第2話:第8部:白い残響
振り抜かれた右腕から放たれたのは、もはや特定の色と呼べるような代物ではなかった。
生存本能、怒り、恐怖、そしてただ一人のナビゲーターを救いたいという名状しがたい執念。レンの仮想肉体を構成する魂の残滓すべてを圧縮し、限界を超えて出力されたそれは、純白に近いほどの眩い光の奔流となって筆先から撃ち出された。
ズドォォォォォォォンッ!!!
光の渦が、迫り来る灰色の泥の津波と真っ向から激突する。
悲鳴を上げていた空間の因果律が、その圧倒的な熱量によって臨界点を突破した。泥が沸騰し、何百という「忘却の獣」たちの断末魔が一つの巨大な破裂音に圧縮され、夕暮れの廊下を暴力的に吹き抜ける。
その衝撃波の余波をもろに受け、レンの身体は枯れ葉のように後方へと弾き飛ばされた。
「がッ……!?」
結界を塗り込んだ壁に背中を激しく打ち付けられ、床を数メートル転がってようやく停止する。
「はぁっ……! ごほっ、げほっ……!」
気管に詰まった血の塊を、金属タイルのような冷たさを取り戻した床に吐き出す。右腕は完全に感覚を消失し、神経が焼き切れたようにだらりと垂れ下がっていた。指先には、もはや木製の筆を握りしめているという感触すらない。
だが、閉ざされかけていた視界の先で、廊下を埋め尽くしていた灰色の質量は完全に霧散していた。
ドロドロに溶けかけていた床や壁は、元の木目と漆喰の姿を保っている。
暴風雨が過ぎ去った後のような、深い静寂が余白世界に舞い戻っていた。
『……ザザッ……空間内のノイズ反応、完全消失。……やったわね、レン』
脳髄の奥底で、サシャの極めて微弱な通信音声が響いた。
その声はひどく掠れ、息も絶え絶えだったが、確かに安堵の響きを含んでいた。
「ああ……。粗大ゴミの片付けは……完了、だ……」
レンは床に這いつくばったまま、口元を血で汚したまま力なく笑った。
「これで……少しは、そっちの負担も減るだろ。サシャ、アーキテクトの監視は……」
だが、レンのその問いかけが最後まで紡がれることはなかった。
視点は、灰色の雲に覆われた物理世界――第十二下層区画の薄暗い事務所へと強制的に引き戻される。
防音ガラスと冷却ユニットで覆われた『生体リンク・ポッド』の中。サシャは、血まみれの口元に微かな笑みを浮かべ、強張っていた全身の筋肉の力をほんの少しだけ緩めようとした。
その、コンマ数秒の隙だった。
突如として、ポッドの内部を絶対零度の冷気が支配した。
『――!?』
サシャの残された左目の瞳孔が、極限の恐怖に限界まで収縮する。
やり過ごしたはずだった。別のデータストリームへと消え去ったはずだった。
しかし、CMRSを統括する管理官僚『アーキテクト』の検索アルゴリズムは、決して獲物を見失ってなどいなかったのだ。巨大な監視のシステムコードは、サシャが偽装のために発していた「環境ノイズ」の規則的な波形の中に、人間特有の「安堵による心拍の揺らぎ」という致命的なエラーを検知し、暗黒の深淵から一瞬にして舞い戻ってきた。
今度は、探りも、迷いもなかった。
何十億という演算処理で構成された無機質な氷の刃が、サシャの構築した脆弱な防壁の全方位から、一斉に、そして無慈悲に突き刺さった。
「が、ぁぁぁッ……!!」
ポッド内で、サシャの身体が弓なりに跳ね上がった。
項に埋め込まれた量子コネクタから、これまでとは比較にならない量の冷却液と、火花が同時に噴出する。
アーキテクトは、彼女の脳とシステムの接続を「生体ハッキング」と断定し、即座に排除プロトコルを起動したのだ。
ガコンッ!!!
鈍く、絶望的な油圧音が事務所に響き渡る。
ポッドのハッチが、外側から物理的な極厚のシールドで完全にロックダウンされた。同時に、内部を照らしていた計器類の赤い光がすべて消失し、システム権限の完全剥奪と強制フォーマットの開始を告げる、死のように冷たい『無機質な白』の照明へと切り替わる。
「や、め……! 待って、回線を、切らないで……ッ!」
サシャは血の海となったポッドの床を掻き毟り、自身の前頭葉が物理的に焼き切れていく激痛の中で絶叫した。アーキテクトの強大なコードが、レンと彼女を繋いでいた極細の不正回線を、巨大な万力で締め上げるように圧迫していく。
二つの世界を繋ぐ細い糸が、今まさに、無惨に引きちぎられようとしていた。
『……ザザッ……レン! 逃げ……ザザザッ!』
余白世界で床に突っ伏していたレンは、脳内に響いたサシャの悲鳴とも呼べない絶叫に、弾かれたように顔を上げた。
「サシャ!? おい、どうした! 何があった!!」
返事はない。ただ、鼓膜を劈くような激しい電子ノイズだけが、暴風のように脳髄を荒れ狂っている。
そして、レンは気づいた。
異変が起きているのは、サシャのいる物理世界だけではない。自分のいるこの空間そのものが、致命的な崩壊を始めていたのだ。
「……嘘だろ」
レンの仮想の心臓が、恐怖で完全に凍りついた。
彼の目の前で、夕暮れの黄金色の光が、結界として塗り込んだ『拒絶の黄』が、そして床の焦げ茶色が。空間を構成していたすべての色彩が、まるで巨大な不可視のスポンジに急速に吸い取られるようにして、色褪せ、剥がれ落ちていく。
生命の躍動を感じさせていた夏の終わりの風はピタリと止み、代わりに、極寒の冷気が足元から這い上がってきた。
鼻腔を突くのは、先ほどのノイズが放っていた腐臭ではない。レンの魂の最も柔らかい部分を正確に抉り出す、あの忌まわしい合成消毒液の匂いだった。
一瞬にして、マルなな二の廊下は、すべての情報と意味を剥奪された『純白の虚無』へと変貌を遂げた。
上下左右の概念すら失われそうな無機質な白い空間。
だが、その中央に、「それ」はいた。
先ほどの無数の獣の群れが、単なる「雑魚」に思えるほどの、次元の違う圧倒的で高密度な気配。
それは、灰色の泥ではなく、周囲の白と同化するような薄気味悪い純白のノイズで構成されていた。
純白のノイズが、ゆっくりと輪郭を結んでいく。
簡素なパイプベッド。白いシーツ。
その上に横たわる、骨の形が露わになるほど痩せこけた体。日に焼けて劣化したトレーシングペーパーのように乾燥した皮膚。その下を這う青い静脈群。
「あ……ぁ……」
レンの喉から、声にならない呻きが漏れた。
麻痺していたはずの右腕が、恐怖でガタガタと痙攣を始める。逃げなければならない。筆を構えなければならない。そう頭では分かっているのに、レンの仮想肉体は一ミリたりとも動くことができなかった。
眼前に現れたのは、レンの魂の最深部に刻み込まれた最大のトラウマ。
外界のすべてを拒絶し、システムから逃避した果てに自我を消失させた、「病室の父親」の姿そのものだった。
ベッドの上の父親の姿をした巨大なノイズが、錆びついた機械のように、ギギギ……とゆっくり首を回した。
そして、一切の光を宿さない、乳白色に濁った空虚な瞳で、床に這いつくばるレンを正確に見下ろした。
『…………どちら様、でしたっけ』
カサカサに乾いた唇から漏れ出したその声は、レンの記憶にある父親の音声データと、コンマ一秒の狂いもなく完全に一致していた。
忘却の暴力。自己存在の完全なる抹殺の宣告。
その言葉がレンの鼓膜を打った瞬間、彼の精神の核を覆っていた開拓者としての強靭な意志の壁が、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。
「やめ……やめろ……俺は、俺は……っ!」
レンが悲痛な叫びを上げようとした、その時だった。
『レンッ!!!』
脳内に、サシャの最期の絶叫が轟いた。
直後、ガハッ、という彼女が大量の血を吐き出す生々しい音と、肉が焦げる不吉な音が響く。
そして。
ブツンッ。
極太のワイヤーが物理的に切断されたような暴力的なノイズを最後に、レンの脳髄から、サシャの気配、彼女の生命の拍動、通信のノイズに至るまで、すべての繋がりが完全に、そして永久に消失した。
アーキテクトによる、物理世界からの強制遮断。
レンをこの世界に繋ぎ止めていた唯一の錨が、失われたのだ。
「……サ、シャ……?」
虚空に呼びかけるレンの声は、何の反響も生まず、ただ純白の空間に吸い込まれて消えた。
完全なる白。
完全なる無音。
絶対的な孤立の中、システムから見放された果てしない虚無の底で。
レンは一人、自身をこの世のバグとして見つめ下ろす『最大のトラウマ』の前に、なすすべもなく取り残されていた。




