第159話 救うための代償と魂へ繋がる希望の扉
エピメスは前方を見据えたまま、視線を動かさなかった。
魔導装甲車の内部は不自然なほど静まり返っている。
駆動音は抑えられているはずなのに、床越しに伝わる微かな振動だけが一定の間隔で身体を揺らしてくる。
本来なら、その単調な揺れは意識にすら残らない。
だが、その感覚が今は離れない。
一定であるはずのリズムが思考の隙間に入り込み、わずかに集中を削っていく。
外の景色は視界に入っていなかった。
意識はすでに別の一点に向いている。
(……パンドラを取り戻す)
それだけは最初から変わっていない。
だが同時に、わずかな遅れが致命的になるという感覚だけが頭の奥に残り続けていた。
パンドラの体からネクロスの魂を引き離す。
やるなら今しかない。
この機会を逃せば同じ条件で接近できる保証はない。
その時には、もう手の届かない場所にいる可能性が高い。
そう判断した瞬間、他の選択肢は切り捨てた。
(どれだけ準備が足りていなくても関係ない。整っていない状況で動くことがどれだけ危険かは分かっている。それでもこの機会を見送る方が、結果として取り返しのつかない後悔になる)
そう決めたはずだった。
それでも呼吸の奥にわずかな違和感が残る。
(……本来なら、ここまで強引に動く必要はなかった)
全員で包囲し、逃げ道を潰し、確実に仕留める。
それが最善であり、これまで魔影軍が積み上げてきたやり方だ。
分かっている。それが最も成功率の高いやり方だと。
結果だけを拾うために感情を切り離す。
――それなのに。
(今回はその形を自分から崩している。私の選択が本当に正しかったと、まだどこかで言い切れずにいる)
ラザロの顔が脳裏をよぎる。
何かを伝えようとしていた、あの目。
あの時の判断を最後まで信じ切れているのか。
それとも結果が出るまで疑い続けるしかないのか。
思考が沈みかける。
(違う。あの場で足を止めても、状況が好転するとは思えない。なら、天空さんがやるべき役割が自分に回ってきただけだ)
意識を引き戻す。
(天空さんのあの状態でネクロスと戦っても勝てる見込みは薄い)
腹の負傷と体力の消耗。
条件は明らかだった。
(だから、私がやるしかない)
ここで引けば取り返しがつかなくなる。
他に選択肢は残っていない。
エピメスはゆっくりと目を閉じた。
浮かぶのは戦闘ではない。
その先にある結果だ。
(ネクロスをただ倒すだけでは駄目だ)
それではパンドラを取り戻せない。
(ネクロスを殺せばパンドラはそのまま消える)
だが、今のままでもパンドラの魂がいつまで耐えられるのかは分からない。
どれだけの時間が残されているのかも分からない以上、悠長に構えている余裕はない。
だから、待てない。
何も出来ないまま意識すら奪われて消えていく。
(……それはパンドラの死と同じだ)
その想像が胸の奥に沈む。
(それだけは許せない。たとえどんな結果になろうと、パンドラの魂がそのまま失われる結末だけは絶対に選ばせない)
呼吸がわずかに乱れる。
(私なら……私の魔法ならパンドラを取り戻せるはずだ。パンドラの魂が完全に消える前であれば、ネクロスの魂を引き剥がす余地は残っている)
そこに、わずかな確信がある。
ネクロスの魂を分離する。
それが出来るのは自分だけだ。
(だから、単独でも行く。この判断に伴うリスクは理解しているが、それでも他に現実的な手段が存在しない以上、迷っている時間の方が無駄になる)
最初から選択肢はなかったはずだった。
それでも思考は止まらない。
(……パンドラは、今どうなっている)
意識はまだ残っているのか。
それとも、もう届かない場所まで沈められているのか。
別の思考が割り込む。
(もし、もう届かない場所にいるのなら――)
どれだけ急いでも間に合わない可能性がある。
その想像が、ゆっくりと広がっていく。
止める術もないまま際限なく。
(最悪の場合……)
魂そのものが消えている。
パンドラの身体だけが残り、ただ使われている状態。
(その時点で……パンドラを取り戻すという行為そのものが成立しなくなる)
そこまで思考が進んだ瞬間、息がわずかに詰まる。
(……いや、断定するには早い)
この段階で最悪を前提に動く理由はない。
可能性が残っているなら、それに賭けるしかない。
ネクロスの禁呪。
天空さんから聞いたものと同じなら、パンドラの魂はまだ消えていない。
その一点に思考が縛りつけられる。
気づけば指先に力が入っていた。
握り込んだ拳が、わずかに震えているのが分かる。
(考えるな。ここで思考を巡らせ続けても状況は変わらない。判断が鈍るだけだ)
このままでは時間だけが削られていく。
(もう迷う理由はない。最初に決めた考えから外れなければ、それでいい)
その時、車体が大きく揺れた。
地形が変わったのか、振動が一段強くなる。
同時に前方の視界がわずかに開けた。
闇の向こうに規則的に並ぶ影が浮かび上がる。
エピメスの目が細まる。
「……明かりを消してください。今すぐに!」
短く命じる。
急制動と共に車体が揺れ、動きが止まる。
エピメスは即座に扉を開き、車外へ出た。
そのまま車体の上へ跳び上がり、闇に目を凝らす。
(――見えた)
列を成して進む煌月守衛軍の魔導装甲車。
「……なぜだ」
抑えきれない違和感が声に滲む。
(タナエルも……パソニアも倒れたはずだ。それでも隊列が維持されているということは、誰かが指揮を引き継いでいるか、あるいは最初からその体制が用意されていたかのどちらかになる)
指揮を執る者はいないはずだった。
(誰が指揮している?まさかジェラントスか……だが、あの男が前線で直接動くとは考えにくい。そうなると、別の要因があるのか、それとも単にこちらが把握しきれていないだけか)
考えは巡るが答えは出ない。
その間にも魔導装甲車は確実に距離を詰めてくる。
(このまま進めば接触する)
回避は間に合わない。
正面から行けば余計な戦闘が発生する。
(――最悪だ)
一瞬で判断を下す。
エピメスは同乗していた煌月守衛軍の兵士へ視線を向け、そのまま地面へ降りた。
「私はここで降ります」
「あなた方はアジトへ戻り、この状況をティモーリス様に伝えなさい」
短く迷いのない指示。
「……しかし――」
「もう時間がありません」
言葉を重ねる余地はない。
沈黙のあと、小さく返答が落ちる。
「……了解しました」
エピメスは歩き出す。
迷いなく煌月城の方向へ。
背後でエンジン音が再び高まり、魔導装甲車が反転する気配が伝わる。
だが、振り返ることはない。
視線はただ前へ。
迫り来る煌月守衛軍の隊列を横目にその隙間を縫うように進む。
足取りに迷いはない。
音だけが抑えられている。
胸の奥にあるのは、ただ一つ。
冷えた決意。
(……必ずパンドラを救ってみせる。この状況がどれだけ崩れていようと、想定と違っていようと関係ない。ここまで来た以上、結果だけを引き寄せるしかない)
その意志だけを抱え、エピメスは闇の中を進み続ける。
◇
煌月城の正門が視界に入った瞬間、エピメスはわずかに足を緩めた。
違和感が先に来る。
本来なら門前には常に複数の見張りがいる。
昼夜を問わず交代で警戒が維持されているはずの場所だが人影がない。
静まり返った門は、まるで最初から誰もいなかったかのように開かれている。
「……おかしい。こんなに門の警備が薄いなんて、ありえない。何かが起きている」
抑えきれない緊張が声に滲む。
エピメスは門の向こうへ視線を送った。
開かれたままの通路の先、中庭までもが不自然なほど静まり返っている。
(静かすぎる。人員が割かれているというより、意図的に空けられている……内部で何かが起きているか。あるいは外からの侵入を想定して配置を変えている可能性もある)
一瞬の思考の後、エピメスは足を止めなかった。
「だが、このまま行く」
門を越え、そのまま城内へ足を踏み入れる。
抵抗はない。だがそれが逆に不自然だった。
警戒が緩んでいるとは考えにくい。
むしろどこかに集中していると見るべきだ。
このまま無防備に進むのは危険だが立ち止まる時間の方が惜しい。
進みながら探る。
そう決めた瞬間、歩みは迷いなく再開されていた。
それでも人の気配はない。
「……城の警備を捨ててまで、全員で進軍したのか。どうして、そこまでして――」
視線をわずかに落とし、思考を整理する。
「さっきの煌月守衛軍の隊列。ネクロスは……総動員で帝国のアジトを潰しに出たか」
標的を絞り、徹底的に叩く。
そのために城の防備すら切り捨てた。
わずかに息が詰まる。
「やはり彼にとって優先すべきは邪魔者の排除。城を守ることではない」
その結論だけが残る。
(このままでは帝国軍と煌月家の衝突は避けられない。全面的な戦闘に発展すれば、双方に大きな損害が出るだけでなく、状況そのものが制御できなくなる。そうなる前にパンドラを元に戻す必要がある)
エピメスは歩みを止めず、まっすぐ奥を見据えた。
その直後、空気がわずかに変わる。
(……監視の魔法か)
侵入はすでに感知されている。
位置も時間の問題で把握されるはず。
(だが、問題ない。最初から隠れるつもりはないし、ここで気配を消したところで意味があるとも思えない。むしろ感知されることを前提に動いた方が、相手の出方が読みやすい)
その瞬間だった。
視線の先、開けた通路の中央に何もなかったはずの空間が歪む。
次の瞬間、一人の男が立っていた。
整えられた白髪。隙のない立ち姿。
だが、その容姿は本来の年齢から明らかに逸脱している。
エピメスはその姿を見て、静かに目を細めた。
「……ジェラントス」
ネクロスによって若返った煌月家の執事。
かつてと変わらぬ礼節を纏いながらその存在は、もはや以前の老いはなかった。
ジェラントスはゆっくりと一礼した。
「ようこそいらっしゃいました、エピメス様」
その声、場の緊張とは裏腹にあまりにも穏やかだった。
エピメスは視線を逸らさず静かに返す。
「……やはり、あなたは城に残っていたか」
ジェラントスはいつもと変わらぬ落ち着いた所作で応じる。
「ええ。今の私はネクロス様の執事でございますので、当然のことかと」
口調も振る舞いもかつてと寸分違わない。
だが、その自然さが、かえって違和感として引っかかる。
「私を止めるためにここにいるのか」
探るように言葉を重ねるとジェラントスはわずかに首を横に振った。
「いいえ。あなたはネクロス様にお会いしに来られたのでしょう」
一歩、横へ退く。
道を空ける。
「でしたら、私がご案内いたします」
「……案内、ですか」
わずかに間が生まれる。
侵入者を拒まない。それどころか奥へ通そうとしている。
(何故ジェラントスは侵入者である私をここまで堂々と通す……罠の可能性もあるが、あまりにも露骨すぎる)
思考が一瞬だけ走る。
(最初から排除する気がないのか。それとも、こちらを利用するつもりか)
結論は出ないまま思考だけが巡り続ける。
(だが、どちらにせよ同じだ。ここで立ち止まれば時間だけが失われる。目的から外れる理由にはならない。進んだ先で対応するしかない)
小さく息を吐く。
「分かりました。案内を」
「では、こちらへ」
ジェラントスは背を向け、そのまま迷いなく歩き出した。
エピメスも無言のまま後を追う。
通されたのは見慣れた構造の円形の小部屋だった。
中央に立ち、そのまま階層を移動する。
城内の移動手段として何度も利用してきた空間だ。
ジェラントスが扉に手をかける。
扉が開いた瞬間、視界が切り替わる。
次に足を踏み出した時にはすでに上階の回廊に立っていた。
(玉座のある階層とは違う……意図的に別の場所へ誘導されているのか、それとも単なる経路の問題か)
それでもエピメスは何も言わず、ただジェラントスの背を追い続ける。
やがて重厚な扉の前で足が止まった。
「ネクロス様はこちらにいらっしゃいます」
静かな声と共に扉が開く。
次の瞬間、音が流れ込んできた。
弦の震えが空気を満たし、管の響きがそれを広げる。
遅れて、低く重い打楽の音が全体を支えていた。
大広間ではオーケストラが寸分の狂いもなく音を重ねていた。
旋律は沈み込み、内側へと引きずり込むような重さを帯びていた。
エピメスの視線が自然と中央へ向く。
そこに一人の男が座っていた。
背を向けたまま、ただ静かに音を受けている。
エピメスとジェラントスはそのまま歩み寄る。
足音は音に溶け、距離だけが静かに縮まっていく。
(……この距離まで来て気づかないはずがない。それでも振り返らないということは、最初からこちらの接近を把握した上であえて放置している。そう考えるのが自然だが……)
わずかな違和感が残る。
だが足は止めない。
そして、距離が詰まったその瞬間、男がゆっくりと手をかざした。
その動きだけで演奏が止まった。
余韻すら残らない断ち切られたような静寂。
音は消えたはずなのに圧だけが残る。
張り詰めた空気の中、ジェラントスが一歩前に出た。
「こちらがネクロス様でございます」
「……なに?」
思わず声が漏れる。
振り返ったその姿はパンドラのものではなかった。
若い男の姿。
黒く長い髪に、深く沈んだ黒の瞳。
肩にかかるマントは紫を帯びた紺で光を鈍く反射している。
空気が重い。
立っているだけで体の内側を押さえつけられるような感覚。
(……これは単純な魔力の差じゃない。場そのものを支配されているような圧迫感……息を整えないと、意識まで引きずられる)
無意識に呼吸を整える。
ネクロスはエピメスを見据え、淡々と口を開いた。
「貴様は、あの時に逃げた連中の一人だな」
感情の揺れはない。
ただ確認する声。
「それで?この私に何の用だ」
エピメスは一歩も引かず視線を返す。
「……パンドラの体をどうしたのだ」
ネクロスの口元がわずかに歪む。
「変えたのだよ。煌月の血がこの私の魔力に適応するようにな」
「血が……体を変えただと……」
理解が追いつかない。だが、否定はできない。
(肉体そのものを適応させた……?ただの乗っ取りじゃない。魔力で支配したのか。だとすれば、想定していた事態よりも深い……だが、それでも――)
思考を途中で止める。
可能性を並べる時間はない。
ジェラントスが静かに口を挟んだ。
「ネクロス様。こちらはエピメスと申す者でございます」
「ほう」
ネクロスは改めて視線を向ける。
「貴様がエピメスか。パンドラが世話になったようだな」
一拍、沈黙が落ちる。
「それで、この私に何を求める」
「決まっている。パンドラを返してもらう」
ネクロスの視線がわずかに揺れる。
「だが、どうする。見たところ、貴様はあの男より強いわけではあるまい」
エピメスはその言葉を遮るように続ける。
「あなたは禁呪を使い、肉体を捨てて魂だけで生き延びた。そしてパンドラの体を乗っ取り、周囲の人間を若返らせ、従わせている」
ネクロスはわずかに首を傾ける。
「……それが、どうした」
興味すら感じさせない声だった。
エピメスは視線を逸らさない。
「パンドラが私の記憶を失ったあの日から、私は何年にもわたって禁呪を調べ続けてきた。魔法の構造も、魂の仕組みもすべて調べた。その上で対抗手段を用意した」
その瞬間、足元から光が滲み上がる。
淡い脈動が全身へと走る。
「――深淵に眠る魂よ。我が血を糧とし、我が肉を器として応えよ。境界を隔てし鏡を割り、形なき意志をこの身に宿さん。凍てついた鼓動を熱源とし、閉ざされた門を内側より開け……!光は血管を巡り、影は精神に溶けゆく。我が命を依代とし――いざ降臨せよ」
(禁呪の構造は一致している……完全ではないが魔法は成立するはずだ。問題はその後だ……)
一瞬の迷いを切り捨てる。
(……いや、そこは考えるな。成功させることだけに集中しろ)
意識を一点に絞る。
「私を通したのは失敗だったな。この魔法は一つの肉体に重なって存在する二つの魂を分離させ、本来そこにあるべき魂を残したまま侵入した側だけを引き剥がし、別の器へ移すものだ」
一歩、踏み出す。
光が強まる。
「つまり、貴様をパンドラの体から叩き出し、この身に移す」
ネクロスは黙ってそれを見ている。
やがて口元がわずかに歪んだ。
「……それで?移したところで、どうする」
「お前に私の体を使わせるつもりはない」
さらに一歩、距離を詰める。
「意識を侵食される前に終わらせる。私は自分ごと殺す」
空気がわずかに止まる。
ネクロスの目にかすかな興味が浮かぶ。
「ほう……」
両腕がゆっくりと広がる。
防ぐ気配はない。ただ、受け入れる構えだった。
(……来ると分かっている。それでも何故攻撃してこない?それとも、防ぐ必要すらないと見ているのか――)
違和感が残る。
だが、もう止まれない。
「ならば、試してみるがいい」
エピメスは息を吸い込み、そのまま言葉を叩き込む。
「人神一体――プシュケー エノシス!」
エピメスは両腕を大きく広げる。
その姿は魂を受け入れるための器そのものだった。
閃光が弾け、大広間を塗り潰す。
だが、その中心に立つネクロスは動かない。
光を真正面から受けながら、ただ見ている。
まるで、その結末を最初から見越しているかのように。
エピメスは息を整えようとする。
だが、魔法を展開していた余韻がまだ身体の奥に残っていて、思考と呼吸がわずかに噛み合わない。
(……おかしい)
魔法は確かに発動していた。
詠唱も間違えていない。
魔力の流れも、途中で断ち切られた感覚はない。
それなのにネクロスの魂を引き剥がせていない。
(魔法に反応しない……?いや、違う)
違和感はすぐに形を変える。
あの体の中にある魂の反応は確かにある。
(パンドラの魂が、存在していない)
その結論が頭の奥に落ちた瞬間、時間がわずかに遅れたように感じられた。
(……あの体の中には、もうパンドラの魂がない……まさか、消えてしまったのか)
思考がそこへ辿り着いた直後、重なるようにネクロスの声が落ちる。
「違うな。あの男から聞いていなかったのか」
あまりにもあっさりとした口調だった。
「パンドラは既に私から奪われている。貴様の仲間――天空という男によってな」
「なっ……?」
漏れた声は驚きというより確認に近かった。
(……天空さん)
意識が引きずられるように、あの瞬間へ戻される。
偶然に見えた一撃。だが――
(違う。あれは偶然じゃない)
ばらけていた記憶が静かに繋がっていく。
(あの時に……パンドラの魂は、既に引き剥がされていたのか)
ネクロスは興味を失ったように淡々と言葉を続ける。
「どうやら知らなかったようだな。だからこそ、その魔法は私には通用しない」
その言葉と同時にエピメスの身体を満たしていた光が力を失い、役目を終えたかのように静かに収束していく。
張り詰めていた意識がほどける。
魔法に集中していた分だけ生まれた隙へ、別の思考が流れ込んできた。
(……そうか)
胸の奥に張りついていた焦燥が、ゆっくりとほどけていく。
(天空さん……あなたは既にパンドラを救っていたのか)
その核心に自分より先に辿り着いていた。
それが理解できた瞬間、浮かんできたのは焦りでも悔しさでもなかった。
(私は……愚かだな……)
小さくそう思う。
だが、それすらもすぐに静まっていく。
(……天空さん、私の身勝手な行いを許してほしい。私の事は構わず、どうか万全の状態で来て欲しい)
一度だけ、自分の選択を振り返る。
だが後悔は残らない。
(……でも、それでいい。あの人なら、パンドラを守れる)
確信だけが静かに残る。
(天空さんなら、パンドラを……ちゃんと生かしてくれる)
胸の奥にあった緊張が解け、エピメスはゆっくりと息を吐く。
その安堵を断ち切るように。
「何を気を緩めている。貴様は今から死ぬのだ」
次の瞬間、視界が大きく揺れた。
気づいた時には額を強く掴まれている。
逃げ場はない。
黒い光が視界を侵す。
それは魔法というより、存在そのものを削り取る現象だった。
「ぐあああああああぁぁ……!」
内側から何かが崩れていく。
筋力が急速に失われ、骨が軋み、皮膚が乾ききっていく感覚がはっきりと分かる。
視界の中で自分の腕がみるみる老いていく。
金色だった髪は色を失い、白へと変わっていく。
呼吸が続かない。
肺がうまく空気を取り込めない。
「はっ……はぁ……っ」
やがて手が離れた瞬間、支えを失った身体はそのまま崩れ落ちた。
床の冷たさが遅れて伝わる。
ネクロスはそれを一瞥し、興味を失ったように視線を外す。
「ジェラントス。この男に最後の居場所を用意してやれ。その愚かさを刻むためのな」
「この場に、でございますか」
「構わん」
ネクロスは大広間を見渡し、わずかに口元を歪める。
「良い音楽と良い食事、そしてそれを前にして死んでいく者。悪くない眺めだろう」
「かしこまりました。相応のものを用意いたします」
やがて運び込まれた十字架にエピメスの身体が固定される。
抵抗する力はもう残っていない。
視界が持ち上げられ、オーケストラの中央へ据えられる。
再び音楽が流れ始める。
先ほどと同じ旋律。だが今は違う。
一音ごとに内側へ沈み込むような重さが残る。
ネクロスはそれを眺めながら、どこか懐かしむように呟いた。
「片時も忘れたことはない。父に処刑された、あの屈辱の日を。だが私は戻った。父も母もこの世にはいない。今や煌月家はこの私のものだ」
その言葉をエピメスは正面から受ける。
否定する力はない。
だが、思考は止まらない。
(……違う)
目の前にあるのは圧倒的な存在。
抗う余地などないように見える。
それでも――
(これが終わりじゃない)
その確信だけは揺らがなかった。
(これほどの深い闇があるなら、それを打ち破る光も必ず存在する)
理由も証明もない。
それでも、そうとしか思えなかった。
ネクロスがわずかに目を細める。
「ほう、まだ笑うか」
エピメスは答えない。
ただ、ゆっくりと視線をずらす。
ネクロスではない。
その背後の扉へ。
なぜか、そこから目が離れなかった。
(……来る)
拘束されている間も、その感覚だけは一度も途切れなかった。
その瞬間、扉が開いた。
暗がりを押しのけるようにまっすぐ光が差し込む。
視界が白く滲む。
その中に、影がある。
一歩、踏み込んでくる。
その気配を感じた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが音もなくほどけた。
「よう、エピメス。探したぜ……」
その声を聞いた瞬間、エピメスは静かに笑った。
(……天空さん)




