第1話:婚約破棄ですか? ありがとうございます!
「オデット・ヴァレンティーヌ! 貴様との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、ディートリヒ殿下の声が響き渡った。
楽団の演奏が止まる。グラスを傾けていた貴族たちの手も止まる。
数百の視線が、一斉に私へ集まった。
「……婚約破棄、ですか?」
思わず聞き返した。
聞き間違いだったら困るもの。
「ああ! 私の隣にふさわしいのは、フィオナだ!」
殿下は胸を張り、隣の少女の肩を抱き寄せた。新米聖女のフィオナが、真っ青な顔で固まっている。
「まあ!」
自然と、両手が胸の前で合わさった。
「ありがとうございます、殿下!」
広間が、しんと静まり返った。
殿下の整ったお顔が、みるみる赤く染まっていく。
「な、なぜ喜ぶ!」
「嬉しいからですわ」
「悔しくないのか! ここは泣いてすがるところだろう!」
「いえ、殿下。私、今年で四十八になりますので」
「それがどうした!」
「そろそろ隠居したいと思っておりましたの」
ざわめきが波のように広がった。
「四十八……?」
「あの方が?」
若い令嬢たちが、扇の陰で囁き合う。
無理もない。鏡に映る私は、どう見ても十八、九の娘だ。聖女の魔力は老いを遠ざけ、魔力が多い者ほどその恩恵も大きい。
ただし、毎朝冷えた祭壇に三十年も跪いていれば、腰くらい痛くなる。そこが悲しいところだけれど。
「殿下も、本当に大きくなられましたねえ」
「は?」
「お生まれになった日に、抱っこさせていただいたんですよ。小さくて、元気いっぱいに泣いて……そうそう、三つの頃には私の髪を引っぱって離さなくて」
「子供扱いするな!」
「まあ。申し訳ありません」
私は素直に頭を下げた。
いけない。つい、親戚の叔母のような気分になってしまう。
この方に恋をしたことは、一度もない。けれど、よちよち歩きの頃から見守ってきたのも本当だ。
ご立派になられて……と言いたいところだけれど。
「で、殿下」
フィオナが震える声を絞り出した。
「私、何も伺っておりません。それに、オデット様の代わりなんて、とても……」
「謙遜するな、フィオナ。君こそ真の聖女だ」
「謙遜ではなくて……」
殿下は聞いていない。
私は小さくため息をついた。
婚約を破棄してくださるのはありがたい。でも、何も知らされていない十八の娘を、こんな衆人環視の場に立たせるのはいただけない。
あとでお説教を……いえ、それはもう私の役目ではなくなるのだったわね。
そのとき、広間の隅で、誰かが小さく笑った気がした。
目を向けると、柱の陰に背の高い銀髪の男性が立っていた。グラスを片手に、まっすぐこちらを見ている。
その唇が、わずかに動いたように見えた。
あら、あの方は――昔、私の護衛についてくださっていた……
「聞いているのか、オデット!」
「はい、聞いておりますとも」
私は姿勢を正した。三十年間王家に仕えてきた礼儀は、身体がしっかり覚えている。
「殿下。婚約の解除には、正式な書面が必要でございます」
「ふん、望むところだ。すぐに用意させろ!」
控えていた侍従が「はっ!」と駆け出していく。
「オデット、隣の間で待っていろ。すぐに書面を交わすぞ」
「……仰せのままに」
私はドレスの裾をつまみ、深々と一礼した。
誰が見ても非の打ちどころのない、筆頭聖女の礼。
――たぶん、これが最後の。
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次回、婚約破棄のその後をお届けします!




