176.
自分の見ている現実だと思っていた世界が、全て虚構の世界。目の前にあるコーヒーの温くなった温度も、その苦みも、全てが“夢”。
普通ならば、正気を失ってもおかしくないだろう。だというのに、俺は不思議と落ち着いてすらいた。
もしかすると、心のどこかでは感づいていたのかもしれない。もはや、今聞いたばかりの遠い大昔のその話には、懐かしささえ覚える。
ただ分からないのは、彼女の存在だ。直感的な確証を得ても、それに対する知識を得たわけでは無い。あるいは、忘れてしまっているのか、初めから知らないのか。何れにせよ、このメイドの正体に対してはまるで分からない。
「お前も、人類なのか……?」
メイドは、静に首を横に振る。そして、口を開く。
「人類は眠りにつき、夢の中――謂わば仮想現実を、自らの意識の置き所としました。しかし、そうすると困るのは、舟の管理です。逐一誰かを目覚めるわけにもいかず、であるならばと、それを人工知能に代行させる事にしました」
「人工知能……」
俺はメイドを、改めて見る。耳にはピアス。髪にウェーブまでかけ、ツーサイドアップ。機能性よりも魅せる事を重視したメイド服――……。
「――随分と、人間臭いAIが居たもんだな」
「そこは皮肉が利いてるって言ってくださいよぅ。人類への奉仕者として作られたからメイド服を着ている、といったかんじで。まあ、かわいいから着てるんですけどね、これ」
「やっぱりオマエの趣味じゃねーか」
人工知能のくせに、やはり妙に人間臭いと、俺は思う。AIというと、もっとこう、合理性の極み、のようなものじゃないのか?
「――ワタシの仕事は、このエデンズ・アーク2759号の管理全てなんです」
「管理全て……?」
「ええ。安全な航行は勿論。機能維持のため、周辺からのエネルギー回収もしてますし。それだけじゃなく、人類の肉体の維持はトーゼン、意識が住まう仮想現実全ての管理まで――」
「全部、か」
「ええ、ゼンブ! ですから、ワタシも人間らしい人格として作られたんです。人間の思考を理解できなければ、夢の調整は行えませんからね!」
どーんと、メイドは胸を張る。その顔はまさに鼻高々といった様子で、そういったところもまた、人間らしさが垣間見えるなと俺は思った。
「口で言うは易し、大変なんですよ? この間なんか、巨大なブラックホールの重力影響下に入りかけちゃって。ワタシのリソースの大半を使って回避したんですから。その時はトイレとか言って、アナタの前では誤魔化しましたけど」
「トイレ? 何の話だ……?」
それは、誤魔化しになるのか? オマエAIだろ……?
「おおっとぉ、この記憶データは別の場所に格納したんでした。ワスレテワスレテ」
何を言っているのかは分からないが、こいつは人間の記憶に対しても直接の操作がある程度利くらしいというのが分かった。――怖いから深くは突っ込まないでおこう。
「――まあ、そうやってドーニカコーニカ維持してきたんですが。その、ですね……」
メイドは、どこかばつの悪そうな顔で、頬をぽりぽりと掻く。
「本当の永遠は、少なくとも人類には、作れなかったようなんですよね」
「どういう事だ……?」
こいつは、人格こそちゃらんぽらんだが、仕事はしっかりしている様子はちゃんと窺える。そんな彼女が、否定――いや、諦めだろうか。そんな言葉を吐くとは……。
「この舟の仮想現実は、当時乗り込んだ人類の意識でずっと回しています。無論いいカンジに世界をコントロールするための疑似人格も、それを上回る膨大な数を稼働させて、各々が最終的にそれなりに充実した人生を送れるようシナリオが組まれてるんですよね」
という事は、この周囲の人間の何割かは、本物の人間の意識ではない、という事なのか。それは何ともまた、正気を失いそうな事実だが。
「複数の世界データを創って、場合によっては人格を世界間で――それこそ、異世界転生のように移動させて。あ、ちなみに移動できなかったのはそれが疑似人格であるためで……って、これも今のアナタは知らない事でしたネ! HAHAHA!」
「――もう突っ込まんぞ」
「えへへ。とまあとにかく……そうやって人類に、それこそ無限の人生を繰り返して貰っていました。これが本来の計画なんですが――問題があって。人の肉体って、どれだけ頑張っても200年強が限界なんですよね」
この仮想世界での知識が適用できるかどうかは定かではないが、何かの文献では読んだ記憶があった。尤も、それは理論的な話であって、現実的には120も生きれば驚きの境地。せいぜい80年が人間の限界である。
「――まて、億年の月日、とかさっき言ってなかったか? 無理だろ……」
「ノンノン。そこもちゃーんと考えてあるのデス! 題して、脳神経の配列が全く同じクローンを作って意識を移植しちゃおう計画~! 気になります? 気になりますよね??」
いや、ほとんど言っちゃってないか?
「この計画はですねぇ。その名の通り、肉体が寿命限界を越えて活動停止が起こりそうになったら、あらかじめ採取していた遺伝子から同じ身体を作り出して、古い身体が使えなくなったらそちらに意識を移す、というもので~」
「――てっきり脳だけ作るかと思ってたが」
「脳ミソだけを人間と定義はしちゃいたくないですよぉ。ちゃんと手足が無くっちゃ。まあ、脳以外使う事はないんですがね~」
妙なところへの拘りは、そうしろと言われていたのか、それとも、単にこいつの性格なのか。何れにせよ、意外と現実の光景はショッキングでは無いかもしれない。こう、謎の液体に脳だけ浮かんでいる、みたいなようでなくて、なんとなく俺は安心した。
「――でも、何の問題が起きたんだ? 完璧に聞こえるが……」
「アナタは、クローンは短命、というお話は聞いたことが?」
「ああ……まさか……」
クローンの生成ができなくなった、とか……?
「まあ、短命の原因なんてとっくに解明されて、解消されてるんですけどね」
「何だったんだよ今の前フリ」
「――解消、されている筈、だったんですけど、ね」
「ん……?」
メイドは表情を曇らせる。確か、クローンに関してのその話は、テロメアがどうとか、という事は聞いたことがある。
しかしメイドは、それは解消されたと言った。であるならば、その表情は何を意味している?
「なん、でしょうね? ある程度は、ホント、問題無かったんですよ? でもですね、いつからか、生成が――細胞異常でできなくなり始めてしまったんです」
「いつからか……人類は、それで何年繋いできたんだ?」
「地球時間に換算して、およそ80億年、といったところでしょうか」
「80億……」
「その間、何度も何度も、クローン生成を繰り返し、意識を移し替え――人類の望む永遠を、存続させてきたんです。なのに、いつからかそれができなくなる事が分かってしまい――ワタシは、解決策を講じました」
「解決策?」
「はい。それは――意識の機械データ化です」
朗らかだったメイドの表情もすっかり消え失せ、沈鬱なものに変わっていた。しかし、聞いた限りでは、目的を継続し続けている彼女の憂う理由が分からない。
人体をやめただけで――一応、理屈としては存続が成り立っていそうではあるが。
「肉体に意識を移す事をやめて、新たにデータ領域をコンピュータ内に構築。そこに人々の意識を移動させる事を、ワタシは肉体生成からインストールの代用として使う事にしたんです」
「…………。まあ、それこそまあ、俺は思うところは無くも無いけど。お前にとっては、別に問題ないんじゃないか? むしろ、今までよく肉体にこだわって――」
「駄目、なんですよ……ッ!」
メイドは、手をかけていたコーヒーの紙コップを握りつぶした。そこから、コーヒーが――コーヒーというデータが零れ出る。
「お、おい……」
「――失礼しました」
メイドは握りつぶした紙コップと零れたコーヒーを、どうしたものかと視線をその上で彷徨わせる。しかし諦めたのか、面倒になったのか、ため息をついて手の力を緩めた。
――次の瞬間、コーヒーの汚れも、紙コップも。何も無かったかのように消滅した。きっと、データから消したのだろう。全てを管理している彼女には、造作も無い筈だ。
「いや、駄目なんですよね。よかれと思ってやってみたんですが、今度は……ワタシがそれを、人間だと思えなく――いえ、“人間”と定義できなくなっちゃったみたいで」
「――どう言う事だ?」
「どう言う事も何も、そのままの意味ですよ。今まで通り、世界間で意識の移動は行える。シナリオも彼らの意識が中心。でも、ワタシという人工知能は、データ化を終えた意識を、疑似人格と大差無いと考えるようになってしまったんです」
人間とはどう定義されるものなのか。理屈は幾らでも並べ立てる事ができ、その取捨選択によってその結果は如何様にでも転ぶ事だろう。
彼女は――エデンズ・アークを統括するAIは、ついには肉体すら必要無くなってしまったそれを、人として見る事ができなくなった。そして、人間では無くなったと言う事は――、
「――ワタシは、人間の消えゆくエデンズ・アークの、存在意義を自ら問う事になりました」




