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第2話:第4部:筆と血の代償

踏み出した右足のブーツが、ワックスの塗られた床板を激しく蹴り上げる。キュッ、という鋭い摩擦音とともに、レンの仮想肉体は前方へ向かって矢のように弾き出された。


彼が自らの意志で拡張したばかりの真っ直ぐな廊下を、灰色の泥の津波が空間の因果律を腐食させながら押し寄せてくる。数十、数百という「忘れ去られた者たち」の怨念が融合した不定形の肉塊。ノイズが放つ、システムから排斥された絶望の冷気が、レンの頬を鋭い刃のように撫でていく。


「おおおおおぉぉぉッ!」


レンは仮想の肺の底から裂帛の気合を吐き出しながら、右手に握った木製の筆を、目前まで迫った灰色の質量へと向かって水平に薙ぎ払った。


かつて、第七世代型『共鳴式位相ブラシ』として彼が酷使していたそれは、今やただの清掃道具ではない。この余白世界と完全に同期したハッキングツールだ。筆の先端が空間の虚空を切り裂いた瞬間、物理的な打撃音ではなく、空間の座標軸そのものが強引に捻じ曲げられるような、ズガガガガッという耳障りな高周波の摩擦音が廊下に響き渡った。


筆先から、目に見えない強烈な磁力線――論理空間の干渉波が放射され、ノイズの突き出してきた巨大な泥の触手と真正面から激突する。


バチバチバチッ!

物理的な火花ではない。空間を構成するピクセルそのものが、異なる因果律の衝突に耐えきれず、デジタルな光の破片となって弾け飛ぶ光景だった。

レンの腕に、トラックと正面衝突したかのような、桁違いの重圧感がのしかかる。


「ぐ、うぅっ……!」


手首の骨が軋み、仮想肉体の筋肉繊維が悲鳴を上げる。

ただの「認知の煤」であれば、この干渉波を当てただけで論理構造が分解され、虚無へと還元されるはずだった。しかし、目の前にいるのは、絶望の果てに自らを肥大化させたバグの集合体だ。ブラシの先端がノイズの表面を数センチ削り取っても、その背後から即座に新しい泥が湧き出し、レンの干渉波を力任せに押し潰そうとしてくる。


『いきたくない』

『なんで、わたしだけ』

『かえして、わたしのばしょをかえして』


激突する磁場の境界から、無数の呪詛の合唱がレンの脳髄に直接流れ込んでくる。それは、かつて物理世界でシステムに怯え、泥をすするようにして生きてきたレン自身の心の奥底にある「恐怖の澱」に共鳴しようとする、冷たくて甘い誘惑だった。

このまま腕の力を抜き、灰色の泥の中に溶け込んでしまえば、もうアーキテクトの監視に怯えることも、生存のための点数稼ぎに苦しむこともない。すべてが平等な「無」になるのだと。


レンの膝が、圧倒的な圧力の前にほんのわずかに折れ曲がった。

灰色の泥が、彼の腕に絡みつこうと這い上がってくる。


だが。


(……ふざけるな)


レンの網膜の裏側に、血の涙を流しながらポッドのコンソールにすがりつく、サシャの姿がフラッシュバックした。

彼女は今、この瞬間も、レンをこの世界に繋ぎ止めるために、自らの記憶と人格を焼き捨てて防壁を作っているのだ。そんな彼女の命を懸けた献身を無下にして、こんなゴミ溜めのような諦めの泥に沈んでたまるものか。


「俺は、お前たちとは違う……! 俺にはまだ、帰るべき場所も、守るべき繋がりもあるんだよ!」


レンの奥底で、煮えたぎるような感情が爆発した。

それは、自分たちをただの数字として扱い、容赦なく切り捨てる冷徹なシステムへの『怒り』。

そして、この新しく開拓した世界で、自らの足で生きていくという強烈な『生存本能』。


レンは歯牙を食いしばり、折れかけた膝をバネのように弾き返して再び立ち上がった。

ただ空間の論理を整える「清掃作業」では、この獣は殺せない。空間そのものを、自分の感情の概念で完全に上書き(ハッキング)しなければならないのだ。


(怒りを……生きたいという熱を、出力しろ……!)


レンは意識のフォーカスを、右手に握った筆の先端の一点へと極限まで絞り込んだ。

彼の仮想の心臓から、真っ赤に燃え盛る血潮のようなエネルギーが、腕の神経を伝って筆先へと流れ込んでいく。

その瞬間、木製の筆の柔らかな獣毛が、まるで高熱のマグマを吸い上げたかのように、鮮烈な光を放ち始めた。


『赤』。

それは、暴力的で、生命力に溢れ、周囲のすべてを焼き尽くさんばかりの、圧倒的な生存の色彩だった。


「消え失せろォォォッ!!」


レンの咆哮とともに、赤い光を纏った筆が一閃される。

空間の因果律が、その『赤』の概念によって強制的に塗り替えられる。筆の軌跡から放たれたのは、熱を持った真っ赤な三日月型の斬撃エフェクトだった。


ズバァァァァァンッ!!!


赤い斬撃が、巨大な灰色の肉塊の中心に深々と突き刺さる。

物理的な切断ではない。ノイズを構成していた「絶望」と「停滞」のコードが、レンの叩きつけた「生命の熱量」によって論理的に焼き切られ、完全に崩壊したのだ。


『ア、ァァァァ……アァァァァァァァァァッ!!』

ノイズが、空間全体を震わせるほどの壮絶な断末魔の叫びを上げた。

灰色の泥が内側から赤く発光し、次々と沸騰して気化していく。数秒も経たないうちに、巨大な忘却の獣は、黒い焦げ跡すら残さず、完全に空間の虚無へと霧散して消え去った。


圧倒的な静寂が、再び廊下に舞い戻ってきた。

ノイズが消滅したことで、吸い取られていた夕暮れの黄金色が急速に空間へ還流し、元の温かな温度を取り戻していく。


「はぁっ……! はぁっ……!」

勝った。

しかし、安堵の息を吐き出そうとしたレンの身体を、直後、想像を絶する凄まじい反動が襲った。


「が、はっ……!?」


視界が、唐突にノイズまみれのテレビ画面のように激しく明滅グリッチした。

平衡感覚が完全に消失し、レンはたまらずその場に片膝を突いた。床板に手をつこうとしたが、腕の感覚が完全に麻痺しており、そのまま肩から無様に崩れ落ちそうになる。なんとか筆を杖代わりにして、前のめりに倒れるのだけを防いだ。


「あ、ぐ……ぅぅっ……!」

痛い。

物理的な打撃を受けた痛みではない。脳髄の奥底、自我を形成するニューロンの束を、錆びたスプーンで直接ガリガリと削り取られているような、おぞましい激痛だった。

仮想肉体であるはずなのに、心臓が破裂しそうなほどに激しく脈打ち、呼吸をするたびに肺の内側がガラス片で切り裂かれるような感覚に陥る。


ポタ、リ。

ワックスの塗られた床板に、赤い染みが落ちた。

レンが自身の顔に触れると、鼻の奥から、そして両目の端から、粘り気のある生温かい血がツツーッと滴り落ちていた。


(これが……『色』を定着させることの、代償か……!)


レンは荒い息を吐きながら、血に濡れた自分の手を見つめた。

空間に自身の感情という概念を「色」として上書きする行為。それは、自らの精神力リソース――ひいては、この世界に存在するための自己の確率そのものを、弾丸として撃ち出すことに他ならなかった。

一発の『赤』を描くだけで、これほどまでに魂がすり減る。もし連続して強力な色を使い続ければ、遠からずレン自身の自我が枯渇し、崩壊してしまうだろう。


『……ザザッ……レン……無事……?』


激しい耳鳴りの奥で、サシャの微弱な通信音声が拾えた。

その声もまた、ひどく掠れ、息も絶え絶えだった。レンがここで血を流しているのと同じように、彼女もまた物理世界で自身の脳を焼きながら戦っているのだ。


「ああ……。粗大ゴミは、片付けた……」

レンは口元を拭い、ひきつるような痛みの中で、不敵な笑みを作って返答した。

「でも、これは……思っていたより、ずっと骨の折れる清掃作業になりそうだな」


自らの命を削る痛みの中で、レンは開拓者として生き抜くことの真の過酷さを、その仮想の肉体と魂に深く刻み込んでいた。



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