた婚約契約の、正式な解除書式でございます」
書記官は、一度言葉を切った。
「本書式は、婚約当事者双方の署名をもって効力を生じます。国王陛下の追加承認は必要ございません」
「ふん。さっさと寄越せ」
ディートリヒ殿下がペンを取る。
「お待ちくださいませ、殿下」
私は書類の一か所を指で示した。
「署名なさる前に、こちらの第三条をお読みください」
「なんだ、未練か?」
「いいえ。大切なことですので」
私はゆっくりと説明した。
「この婚約は、王家と筆頭聖女との奉仕契約と一体になっております。婚約を解除すれば、私が王国の守護結界をお預かりする義務も、同時に終わります」
「それがどうした」
「明日から、結界の管理者がいなくなる、ということですわ」
「好きにしろ! 結界ならフィオナがいる!」
殿下は第三条に目を落とすこともなく、署名した。
書記官が、小さく呻いた。
「殿下!」
殿下の隣に座っていたフィオナが、悲鳴のような声を上げる。
「私、まだ結界の補修もできません! ほつれを一つ繕うだけで、三日寝込んでしまうんです!」
「謙遜するな」
「謙遜ではありません!」
殿下は聞く耳を持たず、書類を私の前に突き出した。
「これで終わりだ。オデット、貴様も署名しろ」
私は少しだけ、ペンを持つ手を止めた。
七年前、私は四十一歳だった。
三十歳を過ぎた頃から、少しずつ後進の育成に力を入れていた。いつか自分がいなくなっても、結界を守れるように。
けれど、二十年余り私一人の魔力で編み続けた結界は、すっかり私の癖を覚えてしまっていた。教え子たちが手を入れようとしても、網目がなかなか言うことを聞かない。
後任が育つより早く、私は限界を感じ始めていた。
そこで陛下に退任を願い出たのだ。
陛下は、十年間だけ続けてほしいと頭を下げられた。
けれど、退任を口にした筆頭聖女を、他国や大貴族が放っておくはずがない。縁談に引き抜き、囲い込み。
それらから私を守るために結ばれたのが、王太子殿下との形式上の婚約だった。王太子の婚約者に手を出せる者は、この国にも外国にもいない。
結婚を強いるものではない。
殿下が本当に好きな方を見つけたなら、いつでも解消できる。
その条件を出したのは、私自身だ。
もっとも、当時の殿下は成人したばかりの十八歳。
ご自分の婚約がどういうものか、きちんと説明されていたのかどうか、今となってはわからない。
ただ、私の退任と婚約の解除を結びつけたのは、陛下と私が合意した契約だった。
そして今、殿下はその契約を終わらせようとしている。
説明はした。
書記官も聞いていた。
読む機会も、思いとどまる機会も、殿下にはあった。
陛下とのお約束は、あと三年残っていた。
けれど、それを先に手放したのは私ではない。
私は署名した。
三十年分の重みのわりに、あっけないほど軽い筆跡だった。
書記官が震える手で印章を押す。
「本書面をもって、筆頭聖女の退任届も受理されたものとして扱われます」
それで、すべてが終わった。
ふと見ると、フィオナが涙目でこちらを見つめていた。
私は彼女の冷えた手を、両手で包んだ。
「大丈夫。あなたに責任はありませんよ」
「でも、結界が……」
「結界は今夜すぐに消えたりしません。私が三十年かけて編んだものですもの。小さなほつれは出るでしょうけれど、しばらく大きく崩れることはありませんわ」
「本当、ですか?」
「ええ。それに、引き継ぎの資料は、もう神殿に預けてあります」
「……もう、ですか?」
「もともと、あと三年で退くお約束でしたから。少しずつ書きためておいたんです」
フィオナが目を見開いた。
「焦らなくていいの。最初から全部できた聖女なんて、一人もいませんから」
私だって、最初の一年は毎晩泣いていた。
書記官に一礼して、控えの間を出る。
廊下の窓から、夜の王都が見えた。
その上空に、うっすらと光る結界の網目。
三十年間、毎朝欠かさず魔力を注いできたもの。
「……お疲れさまでした」
結界に言ったのか、自分に言ったのか、よくわからない。
明日の朝、私は誰にも起こされない。
そう思った途端、口元がゆるんだ。
「さて。温泉の宿、空いているかしら」
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