第2話:第5部:余白の防衛線
鼻腔の奥に、べっとりと鉄錆のような血の匂いが張り付いている。
レンは、杖代わりにして床に突き立てた木製の筆に体重を預け、ゆっくりと、軋む膝関節を伸ばして立ち上がった。
先ほどの『赤』の出力に伴う凄まじい代償。脳髄を直接削り取られたような痛みの余韻は、未だに彼の仮想肉体の神経網を容赦なく苛み続けていた。視界の端には、不規則なデジタルノイズの砂嵐がチカチカと点滅を繰り返し、完全に正常な解像度を取り戻すには至っていない。
顔を拭った手のひらには、自身の目と鼻から流れ出た生温かい赤い液体がべっとりと付着していた。仮想の肉体であるにもかかわらず、その血の感触は物理世界のそれよりもはるかにリアルで、生命の摩耗を生々しく訴えかけてくる。
「……ハァッ、ハァッ……」
荒い呼吸を整えようとするが、肺が酸素をうまく取り込めない。
だが、崩れ落ちた先ほどの絶望的な巨塊――「忘却の獣」の残骸はもうどこにもなく、真新しい廊下には再び、夕暮れの黄金色の光と、夏の終わりの温かな風が戻ってきていた。時間が、確かに前進を続けている。
『……ザザッ……強がるのは勝手だけど、あなたのバイタルデータ、論理空間の許容限界ギリギリよ。脳波の波形が、さっきから異常な数値を叩き出したまま戻らない』
静寂を取り戻した空間に、サシャの通信音声が鼓膜を通さずに直接響く。
彼女の口調は、いつものように感情を排した冷徹なナビゲーターのそれだった。しかし、長年バディとして彼女の声を聴き続けてきたレンの耳には、その平坦な響きの裏側に張り付いた、微かな、しかし決定的な「震え」が痛いほどに聴き取れていた。
「大したことはない。ちょっとばかり、絵の具を出しすぎただけだ」
レンは努めて軽い口調で返し、血に濡れた手を自身のくたびれた作業服の裾で乱暴に拭った。
「そっちこそ、無理をしてないか? 声にひどいノイズが混じってるぞ。アーキテクトの監視を誤魔化しながらの不正リンクだ。……あんたの脳だって、タダで済んでいるはずがない」
『……ザザッ……心配無用よ。私はCMRSインフラの一部を担う生体端末。この程度の並列処理で私の前頭葉が焼き切れたりはしないわ』
間髪入れずに返ってきたその言葉が、強烈な虚勢であることをレンは直感していた。
姿は見えない。しかし、物理世界のあの焦げ臭いポッドの中で、彼女が自分と同じように、いや、自分以上に血を流し、精神の壁を削りながらこの極細の通信回線を維持してくれていることを、レンの魂が理解している。
かつては、ただシステムの底辺で泥をすするように生きるための、ビジネスライクな関係だったはずだ。しかし今、この果てしない虚無と暴力の狭間で、二人は互いの命の天秤を完全に預け合い、その細い糸一本で互いの存在を繋ぎ止めている。
「……なら、頼りにさせてもらう」
レンは短く笑い、筆を握る右手に再び力を込めた。指先が微かに痙攣しているが、それに構う余裕はない。
「サシャ、状況を整理しよう。この余白は、俺の認識に合わせて外へと拡張している。だが、さっきの泥の化け物……ノイズは、あからさまに俺を狙って外側から壁を食い破ってきた。ここは、システムから隔離された安全な避難所じゃなかったのか?」
レンの問いかけに対し、数秒の重い沈黙が流れた後、サシャのノイズ混じりの声が、冷酷な真実を告げた。
『……ええ。かつて、あの名もなき美術学生の記憶として静止していた十四分間のループ状態であれば、そこは誰にも見つからない、完璧な『安全地帯』だったはずよ』
サシャの声が、夕暮れの廊下の空気を一段冷たくさせる。
『でも、状況は根本から変わってしまった。あなたが先ほど、この空間に『奇跡の青』を描き込み、停滞していた時間を動かしたからよ。あなたが放ったその圧倒的な色彩と、空間を拡張させるほどの莫大な生命の熱量……それは、システムから見放された果てしない虚無の暗闇の中で、巨大な篝火を焚き上げたのと同じことなの』
「篝火……?」
『そう。自我が崩壊し、暗闇の海を漂うだけの未定義データとなった移住者たち……ノイズにとって、あなたの生み出した世界は、唯一の『暖かな光』として知覚されている』
サシャの説明は、レンの背筋に氷のような悪寒を走らせた。
『光に向かって飛んでくる蛾の群れのように、彼らは本能のままにあなたの世界を目指して集まってくるわ。温もりを求め、あなたの生み出した色彩をすべて貪り尽くすために。……あなたがこの世界を前進させ、生きようと強く願えば願うほど、暗闇に潜む無数の絶望を引き寄せてしまうのよ』
皮肉な真実だった。
システムに受動的に消される恐怖を乗り越え、自分の足で新しい世界を創り出す覚悟を決めた。その第一歩が、無限の色彩と風を呼び込んだ。だが、その「生への渇望」こそが、終わりのない怨念の群れを呼び寄せる誘蛾灯となってしまったのだ。
自分が動かしたからこそ、敵を呼んだ。
自分が生きようとしたからこそ、死が群がってくる。
レンは、窓枠の向こうに広がる景色へ視線を向けた。
先ほどまで、夕暮れの空の下に広がる未知の街並みを見て、創造者としての全能感に打ち震えていた。しかし今、その美しいグラデーションの空の向こう側に、数え切れないほどの灰色の獣たちが、暗黒の虚無からこちらをじっと見つめ、涎を垂らしながら這い寄ってくる気配を感じ取ってしまった。
高揚感が、急速に冷え込んでいく。
胃袋の奥底で、重く冷たい鉛の塊がゴクリと音を立てるような、嫌なプレッシャーが全身を縛り付ける。
ここは、安全な箱庭などではない。
常に外部からの悪意と絶望の侵食に晒され、一瞬でも気を抜けば、空間ごとドロドロの泥の海に引きずり込まれる、極限のサバイバル環境なのだ。
(終わりのない、防衛戦……)
レンの脳裏に、再びあの白い病室の記憶が過った。
自分を忘れ、世界との繋がりを絶って殻に閉じこもった父親。彼は、この終わりのない外界からの圧力に耐えきれず、自ら精神のシャッターを下ろしたのではないか。
今のレンにも、選択肢はないわけではない。これ以上の空間拡張をやめ、息を殺し、再びこの空間を静止した十四分間のループに戻すことができれば、ノイズの襲来を免れるかもしれない。だが、それはあの父親と同じ、生ける屍になることと同義だ。そして何より、そんなことをすれば、物理世界で血を流しながら回線を繋いでいるサシャを見殺しにすることになる。
「……笑えない冗談だ。清掃員の仕事が、引っ越し先でも山積みってわけか」
レンは、深く、重い息を吐き出しながら、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、恐怖にすくむ青年の姿はない。皮肉めいた笑みの奥に、泥水をすすってでも生き抜いてやるという、どす黒く、しかし強靭な覚悟を固めた男の顔があった。
「サシャ。奴らが光に群がる虫だっていうなら、窓を閉めて、家の中に防虫網を張るしかないな。……この空間の境界線に、奴らが侵入できない結界を作ることはできるか?」
『……可能よ』
サシャの返答は即座だった。彼女もまた、レンが立ち止まらないことを確信していた。
『あなたが持つ『色』の概念を使って、空間の因果律を強制的に固定化するの。廊下の壁、窓ガラス、空間の境界となるすべての面に、あなたの意志を塗り込み、強固な防衛線を構築する。そうすれば、ノイズの物理的な侵食をある程度弾き返すことができるはず』
「なるほど。ただのペンキ塗りじゃ済まないってことだな」
レンは、先ほどノイズを切り裂いた自らの右腕を見下ろした。
一発の『赤』を描いただけで、脳髄を削られるような激痛と吐血に見舞われたのだ。それを、この広大な空間の境界線すべてに塗り広げるという行為が、どれほどの苦痛と精神力の消耗を伴うか。想像するだけで身の毛がよだつ。
しかし、立ち止まるという選択肢は、とうの昔に捨てた。
「サシャ、俺の周囲の空間マッピングを頼む。奴らが食い破ってきそうなポイントを、片っ端から塗り潰していく」
レンは、血で汚れた筆の柄を両手でしっかりと握り直した。
「俺の命が削り切れるのが先か、あの粗大ゴミどもが諦めるのが先か……。とことん、付き合ってやるさ」
夕日の光が、覚悟を決めたレンの横顔に、濃く、深い陰影を落としていた。




