36 黄色い土手
今回は定期診断で病院に行った時に思い出した2年前と、土手沿いの道を走った時のお話しです。
まだ3月も半ばだというのに、初夏のような陽射しに恵まれたバイク日和の火曜日だった。
今日は3ヵ月に一度の定期診断の日だ。
病気をしてからもうすぐ2年が経とうとしている。
家族に心配をかけ、リハビリに苦労をしたのがなんだか随分前のことのように思える。
私は仕事を昼で早上がりし、シェルパを病院へ向けて走らせた。
あまりの天気の良さにジンワリと汗がにじんでくる。
途中、コンビニの駐車場で冬用のジャケットのジッパーを胸まで下ろし、首からネクタイを引き抜いた。
襟元から入る風が気持ちいい。
走り出す。
30分ほどで病院の駐輪場にバイクを乗り入れ、ヘルメットを脱いだ。
診察の予約時間は午後2時。
左腕の時計に目をやると、ガラスにキズが刻まれたままの腕時計が、午後1時10分を指していた。
この時計のキズも、2年前の4月30日からついている。
初めてこの病院に来る途中、壁にぶつけて出来たキズだ。
あの時は上手く歩くことも出来ず、妻に支えられながら苦労して車に乗り、ここまでやって来た。
まさか脳梗塞と診断されてそのまま入院することになるとは思わなかったが。
それでも、今では多少の不便さこそあるものの、こうしてバイクにも乗ることが出来る。
我ながらついていたと思う。
同じ病気でも故人となっている人もたくさんいる。私の後輩の中にも、同じ病気で帰らぬ人となった子がいるくらいだ。
駐輪場でボンヤリと時計を眺めているうちに鼻がむずむずし始めた。
「ちょっと早いけど、まぁいいか」
暖か過ぎる陽射しと花粉から逃げるように病院内に入り、受付に向かう。
診察券を渡して受付を済ませると、血圧を測るように言われた。
私は血圧計の前へ行って座り、ジャケットを脱いで深呼吸を一つする。
左腕を機械に通してスタートボタンを押した。
30秒ほどでピーという音が鳴ってシューと空気が抜け、測定が終わる。
今朝測った数値とほぼ同じ数値だった。心拍数が高めなのは病院ということで少し緊張感があるからだろうか。
プリントアウトされた血圧値を持って診察室の近くの席まで行き、腰を下ろす。
携帯電話の画面を見ながらボンヤリと名前が呼ばれるのを待った。
こうしてここで待つのも何回目だろう。
ボンヤリとしているうちに、ポーンという間の抜けた音が天井のスピーカーから流れた。
「…牧村さーん、牧村尋也さーん、27番ドアにお入りくださーい」
呼ばれている。時計を見ると予約時間よりもだいぶ早かった。
席を立って診察室に入る。
「こんにちは」
挨拶をして患者用の丸い椅子に腰を下ろす。
「こんにちは。どうですか? なにかお変わりありますか?」
まだ若い医師がパソコンの画面で過去の記録を見ながらにこやかに聴いてくる。
「特に変わったことはないですね。血圧も上が110くらいの下が70くらいかな」
医師が受付票と一緒に渡した血圧の数字をパソコンに打ち込む。
「安定してますね、今朝の血圧はどのくらいでした?」
「さっき計ったのと同じくらいですね、107の65だったかな」
私の言葉に医師が頷く。
「うん。薬も合ってるみたいだし、また3ヶ月分同じ薬を出しておきますね。次の診察もまた3ヵ月後で」
「はい。お願いします」
これで今日の診察は終了だ。あとは薬をもらって会計を済ませるだけ。
いくつか検査をおこなう時もあるが、大体はこんな感じで定期診断は終わる。
私は医師に礼を言って席を立つ。
と、医師が思い出したように
「あ、牧村さん、実は私、今月一杯で違う病院に異動することになりまして、次回からは別の先生が診察をすることになります。経過なんかは引継ぎをしておきますが、何か診療時間や曜日の希望とかはありますか?」
と聞いてきた。
「いや、時間も曜日も今と同じでいいですよ」
「分かりました。ではお大事に」
「はい、ありがとうございます」
診察室を出た。
担当の医師が変わるのもこれで2回目だ。
大きな病院なので人事異動が意外と多い。
状態が安定しているので別にこちらに危機感は無いし、医師の側も同じだ。引継ぎさえきちんとしておいてくれれば私は一向に構わないし、むしろ異動と聞いて「春だなぁ」などと感じてしまう。
会計窓口に行き、番号札を受け取って待つ。
しばらくボンヤリとし、ふと時計を見るとまだ午後2時24分だった。
ポーンとまた例の音が鳴って壁にかかった液晶画面に番号札の数字が表示される。
薬と会計の準備が出来たようだ。
私は会計を済ませ、薬局の窓口で薬を受け取った。
時刻は午後2時35分。
表に出るとまだ太陽はバイク日和の陽射しを投げかけている。
私はシェルパのリアボックスに薬の紙袋をしまってからもう一度、時計を見た。
午後2時40分。
ヘルメットをかぶり、グローブをしてシートに跨った。
キーをONの位置に回し、スタートボタンを押す。
キュキュッ、バンッ、ババババ…
始動手順を省略してもエンジンは即座に目を覚ました。
チェンジペダルを踏み込んでギアを入れ、クラッチを繋ぐ。
動き出したシェルパを出口へと向かわせ、自宅とは逆方向にウィンカーを出した。
病院の敷地を出て、自宅から遠ざかりながら大きくアクセルを開く。
ダダダダダダダッと小気味良い音をたててライムグリーンの車体が加速する。
県道を北東方向へ。
陽射しを背中に浴び、暖かな風をジャケットの胸元にはらみながら走る。
市街地から遠ざかる路上には、同一方向には工業団地に向かうトラックが、対向車線には住宅街へ戻る一般車両が多い。
私は前を走るトラックとの車間を広めにとり、ゆったりとした速度でシェルパを走らせた。
このまま進むと、江戸川を渡って埼玉県と千葉県の県境を越える。
年度末で道路工事をおこなっている場所が多いのか、前方にある橋の手前から渋滞が始まっているのが見えた。
ウィンカーを左に出し、江戸川を越えずに土手沿いの道に進路を変える。
橋の手前を回り込むように道が大きくS字にカーブしていた。
ブレーキングしながら進行方向に視線を送る。
前走車がいなく、進路がクリアになっているのが目に入った。
クラッチを切ってアクセルを軽く煽り、ギアを落とす。
大きく体重移動をし、バイクを倒しこんでアプローチに入った。
最初の右カーブ。
つま先を路面に擦りながら遠心力とバランスする。
バイクが方向を変え終わるところで軽くアクセルを開けて車体を起こし、視線をさらに先に送った。
切り返して登って行く左カーブ。
重心を左に移した。
曲率に合わせてバイクが傾き、今度は左のつま先が地面に触れる。
徐々にアクセルを開いた。
足下で単気筒エンジンがダダダダダダッと鼓動を大きくし、登り勾配を駆け上がる。
コーナーを抜けると同時にバイクが起き上がった。
コーナーの出口がそのまま上り坂の頂上だ。
土手と同じ高さまで上がったことで一気に視界が開ける。
「ぅおおっ!」
思わずヘルメットの中で声が漏れた。
暖かな陽射しを浴びて、黄色のカーペットが視界のずっと先まで伸びている。
「菜の花か…」
土手一面が鮮やかな黄色の花でおおわれていた。
車が通る度に、その春の色をした斜面が揺れている。
土手沿いの道は菜の花を右手に見ながら緩やかに下っていく。
視界が下がると道の右側は黄色い壁で埋め尽くされた。
3月なのが嘘のような暖かい陽射しが、菜の花の色を浮き上がらせる。
「春だな…」
呟きながらアクセルを少し戻す。
後1ヵ月もすれば病気をしてから丸2年、さらに4ヶ月もすると2輪免許をとってから2年が経つ。
リハビリを担当した理学療法士は、練習を続けていけば『ほぼ元通り』の状態まで体を動かせるようになるだろうと言ってくれたが、それはあくまでも『ほぼ』だった。
今の日常生活にほとんど支障が無い以上、彼の言っていたことに間違いは無いのだ。未だに出来ないのは走ることや跳ぶことくらいなのだから。
どちらにしろ、血圧を薬で管理しているのだからあまり負荷の高い運動は出来ないし、今できないからといって焦る必要もない。
そもそも、こうしてバイクに乗れること自体が周囲に驚きを与えているのだ。
なんでもかんでも元通りを求めるのは欲張り過ぎというものだろう。
「もう2年か…」
ふー、とヘルメットの中で大きく息を吐いた。
黄色い土手に沿って緩やかにカーブしていく道に目をやり、頬を緩めながら再加速を始める。
シールド越しに、かすかな春の香りがした。
花粉症用のマスクをしていなければ、ヘルメットのシールドを上げて深呼吸でもしたいところだ。
「春が始まったんだな」
バイクに乗っていなかった頃に同じ景色を見ても、キレイだとは思っただろう。
でも、それだけだ。
今はあの頃よりもたくさんのことを感じられる。
花びらに透ける陽の光、風に乗って届く春の匂い、そして…‥陽射しの暖かさに感じる私達の心躍る季節。
病気をし、それでも無事だったからこそバイクに乗るようになり、バイクに乗るようになったからこそ感じられるものがたくさんある。
「この世界を感じられるようになったんだから、病気の先に得たものはデカかったのさ…」
小さく呟いて、シェルパのアクセルを大きく開いた。
陽を浴びて浮かび上がる黄色い土手のかたわらで、バイク乗りの季節が走り出す。
この『Rider's 遅れてきたバイク乗りが見る世界』を書き始めて4ヶ月が経ちました。振り返ってみた時の月日は経つのが早いものですね。
病気をしてもうすぐ2年、2輪免許を取って1年半。
病気をして不便を感じることもある日常が、スーパーシェルパに出会ってからは楽しい時間に変わりました。
相棒に感謝ですね。




