1.
少年は、愛というものを知らなかった。
きっと、遠い昔……昔と言っても、僅か8歳の彼では相応の長さでしかないが。世界に生を受けた直後には、そういう時もあったのかもしれない。しかし、生まれて直後の記憶は当然無く、今刻まれているのは、母の怒鳴り声と暴力の記憶のみだった。
偶に与えられる、残飯のようなモノをむさぼり食い。機嫌を損ねぬよう母の居ぬ間に蛇口をひねって出てきた水道水でなんとか喉を潤す毎日。いつからか、自宅に閉じ込められ。人と会うことはなく。今はただ、孤独の中に延々とうずくまっていた。
そんな日々の続いたある日。無性に眠気に駆られた彼は、目を閉じた。強烈な睡魔が、彼を襲った。
――もはや聞き飽きるほどに聞いた、“ウムンジャナカッタ”という呪いの言葉。それに対して浮かぶ想いは、怒りや恨みではなく、『生まれてきてごめんなさい』という懺悔のみ。
少年に、母を恨むという概念は存在しない。あるのは、ただの恐怖と愛情への渇望。恐怖を、罪悪と混同し。そしてその世界で、最期にそう言葉を残そうとした。
だが、碌に力の入らぬ喉に、言語を紡ぐ活力は残されていない。
今際の際に、捧げようとしたその言葉。それすら、誰にも認知される事無く。少年は、その世界を離れる――……、
「大丈夫ですか!?」
少年は、意識の遠くで声を聞く。
それは――彼には聞き覚えの無い声だった。
「酷い……なんで、こんな――え、に、人間……!?」
少女の声だった。気弱げな、どこか消え入りそうな。とても不安げで、そして、どこか恐怖を滲ませている。
「――っ、でも……ッ」
声の主らしき少女の手が触れる感触を少年は感じ取る。霞む目では相手を確認できないが、細く、少しだけひんやりしたその指は、彼が今まで感じたことのない優しさを心に沁みさせた。
「え、っと、まずは意識の確認――大丈夫、ですか? 自分の名前は言えますか……!?」
名前。少しだけ、少年の視界に、光が戻って来る。
彼は酷く、久しぶりに思った。そういえば、そんなものがあるんだったと、聞かれて思いだしたほどに、それを想起する事は今までなかった。
「――だ、た――……」
彼は、答える。
「え……? も、もう一度、できたらお願いしま、す……!」
真田 辰昭と。自身の、その名前を。
◆
彼は、自らの名を名乗った後、力尽きたのか意識を失ってしまった。
だが、死んでしまったわけではない。ただ、安心できる状況だと直感で理解し、自分の元へと来た少女に自らを任せたのだろう。
俺は――カミサマルームのソファに腰掛けながら、ほっと胸をなで下ろす。彼は本当に、衰弱死する寸前だったのだ。もう安心だろう。
「――えっ、魔族の住処に人間の男の子送ったんです?」
そう。彼女が今言ったとおり、俺は人間の少年を、その人間と敵対している筈の魔族の住処に送り込んだのである。
まあ、そういうわけなのだが。それはともかく。
「いい加減、突っ込んでいいか……?」
そんな光景を。何故かアクマは俺の隣で寛ぎながら、目の前に大型テレビを出現させ共に見ていた。
「え? カミサマTVですけど?」
「クッソダサい名前の事を聞いてるんじゃなくって! いや、それも気になったけど! 何で! お前まで! 見てるんだよ。敵だろ、一応!」
まるでホームシアターでも見るように、しっかりとポップコーンのカップ片手に、アクマは俺の所業の結果を見ていた。ここまで堂々と敵情視察するヤツなど見た事無い。
「知らないところで見てた方がよかったですかね?」
「そもそも見るなって話なんだよ」
「エーン、カミサマがイヂメる~」
ここまで見事な嘘泣きも初めて見た。この一連の行動は何のアピールなんだ。
「まー、絶対見るなって言われたら見ませんけど。ワタシだって暇なんですよー」
「お前はお前のやることやってりゃいいだろ」
「そー言われましても、今のところないんですよねぇ。そもそもホラ、このゲームって基本的に住人任せですから。一先ず準備が終わったら、後は成り行き見守るだけですし」
実際、俺もしばらくは事の成り行きを見守るだけで、他にやることは無い。まるで放置系のシミュレーションゲームに近く、こちら側で何もしない時間も多くなる事だろう。
「固いこと言いっこなしにしましょーよー。こっちが何かした時もお見せしますからー」
交換条件のように言われたそれに、俺は口を噤む。実際のところ、カミサマ初心者の俺がしている事がバレるより、熟練者? なアクマの動きが見られた方がいいに決まっている。しかも、言い方的には無理強いする気はないようだし。
「――ホントに見せたくないような所になったら見るなって言うからな」
という形で、俺は承諾する事にした。
「ひゃっほーい! ワタシ、カミサマだーい好きぃ!」
「ポップコーンが散ってるんだよぉ!?」
女の子に抱きつかれる、というシチュエーションだけ見れば、自分のような女性経験の薄い者には赤面もののちょっとした事件だが。それを上回るカップを持ったまま故に起こるポップコーン散乱事件の発生に、そんな間も無くなる。本当に、随分となれなれしいアクマだ。
「えへへぇ。まあ、もしホントに見られたく無いなら、心の中で見られたくなぁ~いと念じていただければ」
「そん時は見るなよ。絶対見るなよ」
「フリですかね?」
「見た目だけかもしれないとはいえ、仮にも女の子に暴力は働きたくないんだがな?」
「うひぃ!? 怖いですってカミサマ! これあげるから許して!」
――ひとしきりハグしたあと、ポップコーンをひとつまみ俺の口に押し込んできてから、アクマはソファに座り直す。……口の中にキャラメルの味が広がった。
「しかし、実際に何で魔族の住処に人間の子を? この世界では、両者はめっちゃ仲悪いですよ? 見つかったら殺されちゃってもおかしくないでしょうに」
せめて、魔族に転生させる形で送るべきだったのではと、アクマは言う。しかし、俺はそれを“敢えて”しなかった。
「知ってるさ。でも、何もやぶれかぶれでこんな事してるわけじゃない。俺は大真面目に、この世界全体の状況を鑑みてこうしてる」
「……人間の可哀想な子供を見たところで、魔族全体が人間に対し博愛の心を持つことはありませんよ?」
「幾ら何でもそこまで脳内がお花畑なつもりは無いさ」
「ふぅん……? ちなみに、目的をお聞きしても?」
「言うわけがないだろ」
アクマは『ですよねぇ』と言うと、顎に手をやり、僅かにテレビへと姿勢を傾ける。まあ、今見たところで、俺の狙いは分からないだろう。
「――うまくやってくれよ、辰昭少年」
しかし、結局の所それは、彼の活躍次第。あくまで俺は、可能性から希望的観測を割り出して人選したに過ぎない。
つまるところ、現状は祈るしかない、ということだ。カミサマが人間に祈る。それはなんとも、滑稽な話だと俺は思った。




