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第2話:第2部:血塗られた細い糸

『……ザザッ……空間座標の急速な拡張を確認したわ。随分と派手にやったわね、レン』


黄金色に染まる真新しい廊下の静寂を破り、レンの意識の底に直接、サシャの声が響いた。

それは微弱な静電気のノイズに塗れながらも、物理世界で常に聞いていたあの徹頭徹尾、合理的に洗練された平坦な声色を完璧に保っていた。


「見ているか、サシャ。ただの廊下じゃない、窓の向こうには街までできかけている。俺の『青』を一筆叩き込んだだけで、この余白は周囲の未定義空間をどんどん飲み込んで、勝手に世界を形作り始めているんだ」

レンは新造された窓枠に寄りかかり、手にした筆の柄を軽く叩きながら不敵な笑みを浮かべた。「……清掃員の朝は早いんだ。俺のキャンバスに土足で踏み入る粗大ゴミは、さっさと片付けさせてもらう。そっちの状況はどうだ? システムからの追及は」


『……インフラの基幹システムに、一時的な迷彩コードを展開して誤魔化しているわ。あなたの出力した『青』の波長が強烈すぎて、アーキテクトが重大な論理エラーとして検知したの。今、この物理世界はハチの巣をつついたような騒ぎよ』


サシャの返答は、どこまでも冷静だった。焦りも、恐怖も、一切の感情の揺らぎも感じさせない。いつも通りの、頼れるナビゲーターの響き。

だが、その完璧にコントロールされた音声データの裏側で、物理世界の彼女がどれほどの地獄を味わっているかを、レンは知る由もなかった。


視点は、灰色の雲に覆われた息苦しい物理世界――第十二下層区画の薄暗い事務所へと移る。


「ゴホッ……! あ、がっ……!」


防音ガラスと冷却ユニットで覆われた『生体リンク・ポッド』の中で、サシャは激しく身をよじらせ、どろりとした赤黒い血の塊を床に吐き出した。

無菌状態に保たれていたはずのポッドの内部は、今や凄惨な屠殺場のような有様だった。純白の強化プラスチックの床面には、彼女の口や鼻からとめどなく溢れ出した鮮血が幾重にも水たまりを作り、鉄錆のような強烈な血の臭いを充満させている。


「はっ……はぁっ……」

サシャは震える両腕で自身の身体を抱きしめ、痙攣する肺から無理やり酸素を絞り出した。

彼女の細く白い項に埋め込まれたチタン製の量子コネクタからは、依然として気化した冷却液の白煙が噴き出し続けている。周囲の人工皮膚は極限の熱量によって完全に炭化し、ズルズルに溶け落ちて赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになっていた。肉が焦げる異臭が鼻腔を突き刺す。痛覚フィルターを最大まで引き上げているにもかかわらず、脳髄を直接ドリルで抉られるような激痛が、絶え間なく彼女の神経を苛んでいた。


だが、真の恐怖は物理的な痛みではない。

『前頭葉の余白を三十パーセント割いた』という代償が、今、彼女の精神そのものを不可逆的に崩壊させ始めていたのだ。


サシャの視界の右半分は、すでに完全な暗闇に沈んでいた。眼球が物理的に破損したのではない。視覚情報を処理する脳の領域そのものが、システムへの防壁として「燃やされた」ため、空間を認識する機能そのものが欠落してしまったのだ。

それだけではない。彼女は今、自分の『母親の顔』を思い出そうとして、それが自分の脳内のどこを探しても見つからないことに気がついていた。404エラー。存在しないデータ。自分がかつて物理世界のどこで生まれ、どのような風景を見て育ってきたのかという、人格を形成するはずの過去の記憶が、虫食いのようにボロボロと抜け落ちていく。

自分が自分でなくなっていく絶対的な喪失感。


それでも、サシャは残された左目だけで虚空のインターフェースを睨みつけ、レンへ送る音声データから「苦痛のノイズ」を完璧に削り落とす作業に全神経を注いでいた。

レンは今、死の恐怖を乗り越え、新しい世界の開拓者として立ち上がったばかりなのだ。自分がここで泣き言を漏らし、彼に罪悪感を抱かせ、足を引っ張るようなことだけは絶対に許されなかった。


『……ザザッ……心配しないで、レン。余白清掃員のナビゲーターを舐めないで頂きたいわね。私の処理能力なら、この程度の偽装回線、欠伸をしながらでも維持できるわ』


血まみれの口元を歪め、サシャはシステムを通して精一杯の虚勢を張った。

しかし次の瞬間、彼女の残された左目の瞳孔が、極限の恐怖に限界まで収縮した。


来た。

アーキテクトだ。


CMRSを統括する体制側の象徴、管理官僚『アーキテクト』。それは人間の姿をした管理者ではなく、社会全体の生存コストを最適化するために巡回する、巨大で無慈悲な監視アルゴリズムの集合体である。

サシャの展開した拡張視覚のデジタル空間の中で、それは『絶対的な零度の白』として現れた。

音もなく、感情もなく、ただ純粋な論理の塊として。


アーキテクトの検索コードは、巨大な氷のギロチンのように、ネットワークの深淵からゆっくりと降下してきた。

怒りも、悪意もない。ただ「エラーの発生源を特定し、システムから削除する」という一つの目的のためだけに、何十億というデータストリームをコンマ一秒で切り刻み、透かし見ている。

その無機質な冷たさは、どんな猛獣の殺気よりも恐ろしかった。猛獣ならば隙があり、騙すこともできる。しかし、この幾何学的な氷の刃には、一切の妥協も温情も存在しない。


サシャの構築した脆弱な偽装回線の表面を、アーキテクトの検索コードが舐めるように這い回る。

「……っ!」

サシャは息を殺し、自身の心拍数を極限まで低下させた。ポッドの中で硬直する彼女の全身から、冷たい脂汗がどっと吹き出す。

デジタル空間において、その感覚は生身の皮膚を冷たいメスで薄く削がれているようなおぞましさがあった。アーキテクトの冷たい指先が、サシャの精神の防壁の継ぎ目をまさぐり、その下にある「異常な通信の痕跡」を暴き出そうとしている。


(見つかるな……通り過ぎろ……私はただの、環境ノイズ……)


サシャは自身の脳波を、事務所の換気扇の回転音や、下層区画の配管を流れる汚水のノイズといった、無意味な環境データに偽装して必死に同化させた。

あと一ミリ。あとコンマ一秒でも検索コードが深く突き刺されば、彼女の不正ハッキングは完全に露見し、レンとの回線ごと存在を物理的に消去される。

永遠にも等しい数秒間。

アーキテクトの白い刃は、サシャの防壁の上でピタリと動きを止め、まるで獲物の匂いを嗅ぐようにその場に留まった。


サシャの心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく警鐘を鳴らす。

左目の視界の端が明滅し、脳の血管がさらに一本弾ける嫌な音がした。鼻の奥から新たな血が逆流し、気道を塞ごうとする。咳き込めば、その生理的なスパイクがノイズとなって防壁を突き破ってしまう。サシャは自身の唇を噛み切り、激痛で意識を保ちながら、気道に溜まる血を無理やり胃の奥へと飲み込んだ。


やがて――アーキテクトの氷の刃は、興味を失ったかのように静かに向きを変え、別のデータストリームの奥深くへと滑るように消えていった。


「かはっ……! あ、はぁ……はぁっ……!」


監視の目が遠ざかった瞬間、サシャは堰を切ったように激しくむせ返り、血の混じった唾液をポッドの壁に撒き散らした。全身の筋肉が痙攣し、限界を超えた脳細胞が悲鳴を上げている。

だが、生き延びた。間一髪で、最初の包囲網をやり過ごすことができたのだ。


サシャは震える指先を自身の胸に押し当て、乱れた呼吸を必死に正常なリズムへと戻していく。そして、再び完璧な「冷徹なナビゲーター」の仮面を精神に被せ直すと、レンへの通信回線をそっと開いた。


『……アーキテクトの第一波の検索プロトコル、今やり過ごしたわ。でも、長くは誤魔化せない。奴らは確実に、この座標の異常に感づいている』

サシャの言葉は、夕暮れの廊下に立つレンの脳内に、一切の淀みなくクリアに届いた。

『いいこと、レン。あなたが今拡張したその空間は、まだ物理的な『意味』が薄弱な未定義領域よ。アーキテクトに見つかる前に、空間の法則を完全にあなた自身のものとして確定させ、強固な防衛線を敷きなさい。……立ち止まっている暇はないわよ、開拓者ファーストペンギン


通信の向こう側にいる彼女が、自らの記憶と肉体を削り、血の海の中で微笑んでいることなど露知らず。

その声に背中を押されるように、レンは強く筆を握り直し、未知の廊下の奥へと足を踏み出していった。



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