第2話:第3部:腐敗の匂い
レンの足取りは、力強く、そして確かだった。
新たに構築された校舎の廊下は、どこまでも真っ直ぐに伸びている。夕暮れの黄金色の光が、等間隔に並んだ窓枠を透過し、ワックスの効いた床板に幾何学的な影の連続を描き出していた。レンが一歩踏み出すごとに、キュッ、キュッという小気味よい摩擦音が静寂の空間に響き渡る。
彼は手にした古い筆の柄を指の腹で軽く転がし、そのしなやかな木の感触を確かめながら歩を進めた。空間の余白を自らの認識で埋め、道を作り出していくという行為は、物理世界で何百回と繰り返してきた「煤払い」の単調な作業とは根本的に異なる、劇的な全能感を伴っていた。
しかし、歩行開始から数十メートルほど進んだ時だった。
レンの仮想肉体を包み込んでいた、あの心地よい夏の終わりの風が、ふっと不自然に凪いだ。
「……ん?」
レンは歩みを止め、鋭く目を細めた。
空間全体を満たしていた生命の拍動のような微細な振動が、急激にトーンダウンしている。直後、足元から這い上がってくるような、ぞくりとする冷気が彼の足首を撫でた。
光の届き方が、おかしい。
数十メートル先の、レンの認識がまだ完全に及んでいない「世界の端」――廊下の奥の空間が、夕日の黄金色を弾き返し始めている。まるで、その部分だけ空間の解像度が極端に下がり、ピクセルが死んでしまったかのような、薄暗く淀んだ領域がぽっかりと口を開けていた。
そして、レンの鼻腔を、極めて暴力的な異臭が突き刺した。
「……ッ!」
思わず片手で口元を覆う。
先ほどまで満ちていた、青葉の香りや木の温もりといった有機的な匂いが、乱暴に上書きされていく。代わりに流れ込んできたのは、レンが物理世界の第十二下層区画で毎日嗅がされ続けてきた、あの絶望の匂いだった。
高度に精製された合成消毒液のツンとする化学的な刺激臭。そして、酸化しきった古い鉄錆の匂い。有機物の存在を徹底的に否定し、すべてを無機質な死へと還元しようとする、冷徹で息が詰まるような「物理世界の腐敗臭」だ。
(なぜだ……ここは、システムから切り離された絶対の余白のはずだ。どうして、あの世界の匂いがする……?)
レンの思考が警戒に染まり切るのと同時に、空間の崩壊は視覚的な狂気となって現れた。
前方十メートル。廊下の左側面の壁が、まるで高熱に炙られた飴細工のように、ドロドロと溶け始めたのだ。
漆喰の白と、腰壁の焦げ茶色が、ぶくぶくと気泡を立てて混ざり合い、醜い泥のようになって床へと滴り落ちていく。グチャァ……、ベチャッ……という、肉が腐り落ちるような生々しい湿った音が、夕暮れの静寂を無惨に引き裂く。
「なっ……なんだ、あれは」
レンは筆を構え、腰を落とした。
溶け落ちた壁の向こう側――空間の「外側」の虚無から、何かが逆流してくる。
それは、レンが清掃員として幾度となく片付けてきた灰色の『認知の煤』だった。しかし、物理世界で漂うただのチリのような煤とは、質量も、動きも、全く異なっていた。
ドス黒い灰色をしたその粘着質なゲル状の物質は、重力という概念を完全に無視し、溶けた壁の亀裂から意志を持つ生き物のように這い出してくる。ズズズズ……という、空間の論理構造そのものを削り取るような不快な摩擦音を立てながら、廊下の床を、天井を、無数に這いずり回り、瞬く間に周囲の色を灰色に侵食していく。
『……ザザッ……レン! 下がって! それ以上、その領域に近づかないで!』
ノイズに塗れたサシャの声が、レンの脳髄に切羽詰まった様子で響き渡った。彼女がこれほどまでに感情の起伏を露わにして警告を発するのは、極めて稀なことだった。
「サシャ、何が起きている!? この煤の量は異常だ。空間の自壊じゃない、まるで外から意図的に流れ込んで来ているような……!」
『……その通りよ。それは、マルなな二で発生したエラーじゃない』
サシャの声には、システムの管理官僚であるアーキテクトから隠れながら回線を維持している緊迫感と、眼前の脅威に対する焦りが入り混じっていた。
『その灰色の塊は、別の空隙座標から流れ込んできた不純物……『ノイズ(忘却の獣)』よ!』
「別の余白からだと……?」
『CMRSで他人の脳の隙間へ強制移住させられた人間は、あなただけじゃない。でも、誰もがあなたのように新しい色を描けるわけではないのよ……。終わりのない忘却のループに閉じ込められ、誰とも繋がれず、絶望と狂気の果てに自我を保てなくなった移住者たち。彼らの精神が完全に崩壊した時、その空間ごと意味を持たない暴走したデータ群へと変異する』
サシャの説明を聞きながら、レンの仮想の背筋を冷たい汗が伝った。
あの白い病室で、父親が世界との繋がりを絶ち、緩やかに死んでいったのと同じことだ。余白に押し込められた移住者たちは、救いもなく、ただ一人で発狂し、自らの輪郭を溶かしてドロドロの絶望の塊へと成り果てたのだ。
『彼らは、本来なら崩壊した余白の中で永遠に停滞しているはずの存在よ。でも……あなたが先ほど、この空間に『奇跡の青』を描き込み、巨大な生命の熱量を発生させてしまった!』
「……ッ!」
レンはハッとして、自身の足元を見た。
自分が放った圧倒的な色彩と、世界を動かした莫大なエネルギー。それが、完全な暗闇の中で焚かれた巨大な篝火となってしまったのだ。
『彼らは、あなたが放った熱量と色彩に引き寄せられてきたのよ。温もりを求めて群がる、凍死寸前の亡霊のように。空間の壁を食い破り、あなたの光をすべて貪り尽くすまで、その侵食は止まらないわ!』
サシャの悲痛な警告が終わるか終わらないかのうちに、廊下の奥から溢れ出した灰色のゲル状の物質は、凄まじい速度で互いに結合を始めた。
グヂュッ……メキメキメキッ……!
骨を持たない肉塊が、無理やり骨格を形成していくようなおぞましい音が響く。
それは、明確な一つの生物の形をとらなかった。四つん這いの獣のようにも見えるし、無数の人間の手足が絡み合った肉団子のようにも見える。体高はゆうに二メートルを超え、廊下の天井をこすりながら、巨大な不定形の質量としてレンの前に立ち塞がった。
「ヒィィ……ィィィ……」
ノイズの中心から、風の唸り声にも似た、不気味な音が漏れ出している。
いや、違う。それは人間の声だ。
何十、何百という、自我が崩壊する瞬間に発せられた「悲鳴」と「後悔」の音声データが、継ぎ接ぎにされて再生されているのだ。
『おいていかないで』
『まっくらだ』
『わたしは、だれだ』
『さむい、さむい、さむいさむいさむい――』
幾重にも重なった、意味の破綻した呪詛の合唱。
灰色の表面がボコボコと沸き立ち、そこから人間の歪んだ顔や、助けを求めるように伸ばされた腕の形が浮かび上がっては、再び泥の中へと溶けていく。
それは、システムによって社会から削除され、誰にも記憶されなかった者たちの、究極の成れの果てだった。レン自身が、サシャの犠牲と自らの決断がなければ、間違いなく辿っていたであろう凄惨な未来の姿そのものだった。
「……ッ、これが……この世界の、システムから見捨てられた者たちの末路だって言うのか……」
レンの指先が、怒りと恐怖がないまぜになって微かに震えた。
自分を忘れた父親の、あの空虚な瞳がフラッシュバックする。この巨大な灰色の泥人形のどこかに、あの父親の絶望すらも混ざり込んでいるのではないかという錯覚が、レンの胸を容赦なく抉った。
強烈な腐敗臭が、肺の奥まで侵犯してくる。夕暮れの温かな光は、ノイズが放つ絶対的な虚無のオーラによって急速に吸い取られ、空間は再びあの灰色のディストピアへと引き戻されようとしていた。
『グルルルゥゥゥゥッ……!!』
ノイズの中心部に、巨大な空洞がぽっかりと開いた。それはまるで、世界のすべてを呪い、すべてを飲み込もうとする、底なしの叫ぶ口のようだった。
ノイズは、レンという強烈な熱源を完全にロックオンし、その巨大な灰色の質量を波打たせながら、爆発的なスピードで廊下を這い進んできた。壁を削り、床を腐食させ、色彩を泥に沈めながら。
「……同情はする」
レンは、震える右手に力を込め、ハッキングツールである古い筆を身体の前に鋭く構えた。
唇の端を吊り上げ、諦観を捨て去った開拓者としての闘志を、その双眸に燃え上がらせる。
「だが、ここは俺とサシャが命を懸けて繋いだ、俺たちのキャンバスだ。――どこの誰かは知らないが、俺の世界をこれ以上、泥で汚させるわけにはいかないな」
恐怖を塗り潰すような強い決意と共に、レンは迫り来る忘却の獣の群れに向かって、自ら一歩、大きく踏み出した。




