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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第161話 守るために手放したものと残された鼓動

大広間には変わらず重い旋律が流れていた。

弦が低く唸り、管が絡みつき、打楽が間を刻む中、その音は空間に沈み込み、逃げ場を奪うように満ちている。

その中心で俺とネクロスは向かい合っていた。

ただ、ネクロスの視線だけがこちらを捉え続けている。


息を一つ吐く。


「なぁ、一つだけ聞かせろよ。パンドラの両親が死んだのは……てめぇの仕業か?」


空気がほんのわずかに止まる。

だがネクロスは一切迷わない。


「そうだ。私を処刑し、魂すら壺へ封じた。その報いとして終焉の精霊にあの二人を繋いだ。私を思い出すたびに命を削られる――記憶から逃れられぬまま、最後は死に落ちたのだ」


その声には事実を並べるだけの冷たさがあった。

だが、その言葉を聞いた瞬間、意識の奥が大きく揺さぶられた。


(……うっ)


パンドラの動揺がそのまま流れ込んでくる。

俺は視線を逸らさないまま息を整える。


「どうしてだよ。自分の親だろ」


一歩踏み出す。

音楽の重さが足にまとわりつく。


「パンドラは両親を慕っている。それなのに、お前はどうしてそこまで踏み外せるんだよ」


拳を握る。

わずかに間が空く。


「……自分の親を殺すなんて何も感じないのかよ……本当に、お前はそれでいいのかよ」


ネクロスの瞳がほんのわずかに細くなる。

それは感情の揺れではなく、ただ値踏みするような視線だった。


「何を感じるかなど問題ではない。あの男に煌月家を継ぐ資格はない。あろうことか煌月家は帝国の軍と和平を結んだ。それは神王様の教えに背く行為。煌月の血統を裏切った時点で、守る側ではなく、裁かれる側に落ちたのだ」


断定だった。


「裏切り者は、ただ裁かれるのみ」


迷いは一切ない。

それはネクロスの中で疑いようのない正義として固まっている。

沈黙が落ち、音楽だけが流れ続ける。

その音すら重さをさらに押し込んでくる。


「……はっ。どこまでいっても自分だけが正しいって顔だな」


肩の力を抜きながら、ゆっくりと両腕を上げる。

頭上で両拳を打ち合わせる。


――ギンッ。

身体の奥でオーラの流れが一つに繋がる。

そのまま、全身に巡っていたオーラを一気に解放する。

白い光が揺らぎながら滲み出し、そのまま両手へと吸い寄せられていく。


「はああああぁぁ……!」


呼吸と同時にさらに押し込む。

余計な流れをすべて切り捨て、両拳だけに集める。


(精霊力と体のオーラを両拳に乗せれば技の威力は上がる。だけど、その分防御はがら空きになる)


ほんの一撃でも受ければ終わる。

リスクは高いが、今はこれしかない。


ドクン、ドクン、ドクン。

心臓が鳴る。

血が全身へ押し流される。


だが――


「……静かだな」


ぽつりと呟く。

胸の奥へ意識を向ける。


(違う……こんなもんじゃねぇだろ)


あの時、タナエルと戦った時の鼓動。

あれがあればネクロスを倒せる。


(もっと上がれよ……)


拳を握る。


「これじゃあ、足りねぇんだよ」


――ドンッ。

躊躇なく自分の胸を殴りつける。

鈍い衝撃が胸の奥まで沈み込み、骨の芯を揺らす。


「ぐっ……」


(天空、何をなさっているのですの?)


パンドラの声が鋭く割り込む。


「心拍数が上がらねぇ。タナエルとやった時みたいにならねぇんだよ」


ドクン、ドクン、ドクン。


(……違う)


もう一度、胸を叩く。


(それ以上叩くと、あなたの胸が壊れてしまいますわよ)


「上等だろ……!」


押し殺した声で低く吐く。


「……あの時のあの状態なら、あいつにも届くはずなんだ」


(くっ……)


意識の奥でパンドラも何かを探るように沈む。


(心音が上がらない……なんでだよ……)


拳を強く握り直す。


(もっと動けよ。上がれ……俺の心拍数)


心臓へ意識を集中させる。

視界が狭まり、呼吸が乱れる。

それでも――


(まだ足りねぇ……!)


その瞬間だった。


「どうした。何かするのではなかったのか?」


ネクロスの声がすぐ近くで響く。

その視線が、わずかに鋭さを増した。


「ならば、こちらから行こう」


次の瞬間、距離が消えた。

視界からネクロスの姿が消える。


(なっ……!?)


思考が追いつくより先に空間が歪む。


「貴様には無が相応しい!冥伏(めいふく) 無明(むみょう)


気づいた時には、すでに間合いの内側に入られていた。

音だけが遅れて耳に届き、その間にも漆黒の蹴りが迫る。

軌道ははっきり見えているのに身体がその動きに追いつかない。


首を引き、身体を捻り、紙一重で外す。

そのはずだった。

視界の端でもう一つの影が重なる。


(……なっ!?)


再びネクロスの姿が消える。

次の瞬間、別の位置から拳が来る。


「――くっ」


回避が一手遅れる。

頬をかすめ、空気が裂ける。


(速ぇ……!)


センソーラで軌道を追うが、それでも間に合わない。

捉えたはずの動きがすぐに次へと切り替わる。

漆黒の拳が連続で迫り、右、左、斜め、背後と間断なく襲いかかる。

空間そのものが歪み、軌道すら狂わされる。


(どこだ……!)


避ける。


避ける。


避け続ける。


それでも――


ドンッ。

腕に衝撃が走る。


「ぐっ……!」


骨の奥まで鈍い衝撃が走り、わずかに体勢が崩れる。


「どうやら、当たるようになってきたようだな」


ネクロスの声がすぐ近くで重く響く。


(くそっ……!技の速度を上げてきやがった……完全に見透かされてる……!)


オーラを両拳に集めた瞬間からすべて読まれている。

踏み込むと同時に右拳を叩き込むが、その一撃はあと数センチの距離を埋めきれないまま空を切る。

ネクロスはすでにその位置におらず、残像すら残らない。

次の瞬間、ネクロスが右手をかざす。


冥絶めいぜつ 塵滅じんめつ


闇が弾けると同時に、空間そのものを削り取るような真空の衝撃が連続で襲いかかる。


「くっ……!」


両腕で受け流しながら逸らし、最小限の動きで軌道をずらしていく。

だが――


――ズキン。

腹の奥が鋭く軋む。

塞がっていた傷が内側から開くような痛み。

呼吸が一瞬だけ乱れた。


(……ぐっ)


その一瞬、ネクロスの姿が視界から消えた。


「終わりだ――常闇とこやみ 蹂躙じゅうりん


声が目の前で響く。

避ける暇はない。


「――しまっ」


漆黒の拳が胸の奥に直接叩き込まれる。


「ぐあああああぁぁっ!」


身体が吹き飛び、そのまま床を転がる。

衝撃が遅れて全身を駆け抜ける。

呼吸が、できない。

視界が揺れる。


「ぐはっ!」


口から血が溢れる。

熱い。

床に落ちる音だけが、やけに鮮明に響いた。


ドクン、ドクン、ドクン。

心臓はまだ動いている。


(くそっ……これでも……心音は……上がらねぇのかよ……)


鼓動は強い。

それなのに、あの時の領域に届かない。

決定的に何かが足りない。

その時だった。


(……はっ、しまった……!パンドラ……!)


急いで頭の内側へ意識を向ける。


(天空、わたくしはまだここにいますわよ)


その声にわずかに息が戻る。


(良かった……でも、なんで……)


視界が揺れる中、ネクロスがゆっくりと近づいてくる。

逃げる必要などないと言わんばかりに、そのまま見下ろした。


「パンドラ、それが死の恐怖だ」


静かに告げる。


「お前にも、死がどのようなものかを味わわせてやろうと思ってな」


その言葉で理解する。


(……こいつ、わざとだ……パンドラを奪えなかったんじゃない。奪えたはずなのに、奪わなかった)


心臓がわずかに強く鳴る。

怒りが混じる。


「ぐっ……ちくしょう……」


床に手をつく。

震える手に力が入らない。

それでも指に力を込め、足を引き寄せて身体を引き起こし、無理やり立ち上がる。

口元から垂れた血が床にぽたぽたと落ちる。

胸を押さえる手は震えたまま、呼吸は浅く、肺の奥にうまく空気が入ってこない。


(……天空)


意識の奥でパンドラの声が静かに響く。


(……大丈夫だ、パンドラ。もう少しだ……もう少しで、俺の心臓が高まるはずだ)


言葉にすることで、かろうじて繋ぎ止める。

今にも途切れそうな意識を無理やり引き戻していく。


(そしたら……あいつをぶっ倒せる)


だが、そのわずかな希望を嘲るように冷たい声が落ちた。


「無駄だ。貴様では私に触れる事すら出来ん――冥伏(めいふく) 無明(むみょう)


次の瞬間、空気が裂け、音だけが遅れて耳に届く。

視界の端に黒い軌道だけが残る。


――ドンッ。

腕に衝撃が叩き込まれる。


「ぐっ……!」


骨の奥まで振動が走る。


「はっはっはっは、どうした。パンドラを守るのではなかったのか?」


嘲笑と同時に漆黒の拳が連続で叩き込まれる。

右、左、上――隙がない。

一撃ごとに軌道を変え、逃げ場を確実に潰してくる。


「くっ……!」


耐えきれず両拳に集めていたオーラを解き、両腕で受けに回る。

全身を使って衝撃を流す。

だが、腹に一撃がめり込む。


「ぐはっ……!」


呼吸が途切れ、体勢が崩れる。

下がったガードの隙間を迷いなく打ち抜かれる。


――ドゴッ。

顔面に直撃する漆黒の拳。

視界が白く弾けた。


「……くそっ」


額から血が流れ落ちる。

視界の端で、流れた血が視界をかすめる。


その時だった。


(……天空)


パンドラの声が今までとは違う静けさで響いた。


(わたくしをかばっているせいで、あなたは本来の力を出し切れていないようでして)


その言葉に、一瞬だけ思考が止まった。


(これ以上戦ったら……あなたは死んでしまいますわ)


「はっ?何を言ってるんだ?」


息を荒げながら反射的に言い返す。

だが、パンドラの声は揺れない。


(わたくしは……兄の元に戻ります)


「――なっ」


言葉が途切れる。


(そして兄を説得いたします。わたくしが戻れば、あなたもエピメスも助かるはずですわ)


その声はあまりにも落ち着いていた。

覚悟を決めた者の、それだった。


「馬鹿な考えは止めろ!パンドラ!やめてくれ!」


叫ぶ。

だが、届かない。


(天空、短い間でしたが……楽しかったですわ)


「やめろ……」


(あなたにはルナがいます。ですから……ここで終わってはなりませんわ。どうか最後まで生きてくださいませ)


「やめろって言ってんだろ……!」


その瞬間、両腕で固めていたはずのガードが内側から強引に引き剥がされる。

パンドラの意志が流れ込み、ネクロスの攻撃を受け入れるように両手が開かれる。

その瞬間、胸の内側にぽっかり穴が空くような感覚が広がった。


「……くっ!?やめろ!パンドラ!」


叫びは届かず、そのまま喉の奥で途切れて消えた。


「どうやら、諦めて私の元に帰る気になったか、パンドラよ」


ネクロスの声がすぐ目の前で低く響く。

視界を上げた瞬間、漆黒の闇を纏った掌底が一直線に胸へと迫っていた。


「がっ……ああああぁぁっ!」


衝撃が身体の奥まで突き抜ける。

肺の中の空気が一気に吐き出され、そのまま後方へ吹き飛ばされる。


――ドンッ。

背中から床に叩きつけられた。

衝撃で視界が揺れ、息ができない。

胸が焼けるように痛む。

それでも意識の奥へ必死に呼びかける。


「くっ……パンドラ……おい、パンドラ!」


返事はない。

何度も呼ぶ。


「パンドラ!おい、返事しろよ!」


沈黙。

さっきまで意識の奥にいたはずのパンドラの気配が、完全に消えている。


「叫んでも無駄だ」


冷たい声が降りてくる。

見上げると、ネクロスがこちらを見下ろしていた。


「パンドラはすでに我が元に戻った」


その言葉が遅れて胸の奥に引っかかったまま残る。


「……ちくしょう」


喉が震える。


「パンドラ……どうしてだよ……」


握った拳が、力なく床に落ちる。

指先が震える。


ネクロスはわずかに視線を外していた。

その意識はもはや俺ではなく、パンドラへと向けられている。


(……パンドラ)


声にはならない。

だが、胸の奥で強く念じる。


(俺が不甲斐ないせいで、お前を奪われた……)


視界の端で流れた血が床へ落ちていく。


(……待ってろ。絶対に、その体からネクロスを追い出してやるからな……)


ゆっくりと身体を起こす。

膝に力を込めると、ぐらりと視界が揺れた。

額から流れる血が目に入り、焦点が定まらない。

足元の感覚が曖昧で、床との距離がうまく掴めない。

それでも立つ。


「……はぁっ、はぁっ」


息を吐きながら、どうにか体勢を保つ。

その瞬間、ネクロスの視線がこちらへ戻る。


「パンドラは私に、お前とエピメスを見逃すように言ってきた」


感情のない声で淡々と告げる。


「だが、貴様のその力……あまりにも危険だ。ここで逃がせば、貴様は必ず私に歯向かうだろう」


俺はふらつく足で一歩踏み出す。

それでも視線だけは逸らさない。


「……当たり前だ。俺は死ぬまで……パンドラの体からてめぇを追い出してやる」


ネクロスの瞳が、わずかに細まる。


「やはり、貴様だけは今ここで殺しておかなければならんな」


その瞬間、空気が一気に重くなり、音が一段遠のいた。

ネクロスが一歩踏み出そうとしたその刹那、身体が止まる。

見えない何かに押さえ込まれたように、その場に縫い付けられていた。


「……あり得ぬ……体が、動かない……?」


ぼやけた視界の中でネクロスを見据える。

確かにそこにいるはずなのに、圧だけを残してネクロスの輪郭がわずかに揺らいでいた。


(……パンドラ、お前なのか。俺に、逃げろと言っているのか)


胸の奥で言葉にならない揺れが込み上げる。

次の瞬間、背後で見ていたルージェとコンスタンティヌが動いた。


「この場は引く。今のうちにエピメスを連れて逃げるのだ」


判断は一瞬だった。迷いはない。

だが、その言葉を遮るように前へ影が差し込む。


ジェラントス。


「どちらへ向かわれるおつもりですかな」


低い声。笑みすら含んだ静けさ。


「ネクロス様の戦いは、まだ終わっておりません。ここから先はお通しできません」


ルージェが一瞬だけ目を細める。


「……ジェラントス」


その声は息を詰めるような緊張を帯びていた。

そのまま隣のコンスタンティヌへ視線を向ける。


「この男の相手は私がする。エピメスと天空を頼んだ!」


その言葉と同時にルージェの手の中で水晶が淡く黄色に光った。

空気がわずかに歪む。


「これは転移魔法、テレポロス メタバシスが込められた魔法水晶だ。これでお前と私はこの場から離脱する」


「なっ……!お止め――」


ジェラントスの声が跳ねる。

次の瞬間、淡い光が二人を包み、輪郭が崩れるようにその場から消えた。

残されたのはコンスタンティヌとエピメス。

コンスタンティヌはエピメスを肩に担ぎ、こちらへ一歩踏み出す。


「我々も城から脱出する。捕まってくれ」


だが、その瞬間、黒い突風が空間ごと切り裂くように吹き抜けた。


「ぐあああっ……!」


コンスタンティヌとエピメスの身体が後方へ弾き飛ばされ、そのまま一気に距離が引き離される。

空間ごと押し潰す圧が、届くはずの間合いを一瞬で奪い去る。

視界の中で二人の姿が遠ざかっていく。


ネクロスの声が低く響いた。


「どこへ行こうというのだ。貴様は私から逃れられぬ」


その宣告だけが覆しようのない事実として場を支配する。


「邪魔をするな、パンドラ。この男はこの場で処刑する」


ネクロスの全身から溢れ出した漆黒の闇が光を呑み込むように広がっていく。

その中心で静かに手が持ち上がった。


「……来るがいい」


低く落ちたその声と同時に俺の周囲の空間が歪む。

次の瞬間、四方から黒い竜巻が立ち上がった。


(これは……ただの魔法じゃねぇ……)


視界を覆うように渦巻くそれは、ただの風ではない。

触れた瞬間に削り取られるような、異質な圧を帯びている。


「パンドラを取り返した今、全力で貴様を殺しに行けるというわけだ」


ネクロスの声が静かに響く。


(……まだ、こんなもんじゃなかったのかよ……)


すぐに構え直す。

全身にオーラを巡らせ、両腕をクロスし、頭上で固める。

その瞬間、竜巻が襲いかかる。


ズガガガガッ!!

無数の衝撃が連続で叩き込まれる。


(ぐっ……!)


喉の奥で息を押し殺し、全身にオーラを集中する。


(……これなら、まだ耐えられる……!)


オーラで防ぎ、流し、受ける。

ギリギリで保っている。

だが――


「どうかな?」


「なにっ?」


視界を上げた瞬間、目の前にネクロスがいた。

気づいた時には胸ぐらを掴まれている。


「ぐっ……!」


そのまま軽々と持ち上げられる。

足が地面から離れた。


「は、離せ……!」


力を込めるが、指一本動かせない。


「貴様は抵抗できぬまま、切り刻まれる」


その言葉と同時に四つの竜巻が一つに収束する。

巨大な黒の渦が俺を中心に巻き上がる。


「はっはっはっは!」


ネクロスの笑いが低く響く。


「パンドラを私から奪った罰だ。思い知るがいい――エレボ ストロボロス」


「……ぐっ……ああ……!」


全身に断続的な衝撃が走り、表面だけで終わらず、骨の奥まで鈍く響いてくる。

視界が黒に沈み、そのまま意識が引きずられかけた瞬間、不意にすべての音が途切れた。

竜巻が止む。


「……がっ、はっ」


同時に、掴まれていた身体がそのまま投げ捨てられる。


――ドンッ。

床に叩きつけられる衝撃で息が漏れる。

全身が動かない。

痛みだけがはっきりと残っている。


「ほう……まだ息があるようだな」


ネクロスの声が降りてくる。

ぼやけた視界の中で右手が掲げられ、詠唱が始まる。

逃げることも起き上がることもできないまま、その瞬間、両手と両足に何かが絡みつく。

黒い闇が四肢を縛り、そのまま身体が持ち上げられた。


「……ぐっ」


力が抜け、抵抗する余裕すら残っていない。


「貴様に永遠の闇を与えよう――アポリト ミデン」


その直後、ネクロスの周囲から溢れた闇が一気に膨張し、空間の光が凍りつく。

熱までも奪われる中、その闇は止まることなく広がり、そのまま俺の身体を覆い尽くした。


「……あああああぁぁ……!」


動けない。

呼吸も止まりかける中、次の瞬間、パキン、と乾いた音が響いた。

黒い氷が一気に身体を覆い、腕も脚も胸も凍りついていく。

意識が引きずられるように遠のき、音も光も感覚も閉ざされていく。


最後に残ったのは――かすかに沈んでいく、鼓動だけだった。

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