4.
我慢しきれず飛び出した筈の辰昭は、しかしあっさりと頭をモヒカンに地面へと押さえ込まれ、動け無くされていた。
「く、くそっ……」
あまりにも、情けないと彼は自己嫌悪に陥る。大柄な変態どころか、痩せたモヒカン一人にさえ敵わなかった。
辰昭の押さえ込まれている目の前で、シィが二人のモヒカンの手によって、強制的に前を向かされる。
「デヒャヒャヒャ、ヨォク見ておくんだなァ! オマエのお姉ちゃんが、世界一立派なドラゴンにィ、メェロメロになるサマをナァ!」
「お、弟君……っ」
「姉さん……!」
シィはその金色の瞳に、真横で捕まっている弟を映している。そんな彼女の正面に、変態の立派なドラゴンがゆらゆらと迫り来る。
「見れ! ホラ見れ! 見れ見れ!」
その鎌首がシィの目前に迫る。辰昭はそれを阻止したくとも、身動きがとれず為す術がない。
「そもそもォ! コレが見たいんでしょォアンタらはァ? いとも容易く魔族領域に入り込めるって、つまりそういうコ・ト、よねェ!? な・の・に、なんなのォその態度ォ!」
「(くそったれでごぜェやす……! このまま、姉さんがあいつに汚されるのを、黙ってみてるしかないってんですかよォ……!)」
無力だった。自分は、姉に守られてばかり。子供の頃に助けられ、育てられ、守られて。そうやって愛情を享受しながら、しかし一方的で、返すことができない。
そんな己に、辰昭は失望する。愛を知る事ができたのは。幸せに暮らせていたのは、姉のおかげ。間違っていたのは自分ではなく、母の方だったと気がつくことができたのも、姉のおかげ。なのに。そんな姉の危機に、何もできない。
辰昭は思う。
ふざけるな、と。
発生した衝撃。それに、辰昭を拘束していたモヒカンが吹き飛ばされる。
「オブブブブ!? ナ、ナニよォ!?」
辰昭は怒っていた。変態の集団にだけではない。実は間違いだらけだった自分の母にだけでもない。――その怒りは。他の何でも無い、彼自身に向けられたものだった。
「それ以上、姉さんに近づくんじゃねェですよ!!」
辰昭は立ち上がり、変態へと飛びかかる。
彼が自らに向けた怒りは、自身を包む黒い炎という形で現出する。自らに鞭を打ち、発破をかけるような黒炎。それを纏いながら、彼は恐るべき俊敏さと共に、ボスである変態の腹に渾身の拳を叩き付けた。
「ヲゴォ!?」
それは辰昭からすれば、ただの悪あがきのような一発の殴打のようなものだった。
しかし、実際の結果は平常に非ず。人間一人が出せる衝撃力の何倍もの破壊力を発揮したそれは、変態の腹に深々とめり込み、そして吹き飛ばした。
変態の重量級なその身体が、まるでボールのよう。宙を舞い、そして――その股間を、先ほどまで彼が立っていた銅像に強打する。
銅像は木っ端微塵。変態は、広場の地面に何度かバウンドして、さらにその奥の家屋に叩き付けられた。
「今、のは……!?」
辰昭は、直前まで自分の変化に気がついていなかった。無我夢中で姉を助けたいと起き上がり、殴りかかっていた。
そうしたら、普通ではびくともしないであろう巨体が、吹き飛んでいた。何が何だか分からないが――ふと気がつくと、自分の中で何かが燃える感覚。そして、それが表出するように、自分を黒い炎が覆っている。
「イ、イギェエエエッ!? アダイの立派なドラゴンがァ!!」
その悲鳴に、辰昭は吹き飛ばされた変態を見る。すると、彼は股間を押さえてのたうち回っていた。銅像と立派なドラゴンがごっつんこしたのだ。当たり前だろう。
「ベ、ベニの親分ーッ!?」
「テキショー!! 覚えてやがれィ!!」
モヒカン達が、撤退していく。その数十数名。何人かで未だ苦しんでいる親分を運びながら、見事なまでの逃走だった。
「はぁ、ふぅ……」
逃げていくその姿を見ながら、辰昭は息を整える。何が何だか分からないが、これで姉への危機は去ったことだろう。
――しかしまだ。彼が一息つくには、早かった。
「お、弟君……」
「――ッ!」
辰昭ははっとなって振り返る。すると、そこにあったのは不安げな姉の顔だった。
未だ、自分からは黒い炎が上がり続けている。まるで得体の知れないものを見るような彼女視線。
辰昭は――ショックを受けた。
「あれ、人間か……?」
「いや、でも、あの魔力は魔族じゃ……?」
だが、今直面している状況は、それだけではなかった。
道中、姿を隠すローブは投げ捨てている。となれば当然露わになる、角も鱗も翼も尻尾もない姿。魔族が本来持っているはずのものが無い容姿。
奇異の目。拒絶の目。侮蔑の目。魔族が、人間に向けて然るべきなその視線に。辰昭は、自らを疎んじていた母親のことを思い出した。
「――ッ、待って!?」
辰昭は、その場から脱兎のごとく走り出した。静止を求める姉の声にも耳も貸さず。黒い炎の火の粉だけをその場に散らし残しながら、夕闇の中へと消えていく。
黒炎は、その闇の中に紛れるには、一切何の邪魔にもならなかった。
◆
一部始終を見届け、一段落ついたと俺はソファの背もたれに身を預ける。ある程度流れを誘導したのは間違い無いが、想定した結果に収まってまずはよかった。
「ほー、転移の際に辰昭君が魔力を扱えるようにしたんですねぇ」
足を組み、ポップコーンをもそもそ頬張りながら、アクマが感嘆の声を漏らす。――そのポップコーン、一向に山が減ってるように見えないのは俺の気のせいか?
「この先必要になるからな。今回のこれは……まあ、チュートリアルのようなものだ」
「ほお、チュートリアルですか」
実は、転移させた段階で、辰昭少年は既に魔力を扱える状態ではあった。しかし、実際の所は先の使用が初めてである。
数十年の間彼が魔法を扱えなかったのは、そもそも元の世界にそんな概念がなかったためだ。人間が仮に尻尾を生やしたところでどう動かすか分からないのと同じように、最初から無かったものが生えてきたからとて、それがすぐに扱えるわけではない。
だから、俺は敢えて辰昭少年と、その身近な人物であるシィを危機的状況に立たせた。その結果が、今の光景だ。
そして、彼は見事俺の期待に応えてくれた。魔法とは、精神――意思と強く結びつく力であるのが、この世界のルール。想いと魔力が結びつき、現象を引き起こす事で発生する。
本能、というものは実に便利だと思う。その無意識が、身体の奥底にあった可能性を呼び覚まし、表出させたのだ。そうして今、現状を打ち破るパワーと、黒い炎を呼び出した。
無論、魔力を使いこなせるまでにはまだまだ至っていないだろう。しかし、これは自転車の修練と同じだ。一度感覚を掴めば、二回目以降のハードルは低くなるのと同様の事である。
「――今更ですが、随分独特な話し方になられましたね、彼」
「なんというか――シィのしゃべり方が中途半端に移った感あるな」
「ともかく。ここから、カミサマがこの世界を守る本格的行動が始まるということですね?」
いつの間にか、アクマの手にポップコーンは無い。代わりに、組んだ足に肘を置き、頬杖を付いてこちらを灰青色の瞳で見つめてくる。
猫のように細められた眼差し。そこから、何か底知れぬ得体のしれなさを感じ。俺は、心臓がきゅっと締め付けられるような感覚に陥る。
「な、なんだよ……」
それは、最初に見せた時のような氷のような雰囲気のようで。しかし、それとも微妙に異なるような、なんとも形容しがたい感覚だった。
ただ一つ言えるのは、そこに所謂“悪魔的”邪悪さは感じないという事だ。
だが、悪辣さを感じない一方で、それ以外のマイナス感情を複雑に混ぜ合わせたかのような。しかしそれでも、優しく包み込むような。一言で言い表す事のできない、暗闇で息を潜める手負いの慈母のような、よく分からない雰囲気を、その眼から感じる。
「いいえー? こんなのでこの先大丈夫かなーと思いまして」
「――知らねぇよ。生憎、未来を読むような能力は持っちゃいない」
アクマの視線を見ていると、何だか気をおかしくしてしまうような気がして。俺は目をそらしながらそう答える。
――こいつは本当に、ただ俺を遊びたくてこのゲームを提案してきたのか?
「確かに! そりゃあご尤もですなぁ!」
アクマの纏う雰囲気が、両手をぱちんと打ち鳴らす音と共に元に戻る。先ほどまでのおどけた、どこか掴み所の無い少女のものに。
「それじゃあ、チュートリアル終了記念に鍋でも用意しましょうか!」
「何で鍋なんだよ。今冬だったか?」
「さっきケーキは食べましたんで? お鍋もおいしーですよぉ? 今回はお出汁の代わりに、溶かしたチョコレートを使いまして。具材にはフルーツやビスケットなどを使います!」
「知らないようだから教えてやるが、それはチョコレートフォンデュっていうんだぞ」
指摘してもなお、突如目の前に現れるテーブルと土鍋。フルーツとビスケット。――和風の容器にがっつりチョコレートが入っておる。違和感すげぇ。
「ささ、お熱いウチにどうぞ!」
「糖質に、脂質に……デブまっしぐらだな」
そうは言いつつも、折角用意してくれたのだからと、俺は箸(あくまで鍋のようだ)で、カットされたリンゴをチョコレートにくぐらせる。
我ながら、何をやっているんだろうと思う一方で。浮かんでくるのは、先ほどのアクマの顔。眼差し。
少し落ち着いたからだろうか。それとも、別の行動を挟んで思考が整理されたからだろうか。あの表情から一つ、感じられたものに思い至る。
「ぎえーっ! チョコレート跳ねた!? あちぃ! タスケテカミサマ!」
あれは、冷たい風に吹きさらされ摩耗しきった、そんな心の人間がする表情そのものだった。




