第3話:第1部:白の幽閉
ブツンッ。
極太の鋼鉄ケーブルが断ち切られたような、暴力的な切断音。
それが、レンの脳髄から「世界」を繋ぎ止めていた最後の響きだった。
直前まで鼓膜を劈いていたサシャの血を吐くような絶叫も、肉が焦げる悍ましい音も、何千というノイズたちが放っていた暴風雨のような怨嗟も、すべてが嘘のように消え去った。
あとに残されたのは、極限の真空状態に放り出されたかのような『絶対的な無音』だけだ。
いや、無音ですらない。焼き切れた通信神経の末端が、行き場を失った生体電流を暴走させ、耳の奥で「キィィィィン……」という高く冷たい耳鳴りだけを絶え間なく鳴らしている。
それはまるで、心停止を告げるフラットラインの電子音のようだった。
「サ……シャ……?」
床に四つん這いになったまま、レンは喉の奥から引き攣った空気を押し出した。
返事はない。
彼自身の放った声すらも、空気を震わせることなく、口から出た瞬間に巨大な不可視のスポンジに吸い込まれるようにして掻き消えてしまった。
反響がない。壁がない。距離感がない。
レンは痙攣する右腕を無理やり引きずり、よろめきながら立ち上がろうとした。だが、足裏に伝わっていたはずの木目調の床の硬い感触は、いつの間にか完全に消失していた。
踏みしめるべき大地も、見上げるべき空もない。
前後左右、上下という三次元の基本概念すらもが、悪辣なバグによって削除されている。
「おい……嘘だろ。サシャ! 応答しろ! 聞こえてるなら……ッ!」
視界を埋め尽くしているのは、一切の陰影を持たない『純白の虚無』。
つい先ほどまで、彼が命を削って『拒絶の黄』を塗り込み、無限の色彩と生命の熱量を刻み込んだはずの「マルなな二」の夕暮れの校舎は、その痕跡すら残さずに完全に消滅していた。インクと木の温もり、血と泥の生々しい匂いは、肺の奥から強引に洗い流されている。
代わりに鼻腔を満たすのは、魂の最も柔らかい部分を無慈悲に抉り出す、ひどく冷たくて鋭利な匂い。
――合成消毒液の匂い。
何万リットルもの消毒液のプールに、頭まで沈められたかのような息苦しさ。肺呼吸をするたびに、内臓が急速に冷却され、細胞の一つ一つが霜に覆われていくような錯覚に陥る。
「サシャ……ッ、アーキテクトが、あんたに何を……!」
必死に呼びかけながら、レンの仮想の心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
物理世界で、彼女のポッドは完全にロックダウンされた。あの冷徹な管理官僚のコードが、彼女の脳領域に直接牙を剥いたことは疑いようがない。今この瞬間にも、彼女の存在を形作っていた記憶や感情が、この空間と同じように「無機質な白」によって塗り潰され、強制フォーマットによる自我消滅の凄惨な苦痛を味わっているのだとしたら。
自分を繋ぎ止めるために、掟を破って脳を焼いてまで導いてくれた彼女が、ただの空っぽの肉人形にされてしまう。
その想像が、レンの精神を狂気的な焦燥感で苛んだ。
助けなければ。次元の壁を越えて、今すぐ彼女のもとへ。
そう決意し、右手に握ったハッキングツールである古い筆に力を込めようとした瞬間――。
『…………どちら様、でしたっけ』
白の虚無の底から、カサカサに乾いた、擦り切れたレコードのような音声が響いた。
レンの身体は、まるで脊髄に何万ボルトもの電流を打ち込まれたかのように、ビクンと大きく跳ねた。
麻痺していたはずの右腕が、自らの意志とは無関係にガタガタと激しく震え出す。奥歯がカチカチと鳴り、全身の毛穴から脂汗が一気に噴き出した。
ゆっくりと、首だけを動かして「それ」を視認する。
上下も左右もない純白の空間の、唯一の中心。
他のあらゆる色彩を吸い尽くし、周囲の白と同化するようにして佇む、巨大な絶望の塊。
パイプベッド。白いシーツ。点滴のスタンド。
それらは、レンの背丈の何十倍もの巨大なスケールで空間に鎮座していた。そして、その上に横たわっているのは、薄気味悪いほど純白のノイズで構成された「父親の幻影」だった。
幻影という言葉では生ぬるい。それは、レンの脳細胞に焼き付いたトラウマのデータを、アーキテクトのシステムすら凌駕するほどの高解像度で再構築した、悍ましい具現化だった。
巨大なスケールで迫るからこそ、そのディテールは正視に耐えないほどグロテスクだった。
シーツから覗く首筋や腕は、骨の形が鋭角に浮き出るほど痩せこけている。長年の投薬と生命維持によって、脂気も水分も完全に失われた皮膚は、日に焼けて劣化した薄いトレーシングペーパーのようにカサカサに乾燥し、細かいひび割れが無数に走っていた。
その半透明の薄皮の下を、異常に太く青黒い静脈群が、まるで意志を持った蟲の群れのようにうねうねと這い回っている。ドクン、ドクンという緩慢で不規則な脈動が、空間全体に不気味な圧力となって波及してくる。
だが、何よりもレンの精神を破壊したのは、その顔だった。
痩せこけた頬。肉の落ちた顎。
そして、一切の光を宿さず、ただ茫漠と虚空を見つめている『乳白色に濁った瞳』。
それは、白内障や視力低下による混濁ではない。外界のあらゆる情報を遮断し、認識することそのものを根源から拒絶するために下ろされた、分厚いシャッターだった。
その瞳の奥には、虚無しかない。
かつて愛したはずの息子の姿はおろか、空の色も、人の言葉も、世界そのものが一切映り込んでいない。
『…………どちら様、でしたっけ』
リピートされるその音声には、怒りも、悲しみも、憎悪すらも含まれていなかった。
ただひたすらな『無への逃避』。
関係性の完全なる断絶を告げる、凍てつくような宣告。
その言葉が空間に響くたびに、レンの仮想肉体を構成するデータが、目に見えない巨大なヤスリで削り取られていくかのようにパラパラとノイズを立てて剥がれ落ちそうになる。
「ぁ……あ……」
レンは一歩後ずさろうとしたが、足が動かない。
先ほどのノイズの群れと戦った時、彼は死の恐怖を怒りでねじ伏せた。迫り来る爪や牙、物理的な破壊と苦痛であれば、生存本能に火をつけて反撃することができた。
しかし、目の前にいるこの巨大な純白のノイズは、レンを殺そうとはしていない。
ただ、初めから「存在していなかったこと」にしようとしているのだ。
CMRS(認知余白再配分制度)によって、社会から存在価値を否定され、他人の脳の片隅にゴミのように移住させられること。それ自体が耐え難い恐怖だった。
だが、それ以上に恐ろしいのは、自分を生み出した血を分けた親から、自身の歴史そのものを完全に消去されること。
「誰からも観測されなくなる」という、存在抹殺の極致。
社会から消されるよりも前に、もっと身近で絶対的な関係から、自分という存在が「無」へと帰されたというトラウマ。
腹の底から、臓器が冷たい氷の塊になってギュッと収縮していくような、耐え難い吐き気が込み上げてきた。
視界が明滅し、自己の輪郭が曖昧に溶けていく。
俺は誰だ? 俺は本当にここにいるのか?
誰の記憶にも残っていないのなら、俺という存在は、ただのエラーデータに過ぎないのではないか?
右手に握りしめていたはずの古い筆が、急にただの滑稽な木の棒に思えてきた。
どんなに色を放とうと、どんなに抗おうと、この絶対的な「忘却の白」の前では、すべてが子供の落書きのように無意味なのではないか。
精神が麻痺していく。戦意などという概念すら、漂白剤に漬け込まれたかのように溶けて消え去ろうとしていた。
『…………どちら様、でしたっけ』
三度目の宣告。
巨大な父親の幻影が、乳白色の瞳をギョロリと動かし、初めて焦点の合わない視線をレンの方へと向けた。
その瞬間、圧倒的な「白の圧力」が物理的な重さを持ってレンの全身に圧い掛かる。
「……やめろ。俺だ、親父……俺を、忘れるな……ッ!」
声にならない悲鳴を上げながら、レンは膝から崩れ落ちた。
血と泥にまみれた両手で頭を抱え込み、亀のように身体を丸める。
サシャを救わなければならない。次元の壁を壊さなければならない。その強靭な決意は、最大のトラウマが放つ『無の重力』の前に、粉々に打ち砕かれようとしていた。
絶対的な孤立と、自己存在が砂のように崩れ去っていく極限のパニックの中、レンはただ無機質な白の底で、息絶え絶えに震え続けることしかできなかった。




