第2話:第6部:境界線の描画
『……ザザッ……空間マッピング、完了。あなたの視界にオーバーレイさせるわ』
サシャの声と同時に、レンの網膜――拡張された仮想の視覚領域に、淡い緑色のグリッド線が浮かび上がった。真新しく構築された校舎の廊下、教室の壁、そして夕日を反射する広大な窓ガラスの表面に、幾何学的な網の目が張り巡らされる。
その中で、ひときわ毒々しい赤色でハイライトされた箇所がいくつもあった。窓枠の四隅、壁と床の接合部、そして空間の論理構造がまだ完全に定着しきっていない、薄氷のような脆弱なポイント。その数は、目視できる範囲だけでも十数箇所に及んでいた。
『赤く表示された座標が、マルなな二と外部の虚無を隔てる『壁』が最も薄い場所よ。ノイズの群れは、必ずそこから空間を食い破ろうと侵入してくる。……急いで、レン。彼らが到達する前に、すべてのポイントにあなたの因果律を塗り込んで、空間をロック(固定)するのよ』
「ああ、分かってる」
レンは短く答え、赤く明滅する最も近い窓ガラスへと歩み寄った。
窓の向こうには、まだ美しい茜色の空が広がっている。しかし、その空の最果て――地平線の境界あたりが、まるで水に落とした墨汁のように、じわじわと不吉なドス黒い灰色に侵食され始めているのが見えた。温かかったはずの風が、徐々に温度を失い、生臭い冷気を帯び始めている。
遠くから、ゴォォォ……という地鳴りのような音が響いてくる。それは風の音ではない。何百、何千という「忘却の獣」たちが、この世界が放つ熱量を目指して、虚無の海を這いずり回って接近してくる怨嗟の響きだった。
タイムリミットは、極めて短い。
レンは窓ガラスの前に立ち、右手に握った古い筆を静かに持ち上げた。
深呼吸を一つ。肺の奥にこびりついた血の匂いを意識の底へ押し込め、精神のフォーカスを極限まで鋭く研ぎ澄ます。
先ほどの戦闘で放った『赤』は、生存本能と怒りを直結させた、いわば瞬間的な暴力の爆発だった。しかし、これから行う「防衛線の構築」は違う。
求められるのは、破壊ではなく『拒絶』。
俺の世界に土足で踏み入るな。ここから先は俺の領域だ。そういった、他者を明確に線引きし、空間の境界を強固に固定化するための、揺るぎない意志の概念。
(思い描け……警戒。立ち入り禁止。絶対的な、拒絶の壁を……!)
レンは目を閉じ、脳髄の奥底からその概念を引っ張り出し、色へと変換していく。
仮想肉体の血管がドクンと大きく脈打ち、大量のエネルギーが右腕を駆け抜けた。筆を握る指先が、自身の内側から湧き上がる強烈な負荷に耐えきれず、ガタガタと微細な震えを始める。
その震えを、奥歯を噛み砕くほどの力で無理やりねじ伏せ、レンは目を見開いた。
筆の先端に、眩い光が宿る。
それは、危険を知らせる標識のような、あるいは太陽の表面を削り取ったかのような、鮮烈で攻撃的な『黄』だった。
「……塗り潰すッ!」
レンは気合とともに、光り輝く黄色の筆先を、窓ガラスの表面へと押し当てた。
ギュィィィィィンッ!
筆先がガラスに触れた瞬間、ガラスを引っ掻くような音ではなく、巨大なタービンが回転するような重低音が鳴り響いた。レンの意志が、空間のコードと直接物理的に摩擦を起こしている音だ。
筆から溢れ出した黄色の概念が、ガラスの表面を這うように広がり、サシャがマークした赤いグリッド線を強引に上書きしていく。
「ぐ、ぅぅっ……!」
一筆引くごとに、レンの体内の熱が急速に奪われていく。
額から脂汗が噴き出し、視界の端が再びノイズにまみれてチカチカと明滅する。脳のシナプスが悲鳴を上げ、神経の束がギリギリと引き絞られるような激痛。
ただ色を塗っているのではない。自分自身の魂の質量を切り売りして、空間の壁に接着剤として塗り込んでいるのだ。
かつて物理世界で、余白清掃員として働いていた頃は、こんな苦痛を味わうことはなかった。
他人の脳から漏れ出した「忘却の残滓」を、位相ブラシで削り取るだけの作業。それは不快で、底辺の仕事ではあったが、マニュアルと規定値に従っていれば、少なくとも「世界を決定する責任」を負うことはなかった。
用意されたルールの中で、他人が生み出したものを片付けるだけ。そこには、ゼロから何かを生み出すことの恐怖は存在しなかった。
しかし今は違う。
キャンバスは白紙であり、彼自身が引く一本の線、選んだ一つの色が、この世界の法則を完全に決定づけてしまうのだ。
もし、この『拒絶の黄』の概念が弱ければ?
もし、意志の定着に少しでも隙間があれば?
そこからたちまち空間は食い破られ、自分も、物理世界のサシャも、すべてがドロドロの灰色の虚無に飲み込まれて終わる。
(怖い……)
極限の集中状態の中で、レンの心の奥底に、創造者として初めて直面する根源的な恐怖が首もたげた。
無から有を生み出すことの、圧倒的なプレッシャー。
意味のない空間に、自らの責任で「意味」を刻み込まなければならないという重圧。他人のルールに縋って生きてきた男にとって、それは死の恐怖以上に、精神の基盤を揺るがす恐ろしい体験だった。
「はぁっ……はぁっ……!」
息が荒くなる。筆を動かす右手が鉛のように重くなり、意識が途切れそうになる。
自分の描いている結界が、本当に正しいのか。本当に奴らを防げるのか。疑念が仮想肉体を重くし、黄色の光が微かに瞬き、弱まりそうになる。
『……レン。あなたの線は、間違っていないわ』
空間の軋み音に混じって、サシャの静かな、しかし確信に満ちた声が響いた。
『あなたの引く線が、この世界の新しい絶対法則よ。迷わないで。あなたが信じた色が、世界で一番強固な壁になる。……私を、信じなさい』
その言葉が、レンの心に絡みついていた恐怖の蔦を、鋭利な刃物のように切り裂いた。
そうだ。俺は一人じゃない。
俺の引く線を、命を懸けて肯定し、守ろうとしてくれるバディがいる。彼女が正しいと言うのなら、この黄色は、世界で最も硬い壁だ。
「……ああ、そうだな。俺がルールだ」
レンは血の滲むような笑みを浮かべ、再び筆に強烈な意志を注ぎ込んだ。
弱まりかけた『拒絶の黄』が、再び爆発的な輝きを取り戻す。
レンは廊下を駆け抜け、次々と赤くマークされた脆弱なポイントへ筆を叩きつけていった。
窓ガラスの四隅、漆喰の壁の亀裂、床板の隙間。
ガリガリと空間の因果律を削り、黄色の光を乱暴に、しかし一切の隙間なく塗り込んでいく。自身の精神力が底をつきかけ、両目から再び血の涙が流れ落ちても、彼の筆は止まらなかった。結界が完成した箇所から、空間の境界線が黄金色に硬質化し、物理世界の分厚い鋼鉄の壁をも凌駕する、絶対的な「拒絶の領域」が形成されていく。
だが、時間は待ってくれなかった。
「……クソッ」
十箇所目の壁に結界を塗り終えた時、レンは窓の外を見て悪態をついた。
先ほどまで地平線の彼方にあった灰色の侵食が、今や空の八割方を覆い尽くしていた。茜色の夕日はドス黒い雲に完全に飲み込まれ、校舎を照らす光は、まるで深海の底のように薄暗く、冷たいものへと変貌している。
そして、耳を塞ぎたくなるような、あの悍ましい怨嗟の声が、すぐそこまで迫っていた。
『さむいさむいさむいさむい……』
『いれて、そこへいれて……』
ズズズズズ……!という、巨大なナメクジが這い回るような粘着質な音が、校舎の外壁を包み込み始める。
レンが防衛線を構築した窓ガラスのすぐ向こう側――。
分厚い灰色の泥が、滝のようにガラスの表面を流れ落ちてきた。
その泥の中から、ボコ、ボコッと無数の人間の手形が浮かび上がり、ベチャァッ!と嫌な音を立てて窓ガラスに張り付く。
『……ザザッ……レン! 第一波が到達したわ! 校舎の周囲が、完全にノイズの群れに包囲された!』
サシャの切羽詰まった警告が響く中、レンは残りの三箇所のポイントへ向けて、最後の力を振り絞って床を蹴った。
ガラスの向こう側で、無数の手が結界を突破しようと、狂ったようにガラスを叩き始めている。
ガンッ! ガンッ! ガンッ!
強固な『拒絶の黄』が塗られた窓ガラスは、そう簡単には割れない。しかし、叩かれるたびに、空間そのものが悲鳴を上げるようにミシミシと軋み、レンの脳髄に直接打撃の衝撃がフィードバックしてくる。
「あと……三つ……!」
吐血しながら、レンは十一箇所目、十二箇所目の壁に黄色を叩き込む。
視界はすでに真っ赤に染まり、意識は半分以上飛んでいる。それでも、生存への渇望と、サシャを救うという執念だけで腕を動かし続けた。
そして、最後の十三箇所目。
最も大きく、最も脆弱なポイント――廊下の突き当たりにある、巨大な観音開きの扉。
レンがそこへ到達し、筆を振り上げた、まさにその瞬間だった。
ドゴォォォォォォンッ!!!
校舎全体を揺るがすような、凄まじい衝撃音が響き渡った。
まだ結界が塗られていない、その観音開きの扉の向こう側から、巨大な質量が激突してきたのだ。
扉の中央に、ミシッ……と不吉な亀裂が走る。
灰色の泥の飛沫が、その隙間から廊下の内側へとプシュッと噴き出し、強烈な腐敗臭を撒き散らした。
防衛線の完成まで、あとコンマ数秒。
タイムリミットの極限の緊張感が、引き絞られた弓の弦のように張り詰め、今まさに弾け飛ぼうとしていた。




