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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第162話 凍てつく絶望と終わりを拒む誇り

大広間おおひろまは、まるで何もかもを置き去りにした後のように静まり返っていた。

つい先ほどまで満ちていた旋律せんりつは消え、余韻よいんすら残っていない。

オーケストラの姿も、もうなかった。

床に残るのは、コンスタンティヌとエピメスの倒れた身体だけだった。

その中心にネクロスが立っている。

そして、その正面で俺は黒い氷の中に閉じ込められていた。


指が動かない。

腕も、脚も、何もかも。

呼吸すらまともにできず、肺に入った空気がすぐに抜けていく。

冷えが体の奥をむしばみ、血の流れも感覚も、じわじわと失われていく。


(……動けよ……)


力を込める。

指先に。腕に。全身に。

けれど動かない。

すぐそこまで来ている終わりを、はっきりと感じているのに。


(なんで……動かないんだよ……)


ネクロスの声が氷越こおりごしに届く。


「アポリト ミデンは絶対零度ぜったいれいどに達する氷だ。魔力マギアを持たぬ貴様では脱出など不可能だ」


感情は一切乗っていない。ただ事実だけを並べる声。


「仮に炎の魔法を使えたとしても、この氷を溶かせるものなど限られている。パンドラの炎以外にはな」


わずかに目が細められる。


「だがそのパンドラは、すでに私のうちにある。もはや邪魔は入らん」


――その言葉が胸の奥に沈む。


(……ああ……)


ドクン。


……ドクン。


鼓動は弱く、遠い。


(……そうか……)


胸が締めつけられ、空気が入らない。


(……俺は……ここで死ぬのか……)


視界が暗く沈んでいく。


(パンドラ……)


意識の奥でその名前を呼ぶ。


(お前の体から、ネクロスを追い出せなくて……ごめんな……)


その時、ネクロスの前に一つの影が立った。

老いた身体。足取あしどりは頼りない。

それでも一歩ずつ前へ出ていた。


(……エピメス……?)


ネクロスが振り返る。


「何かするつもりらしいが、そのおとろえた体と魔力マギアで、この私に通じると本気で思っているのか」


「それでも貴様からパンドラを救う為には、この方法しかない」


迷いのない声だった。

その瞬間、エピメスの体から白銀の光がにじみ出す。

最初はあわい。

だが、確実にさを増していく。

やがて、それは形を持った輝きへと変わっていく。


(……あの光……)


氷り越しの視界が、わずかに揺れる。


(見える……そして、知ってる……)


記憶の奥が反応する。


(俺が、ゼリオクスから……受け取った時と、同じ光だ……)


それは技でも魔法でもない。

命を賭けると決めた者だけが最後まで手放さなかった意志の光だった。

エピメスがゆっくりと口を開く。

そして両腕を広げる。


「パンドラは……貴様の体へ戻ったのだろう。ならば、今度こそ、この魔法は貴様に通用する」


ネクロスは一切動じない。


(やめろ……)


声にならない叫びが氷の内側うちがわで弾ける。


(エピメス……やめてくれ……)


どうなるかは分かっている。


(その体で戦えば……エピメスは……死ぬ……)


その考えが浮かんだ瞬間、ネクロスは消え、次の瞬間にはエピメスの目前もくぜんにいた。

伸びた手が喉元をつかみ上げ、五本の指が容赦ようしゃなく食い込む。

詠唱は途中で途切れた。


「が――」


「どうした。続けてみろ」


エピメスは残った力を引きずり出し、詠唱を無理やり続けようとする。

だが、喉が完全に潰されている。


「――ぁ……」


言葉が形にならない。


おろかだな。貴様も死でつぐなうか?」


ネクロスの左拳ひだりこぶしに闇が凝集ぎょうしゅうする。

その瞬間、周囲の動きが止まったように感じた。

音も気配もすべてが遠ざかる。

その静寂せいじゃくの中で、俺の右手が淡く光り、かすかな熱がじわりと広がる。

そして、意識の奥で声が響いた。


「だらしねぇな、天空てんくう


唐突とうとつに、はっきりと響く。


(……だ、れだ……)


「自分の力を出し切れないまま終わるつもりか?」


(……ゼリオクス……)


名前が自然と浮かぶ。


「俺たちがお前にたくしたものは、こんなところで終わるような軽いもんじゃないはずなんだけどな」


(……でも……俺は……動けない……この氷から……)


「それがどうした」


今度は別の声が重なる。


「いかなる運命にさらされようとも、生き続けよ――そう言ったはずだ。お前の中にある煌焔家こうえんけの誇りは、その程度のものか?」


(……パイロス……)


その言葉が奥に沈んでいた記憶を引き上げる。


「忘れたのか。お前は俺たちのこぶしぎ、その先を生きると自ら選んだのではなかったのか」


――ドクン。

心臓が一度強く鳴る。


(……そうだ。俺は……誓ったんだ)


ドクン。


(どんなことがあっても立ち止まらないって……)


ドクン。


(みんなの想いも……誇りも……全部、背負うって……!)


「へっ、立ち止まってるように見えて、本当はもう決まってるじゃねぇか。だったら、そのまま行けばいい。救うんだろ?仲間を」


ゼリオクスの声が響く。


――ドンッ。

心臓が強く打つ。


(……そうだ、俺は……)


血が全身を駆け巡る。


(エピメスを救う。パンドラを取り戻す。そしてルナと一緒に、あいつに……イヴァンに会いに行く)


視界が開く。


(まだ……終わらせない……!)


「その調子だ。迷ってる暇なんてねぇだろ」


最後の一押しのように、声が背中を押す。


「行け、天空てんくう。お前ならやれる」


その瞬間、黒い氷がひび割れるように震えた。

ネクロスの視線が動く。


「……何だ」


ピシッ。

小さな音。


「まさか……」


熱が体の奥から一気に広がる。

奪われていたはずの感覚が一つずつ戻ってくる。


パキン。

ひびが一気に走る。


「ば、馬鹿な……!」


ネクロスの声が初めて揺れる。


次の瞬間。


バキィンッ!!

黒い氷が内側からくだった。

破片が空中に散り、光を反射しながら床へと降り注ぐ。

その中心に俺は立っていた。


ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ――!


胸の奥で確かな鼓動が響く。

それは俺一人のものじゃない。

たくされたもの全部がそこにある。

ゆっくりと顔を上げる。


ネクロスの指がエピメスの喉をつかんだまま、ほんの一瞬、力がゆるむ。


「……エピメス、悪いな。もう少しで終わるから……ここは俺に任せてくれ」


その瞬間、エピメスの全身を覆っていた白銀の光が音もなく崩れ、張り詰めていたものが一気にほどけていく。

光は空気に溶け、指の隙間すきまからこぼれ落ちるように消えていった。

支えていた力が消え、身体が傾く。

それでもエピメスは最後までこちらを見ていた。

何かを言おうとするように。

だが、声にはならず、崩れ落ちた身体が床を打ち、重い音だけが残った。

それでも俺は目をらさなかった。

倒れたエピメスではなく、真正面に立つネクロスを見据みすえたまま、ゆっくりと目を閉じる。


息を吸う。

肺が焼けるように痛むが、それでも構わず吸い込む。


吐く。

その一拍の静寂せいじゃくの中で、身体の奥に沈んでいたものへ意識を落とす。


――ドクン。

応えるように鼓動が鳴る。

次の瞬間、周囲の空気がゆがむ。

足元の床が低くうなり、体が熱を帯びたように赤くにじみ始める。

じわりと広がるその変化は、やがて空間そのものを押し広げるようにふくれ上がっていった。


「はあああぁぁぁ!ヒートウェーブヴェイル」


沈んでいたオーラが呼応こおうするように浮かび上がり、全身を包み込む。

それは炎のように揺れながらも、燃えてはいない。

形を持たないはずの意思が、確かにそこに在るものとして立ち上がっている。

さらに、両腕に紅蓮ぐれんのオーラが絡みつくように集まり、渦を巻きながら凝縮ぎょうしゅくしていく。


ネクロスの目が見開かれる。


「……魔力マギアは、感じられぬ。だが……あの男の体に、何かが起こっている……」


俺はゆっくりと目を開く。


「俺には魔力マギアがない」


一歩、前へ出る。


「だけどな、煌焔家こうえんけから受け継いだものがある」


こぶしを握ると、鼓動に合わせて熱が応える。

そして、はっきりと言い切る。


「それは、いつか誰かの道標みちしるべになる、あいつらが夢見た未来だ」


視線をぶつける。


「そしてエピメスが望んでる――ただ、明日を笑って迎えるための当たり前の希望。それが、俺のオーラを形にした。……お前を倒し、煌月家こうげつけの未来を取り戻す」


ネクロスの気配が変わる。


「そうか、ならば煌月家こうげつけ当主として貴様をほうむるまでだ」


「ふざけんな。煌月家こうげつけの当主はパンドラだ。てめぇに、煌月家こうげつけを継ぐ資格はねぇ」


床を弾き飛ばす勢いで、深く踏み込む。

次の瞬間、ネクロスの右手が前へと突き出された。

黒い突風が空間ごと裂くように吹き抜ける。

視界がゆがむ。

それでも止まらない。


「――効かねぇ」


そのまま突き抜け、距離をつぶす。

拳を振り上げる。

ネクロスが口を開く。


「貴様の動きなどすべて見えている」


だが、その言葉の途中でドクンッ、と鼓動が跳ねた。

血流けつりゅうが爆発する。

視界が一気にまされる。


「なに――?」


「おらあああぁぁ!」


下から突き上げる。


「ぐはっ――!」


左拳ひだりこぶしが一直線にネクロスの腹を打ち抜き、そのまま踏み込む。

間を置かず右拳みぎこぶしを振り抜き、ネクロスの左頬ひだりほほを捉えた。

鈍い衝撃音が響き、ネクロスの身体が横へ弾け、床へ叩きつけられる。


沈黙――わずかな間。

ネクロスがき込み、血を吐いた。


「……馬鹿な……この私に……当てただと……?」


視線がこちらを捉える。

理解が追いつかないまま、思考をめぐらせる。


「あの男の力は……すでに見切ったはず……」


だが、答えに辿り着けない。


「当てるなど、不可能だ……何故……?」


ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ――!


胸の奥で打ち鳴らされる音が、ただの鼓動ではなく、俺の全身へ命令を送り続けているかのように響いていた。

それに呼応こおうするように周囲に立ち上る熱が揺らぐ。

揺らぎは不規則ではない――一定のはくに合わせて増幅ぞうふくしている。

ネクロスの視線がその異変を逃さなかった。


「……心音しんおん


低く、確かめるようにつぶやく。

ゆっくりと体を起こしながら、その目は俺かられない。


「鼓動に合わせて炎がらいでいる……だが、本質はそこではない」


口元の血を指先でぬぐい取り、その赤へと視線を落とす。

次の瞬間にはすでに思考を組み上げ終えていた。


「心拍数を意図的に引き上げ、その瞬間ごとに力を上乗せしているのか……肉体をみなもとにした強化、魔力マギアかいさないたぐいか……」


そこにあったのは驚愕きょうがくではなく、理解した者の冷静さだった。

ネクロスの呼吸が詰まり、顔がわずかにゆがむ。

それでも視線は一切ぶらさず、俺をとらえ続けている。


「……やはり」


ゆっくりと息を整えながら、淡々と続ける。


「貴様だけは私の部屋で見た時から、見過ごすべきではないと判断していた」


一歩、また一歩と距離を詰める。

圧が空気ごと押し寄せてくる。


「だからこそ結論は出ていた。貴様は先に排除すべき存在だと」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが繋がった。

俺はゆっくりと口元を歪めた。


「……やっぱりな。てめぇのあの部屋の肖像画、あれはただの飾りじゃねぇと思ってたぜ」


ネクロスの目がほんのわずかに細くなる。


「見ていやがったんだろ。あの時、あれを通して」


あの時感じた視線。

あの場に似つかわしくない、監視されているような感覚。

一歩踏み出し、こぶしを握る。

鼓動がさらに一段強く跳ねる。


ドクンッ――!

胸の奥で弾けた鼓動と同時に熱が一気に全身へと走った。

血流けつりゅうが暴れる。視界が鋭くまされる。


「てめぇはとことん趣味の悪いヤローだな!」


吐き捨てるように言い放つと同時に距離を詰める。


ネクロスは一切表情を崩さないまま、静かに右手を掲げた。


「黙れ、冥絶めいぜつ 塵滅じんめつ


次の瞬間、ネクロスの前方で闇が弾けた。

空間そのものががれたように歪み、その余波よはが真空の刃となって連続で襲いかかる。

見えない衝撃に触れればえぐられる。


だが――


(見える)


心臓の拍動はくどうがさらに加速する。


ドクンッ――!

一拍ごとに、すべてが遅くなる。

迫る衝撃の軌道、空気の歪み、ネクロスの指先の微細な動きまでもが、はっきりととらえられる。

俺は一切足を止めず、襲い来る不可視ふかしの斬撃をかわしながら間合いを詰める。

頬のすぐ横を見えない斬撃がかすめていくが、それすらもう遅い。


「効かねぇって言ってんだろ!」


踏み込みと同時に床が弾け、そのまま体をねじり、軸を保ったまま回転へと繋げる。

腰、肩、脚――全身の力が一点に集まる。


「うおおおおぉぉ――!」


回転が加速する。


「ハリケーン スイング キック!!」


螺旋らせんを描く蹴りが、紅蓮ぐれんの軌跡を引きながらネクロスへと振り抜かれる。

ネクロスの瞳がわずかに揺らぐ。

だが同時に反撃はすでに放たれていた。


「遅い――冥伏めいふく 無明むみょう


音が遅れて届く。

その間に漆黒しっこくの蹴りが弧を描いて迫っていた。

だが、さっきとは違う。

もう追いつけない速度じゃない。


「うおおおらぁぁっ!」


振り抜いた脚を軌道に乗せ、そのままネクロスの脚と正面から激突する。

衝突の瞬間、空気が弾け、裂ける衝撃の中で互いの力がぶつかり、動きが止まる。

一瞬の拮抗きっこう

しかし、次の拍動はくどうで崩れた。


ドクンッ――!

力が乗り、そのまま押し切る。

ネクロスの蹴りを弾き飛ばし、その反動すら乗せるように回転を切らさない。


「ここで止まるかよ!連続 ハリケーン スイング キック!」


うなりを上げた回転が加速する。

紅蓮ぐれんを帯びた脚が弧を描き、ネクロスの横顔へ叩き込まれた。


「……ぐっ」


衝撃をそのまま殺さず、着地と同時に跳ね上がる。

軸は崩さない。回転はさらに一段、速度を増す。

引き絞るように全身の力を束ね、頂点へと引き上げる。


「くらいやがれぇぇ!」


振り下ろす。


「スピニング アックス クラッシュ!!」


叩き落としたかかとが一直線に振り抜かれ、空気ごと押し潰すような衝撃がネクロスの肩へと叩き込まれる。

鈍い音が遅れて響く。


「ぐっ……はっ……!」


骨を伝うような重い手応えが確かにあった。

ネクロスの身体が沈み、支えを失ったように崩れ落ちる。


床へと叩きつけられた衝撃が静まり返った空間に響いた。

それきり、音は途絶えた。

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