第2話:第7部:忘却の獣の群れ
ドゴォォォォォォンッ!!!
校舎全体を揺るがす轟音の余韻が残る中、レンが振り下ろそうとした筆先が扉に触れるよりコンマ数秒早く、観音開きの扉は内側からの圧倒的な暴力によって木端微塵に弾け飛んだ。
バキバキバキッ!という木の繊維が千切れる凄惨な音とともに、分厚い木片が散弾のように廊下へと降り注ぐ。そして、ポッカリと開いたその大穴から、腐臭を放つ灰色の泥の奔流が、まるでダムの決壊のように雪崩を打って押し寄せてきた。
「チィィッ!」
レンは咄嗟に左腕を顔の前に掲げ、後方へ大きく跳躍した。顔面を掠めた泥の飛沫が、仮想肉体の皮膚をジュッと焦がし、焼けつくような痛みを走らせる。
着地と同時に、彼の眼前で廊下の風景が急速に変貌していった。美しかった木目の床板はドロドロに溶け、夕暮れの光は泥に吸い込まれてどす黒い灰色へと乱暴に塗り潰されていく。
『……ザザッ……防衛線、一部突破された! 正面から多数のノイズが侵入!』
サシャの切羽詰まった声が、脳髄にダイレクトに響く。
「見りゃ分かる! 客の数が想定より多すぎるぞ!」
泥の津波の中から、無数のいびつな形が這い上がってくる。四つん這いの獣の形をしたもの、無数の腕だけで這い進むもの、人間の頭部だけが巨大に肥大化したようなもの。彼らは一様に、底なしの虚無を宿した空洞の目をレンに向け、意味を成さない呪詛を吐き散らしながら一斉に跳い掛かってきた。
『右斜め上、仰角三十度、小型二体!』
サシャのナビゲートがコンマ一秒の遅れもなく響く。レンは視線を向けるより早く、身体を反射的に動かしていた。
床を蹴り、身体を低く沈めながら、右手に握った筆を上方へと鋭く振り抜く。筆先に『赤』の概念――先ほどより出力を抑えた、だが鋭利な生存本能の刃――を纏わせ、空を切り裂く。
ズバァァッ!という空間の引き裂かれる音とともに、赤い斬撃が二体のノイズを両断した。切断された泥の塊は、着地する前にジュワァァッと音を立てて気化し、虚無へと還る。
しかし、安堵する暇は一瞬たりともなかった。
『次! 六時の方向から中型! 床を這ってくる!』
「させ、るかよッ!」
レンは身を捻り、背後から足首に食らいつこうとしていた獣型のノイズに向かって、筆の柄を力任せに突き出した。先端から放たれた論理の干渉波が、ノイズの頭部を内側から爆破する。泥が弾け飛び、腐臭が辺りに充満した。
戦場は、すでに完全なカオスと化していた。
廊下の外側――窓ガラスや壁の向こうでは、レンが先ほど死に物狂いで構築した『拒絶の黄』の結界が、無数のノイズによる物理的・論理的な打撃を受け続けている。
ガンッ! ドガンッ!という重い打撃音が連続し、そのたびに黄色の光がバチバチと火花を散らして弾ける。結界に触れたノイズの身体がジュッと焼かれ、『アァァァァッ!』という凄惨な断末魔を上げるが、後から後から湧いてくる泥の群れは、仲間の死骸を足場にしてさらに壁を叩き続ける。
結界が軋む音、泥が弾ける音、そして空間内に侵入したノイズとの激しい乱戦の摩擦音。それらが混ざり合い、夕暮れの校舎は地獄のオーケストラホールのような轟音に包まれていた。
『左、壁を伝って三体!』
『上、天井から落ちてくる! 回避して!』
サシャの指示は、極限状態にあってなお氷のように冷徹で、そして完璧に正確だった。彼女は物理世界で血を流しながらも、この余白世界の座標と因果律を完全に把握し、レンの眼として機能している。
レンは彼女の声だけを頼りに、前後左右、さらには上下から迫り来る灰色の塊を次々と迎撃していった。
振るう。薙ぐ。突く。
筆を動かすたびに、『赤』の概念が虚空に赤い軌跡を描き、ノイズを霧散させていく。サシャのナビゲートとレンの反応速度は、完全に同期していた。一言の無駄もなく、コンマ一秒のタイムラグもない。互いの命を天秤の左右に乗せ、完全に均衡を保ったまま嵐の中を綱渡りしているような、極限の共闘だった。
しかし。
彼らがどれほど息の合った戦いを見せようと、レンの仮想肉体が抱える「限界」という絶対的な法則からは逃れられなかった。
「が、はぁっ……! はぁっ……!」
十体。二十体。迎撃した数を数えるのをとうに諦めた頃、レンの身体に致命的な異変が表れ始めた。
空間を上書きし続けることによる精神力の摩耗が、肉体への直接的なダメージとなって顕現していたのだ。
視界が、もはやノイズ交じりというレベルではなく、真っ赤な血の色と、デジタルな砂嵐に完全に二分されつつあった。眼球の毛細血管が破裂し、目からとめどなく流れる血が視界を物理的にも塞いでいる。
呼吸をするたびに、肺の奥からヒュー、ヒューという、壊れた楽器のような音が鳴る。仮想肉体のエネルギーが底を突きかけ、自己の存在確率が希薄化し始めている証拠だった。
「……ッ、ぁぁ……」
レンの右腕が、唐突に言うことを聞かなくなった。
手首から肘にかけての筋肉が、まるで内側から高圧電流を流されたようにビクビクと激しく痙攣し、筆を握る指先から感覚が完全に消失した。木製の柄を握っているという感触がなくなり、まるで筆と自分の手が、不気味な一つの肉塊として癒着してしまったかのような錯覚に陥る。
『レン! 右から大型が来る! 回避を……レン!?』
サシャの警告が響いたが、レンの身体は泥沼に足を取られたように動かなかった。
ドゴォッ!
背後から迫った巨大なノイズの質量が、レンの背中を容赦なく撥ね飛ばした。
「がッ……ゴブッ……!!」
レンの身体はボールのように廊下を吹き飛び、結界が張られた窓ガラスに激突して床に叩きつけられた。全身の骨が粉々に砕け散ったかのような激痛が走り、口から大量の血の塊を吐き出す。
『レンッ!! バイタルが急低下している! 応答して、レン!!』
サシャの声が、初めて冷静さを失い、悲鳴に近い響きを帯びて脳内に木霊した。
「……う、る……さい。耳元で、叫ぶな……」
レンは床に這いつくばりながら、血反吐を吐き、それでも筆を握る右手だけは決して離さなかった。
痙攣する腕を無理やり動かし、杖のようにして再び立ち上がろうとする。足の震えが止まらない。視界は真っ赤に染まり、目の前に迫り来るノイズの群れが、ただの揺らぐ影のようにしか見えなかった。
『いっしょに、いこう』
『やすもう、もう、つかれただろう』
ノイズたちが放つ甘い虚無の囁きが、レンの限界を迎えた脳を優しく撫でる。
もう十分だ。お前はよくやった。痛いのは嫌だろう。楽になれ。
物理世界での死の恐怖と、この世界での終わりのない苦痛。その二つに挟まれ、すり減り切った魂にとって、その囁きは抗いがたい魅力を持っていた。
(休む……? ああ……そうか、ここは……)
レンの意識が、フッと遠のきかける。
だが、その時。
『……ザザッ……レン! 立ちなさい!!』
サシャの、血を吐くような絶叫が、ノイズの甘い囁きを強引に引き裂いた。
『私を置いていく気!? あなたをここに繋ぎ止めるために、私がどれだけの……ッ! 絶対に、許さないわよ……一人で終わらせるなんて!』
その言葉が、レンの心臓に、最後の一滴の燃料を注ぎ込んだ。
「……ははっ。怖ぇな、ナビゲーターの……お怒りだ」
レンは血まみれの顔を上げ、狂気じみた笑みを浮かべた。
感覚を失った右腕に、己の魂の残りカスをすべて注ぎ込む。もはや「色」を繊細にコントロールする余裕などない。生存本能、怒り、執念、そしてサシャへの名状しがたい感情。そのすべてを、ただの暴力的な「熱量」として筆先にぶち込む。
「俺は……お前らのゴミ箱には、ならねェェェッ!!」
レンは立ち上がり、迫り来るノイズの波に向かって、最後の一撃を放つべく右腕を大きく振り被った。




