2.
辰昭は、ゆっくりと目を開けた。
視界に映る天井は、彼のよく知る薄暗いボロアパートのそれではない。寝起きのぼーっとした頭。混乱が静かに心の水底で細波を立て、辰昭のその呼吸を慎重にさせる。
「(ぼくは……)」
辰昭は、意識が閉じる直前の事を思い出そうとする。混濁した意識下の、曖昧な記憶。栄養不足の頭に浮かんでくる光景は、ひんやりと静かで、暗い悪夢以外の何物でもなかった。
辰昭は、気怠さを強く残しながら上体を起こす。違和感。固い床の上ではない。布団が敷かれている。しかし、それだけではない。
その身体は、ベッドの上にあった。彼の人生の中で、初めて経験するそれ。存在は知っていて、しかしテレビの向こうでしか見た事のなかった、憧れの寝具。辰昭はそれに目を丸くし、そして、状況のつかめなさに尚更混乱を深めて行く。――と、
「ん――……うぅ……?」
声。辰昭は、それで自分の脇に顔を伏せて眠っている人物の姿に気がついた。
外見は十代半ば。さらさらとした、きめ細く長い銀髪の少女。雪のような肌の、まるで子鹿のような愛らしい顔で。長い睫毛はさながら、うっすら積もった雪の結晶のようだった。
しかし、儚げな容姿よりも彼の目を引いたものがあった。
それは、角。頭部の両側に、文字通り悪魔のような黒い角が生えていたのだ。
そして、その身体を包む衣服は、現代日本とは趣の異なる、状態のやや悪い布のワンピースだった。そして、そんな衣服の肩甲骨部分から、一枚の蝙蝠のような翼が生えている。
一対ではなく、一枚。まるで、片方の翼は忽然と、欠けたように存在していない。
――そんな少女の、金色の瞳が、ゆっくりと開かれる。
「…………」
「…………?」
少女、少年を目に映す。
「え、えっと……」
「ん、ぅう……?」
目を二、三度ぱちくり。
「お、おはようございます……?」
「…………――――」
少女の目が、満月のようにまん丸と開かれる。
「あぎゃああああああああああああああああああああああああああああああーーーーっっ!?」
その瞬間。建物全体を震わせる叫び声が、響き渡った。
「おおお、おお、起きたぁああああああああああああああああ!? 目を開けてる!? 息してる!? 目を開けてる!?」
「あの……」
辰昭は、何を言うべきか困りながらも声をかける。すると、少女は大して広くはない部屋の壁までしゃかしゃかと素早くバックしていく。
「しゃしゃしゃ、喋ったぁああああああああああッ!?」
ゴンッ!
「ぐえっ――……げぇっほ、ごほっ! ごほっ!」
飛び退いて、壁に後頭部をぶつけ。そして喉を詰まらせ、えづく少女。ものの見事な自爆と言っても過言では無かった。
「はーっ、はーっ、はーっ……び、びっくり、した……」
ぶっちゃけ。現時点で世界一弱い生き物であろう事を、辰昭は自覚している。意識も未だ朦朧としているし、身体に力は入らない。何より子供。子供は大人に絶対勝てない事をよく知る彼としては、自分より無力な存在など他にいないと、正直思っていた。
その筈が。そんな自身を、まるでこの世を終わらせる怪獣でも見たかのように恐れ、惑い、混乱を極めているこの少女。
「だ、大丈夫……?」
この日彼は、恐らく人生で初めて、恐怖以外の感情から気遣いの言葉を口にした。
「うぅ……もうやだぁ……」
驚いたからなのかなんなのか、膝に顔を隠してめそめそと泣き出す少女。辰昭はどうしたものかと思い悩む。
――思い悩んで数分。雰囲気、落ち着いてきたなと思ったところで、辰昭は再び声をかけた。
「え、っと……ここは、どこ、なの?」
少女はびくりとまた大げさな反応を示す。だが、先ほどのように飛び退くことはなく。伏せた顔をゆっくりと、様子を伺うようにして上げた。
「わたしの、家、です……」
とりあえず、母と違って会話は成り立ちそうで、辰昭は内心安堵する。
「ぼくは、自宅にいたはず、なんだけど……あなたが、連れてきたの……?」
「自宅……? あなたは確か、そこの道の脇に倒れてて……。はっ、もしかして、道に住んでて……!? すみませんっ! すみませんっ!」
「や、そんなところに住んでないです……」
何だか、一挙種一投足に怯えられている気がする。まるで自分を見ているような気がして、辰昭はなんとも言えない気持ちになった。
――それから、辰昭は少しずつながらも、少女から現状に関する話を聞いた。
ここは人間と、それから魔族の存在する世界なのだという。両者は長いこと敵対しており、そしてここは、そんな魔族が住まう地域。その端の方に位置する場所であるということだ。
それを語る少女もまた、魔族。名前を、シィ、という。
正直、辰昭は話を半分も理解出来なかった。しかも結局、どうして自分がそんな場所にいるのかは不明で、疑問の全てが拭えたとは言い難い。
しかし、この会話で少しずつ、両者の距離は縮まった。そしてその流れで、辰昭はシィに、自身の身の上を語る。
尤も、それは辰昭から口にしたのではない。全身の痣や、タバコの押しつけられた跡。それを手当の際に見ていたシィが、尋ねた事によるものだ。
「だから、ぼくは……ほんとうは居ないほうがよくって。きっとお母さんも、今は喜んでいるんじゃないかな」
「…………」
あれほど怯えていたシィが。辰昭を抱きしめた。
「え……」
辰昭は困惑する。こんなに優しい触れ方が、世の中に存在したのか、と。
「……辛かった、ですね」
「そんな、僕は……」
自分は、罰を受けて当然の人間だと、辰昭は言おうとした。自分の存在が、母の重荷になっている。いつも、そう言われてきたのだから。
「大丈夫、ですよ。好きなだけ、ここに居て、いいです」
シィは一度辰昭を抱擁から解放した。そして両手を握って。金色の、まるで月のように美しい眼差しで、彼の瞳をしっかりと見据える。
「ここは、他の誰もやって、来ませんから。人間は勿論、他の魔族も、離れたところ、に、住んでいるので、滅多に来ない、と思います」
だからもう、誰かの重荷になることに、怯えなくていいと。シィは優しい笑みで辰昭に諭す。
「それでも、シィさんに迷惑を……」
辰昭は今、彼女から、魔族と人間は敵対関係にあると聞いたばかりである。シィが人間である彼を怖がったのも、それが理由である事は、例え幼くとも察する事ができるというものだ。
しかし、シィの強い意志を持った眼差しは、変わらなかった。
「お姉ちゃん、です」
「え……?」
人間をかくまうことに、メリットなど皆無である筈なのに。シィは、冗談や気の迷いとは全く異なる雰囲気でもって、辰昭に宣言する。
「今から、わたしがあなたの、お姉ちゃんになり、ます……! わたしは、お姉ちゃんです、から。家族――弟の事を、重荷になんて、思ったり、しません……!」
「お姉、ちゃん……」
辰昭は困惑しながら繰り返す。ぶっちゃけ、何がどうしてそうなったのかまるで分からない。
だがそれでも、これまでずっと母の顔色をうかがい続けて来た辰昭だから分かった。その優しさは。愛は、決して嘘偽りでは無いと。
「うん……それじゃあ、よろしくお願いします。お姉ちゃん」
シィは、やわらかな笑顔で辰昭に答える。その瞬間は、彼にとって人生で一番、解放のすがすがしさを感じる一瞬だった。
◆
「あのシィ、という魔族の娘は、所謂特異体質で魔力を持っていない。それで周囲と馴染めず、街から離れて暮らしてるんだ」
テレビで、辰昭とシィ、二人の暮らしが始まるその瞬間を見ながら、あたたかい気持ちに居ても立ってもいられず、アクマにそう漏らす。
「つまり、この展開は予想通りだった、と?」
「まあ、何でいきなりお姉ちゃんになったのかまではわかんないけどな。でも力なく、そして馴染めず離れて暮らさざるをえなかったシィ。虐待を受けていた辰昭。絶対にこうなる、って確信は無かったけど、少なくとも放っておけないとはなるとは思ってた」
魔族の魂も、その根本は人と同じものだ。境遇の近い相手を全くの他人事と思える人物は稀だし、魔族の在り方に馴染めないならば尚更だろうと思ったのだ。
結果、シィは辰昭を迎え入れ、共に穏やかに暮らし始めた。その数年の光景が、目の前のテレビで繰り広げられていく。ちょっとしたハプニングをスパイスに、種族違いの姉弟は、平穏な生活を送っていく。
「だ~めなんだ~だめなんだ~、カミサマが個人に入れ込んじゃったらだめなんだ~♪」
アクマは、からかうように俺の行動を指摘する。だがどちらかというとその発言は、人助けなんてやっててゲームに勝てるのか、と言っているようにも思える。
「確かに境遇に同情したところはあるけどな。けども、似た境遇の二人を会わせ、信頼できる相手を作ってやるってのは、まあついでみたいなものだ」
「ついで?」
「ウィン・ウィンの関係って素晴らしいよな。ほら、よく言うだろ。日本のバレンタインデーは、企業がチョコ売りたいがための戦略だ、って。だからそれに乗せられるなんて馬鹿らしい、みたいな事をさ」
「日本、っていう国が存在する世界の話ですねー。あ、チョコ差し上げましょうか? アクマちゃん特性、100/1スケールの超でっかいやつ」
無視。
「――何が言いたいかっていうとだな。互いにメリットがあるんだったら、それは決して悪い話じゃねーって事だ」
俺だって、まずは帰りたい。少し身も蓋もない言い方をすれば、うまく利用し合えばいい、という事である。今回の俺の行動も、そういった類いのものと言える。
「企業はチョコレートが売れる。消費者はこれを機に想い人に想いを伝える。感謝チョコ、ってパターンもあったか? ただ単にうまいチョコが手に入るってのでもいい。とにかく、裏があるから必ずしも悪い、ってことじゃ決して無いって事だ」
俺にとっても、辰昭とシィの事は同じ事だ。まあ、彼らは俺達の事は認識しているわけではないのだが。何れにせよ、これは互いに利のある事以外のなにものでもない。
きっと、今鏡を見れば、俺はかなりのしたり顔をしていると思う。そんな顔をしながらアクマの方を振り向いて――思わずぎょっとした。
「端的に言えば、これもカミサマなりの戦略って事ですね? もぐもぐ」
「振り返ったら口の周りチョコ塗れにしててビックリだわ……」
子供でも、もう少しお上品に食べる事だろう。口や頬を茶色に染めて極太チョコバーをむさぼってる姿なんて、アニメか漫画でくらいしか見たこと無い。
「いやぁ、チョコの話されたら食べたくなっちゃいまして。どーもお見苦しいところを」
そう言ってアクマは、チョコバーを食べきってから、ウェットティッシュを取り出して口周りを拭いていく。
アホは無視して、俺はテレビの方へと再び目を向ける。
――あんな事言っておいてなんだが、ここからあの二人には、少しだけ辛い目にあって貰わねばならない。それが少しだけ、心苦しい。
それを思うと、カミサマなんて人間がやるものじゃないなと、俺は思った。こういうのはきっと、人でなしが向いている。




