第158話 失われるはずだった命と取り戻すための決断
アムネシアの森の前で、ようやく決着がついた。
張り詰めていた気配が途切れ、空気が重く落ちた。
遅れて夜の冷たい風が流れ込み、汗に濡れた肌を容赦なく冷やしていく。
「はぁ……はぁ……見てたか?パンドラ」
荒い呼吸のまま頭の奥へ呼びかける。
だが、返事はなく、不自然な静けさだけが広がる。
「……タナエル。あいつは……本当に死んだのか?」
誰に聞かせるでもなく、言葉が漏れる。
自分で確かめなければ落ち着かないほど、あの男が簡単に終わるとは思えなかった。
俺は腹を押さえ、痛みを押し殺しながら倒れているタナエルのもとへ近づく。
タナエルは仰向けに倒れていた。
だが――まだ意識は残っていた。
「が、がはっ……」
「……まだ生きていたか。煌月守衛軍の軍団長だけあって、さすがにしぶといな」
俺の言葉に、タナエルの瞳がわずかに揺れる。
かすかに焦点を結び、こちらを捉えた。
「……向かうがいい……」
「……ああ?」
俺は眉をひそめる。
タナエルは血を吐きながら、言葉を絞り出す。
「分かっていた……あの方が……貴様を呼ぶ理由など……ただ事ではない……」
息は途切れかけているのに、それでも言葉は続く。
「だから……来た……煌月守衛軍として……止めるために……」
わずかに視線が揺れ、森の闇へとゆっくり逸れていく。
「……だが……この様だ……避けられぬ流れだったか……」
口元がわずかに歪む。
「……貴様に……敗れるとはな……」
言葉が途切れかける。
それでも、もう一度だけ視線が俺に戻る。
「煌月城へ……行け……」
「……何だと?」
「ネクロス様が……貴様を呼んでいる……」
(ネクロスが俺を呼んでいる?)
タナエルの呼吸がさらに浅くなり、指先がわずかに地面を掴む。
「貴様は……そこで――死ぬことになる」
断定された言葉が呪いのように妙に重く残った。
次の瞬間、タナエルの胸の動きが止まり、瞳から光が消えた。
その時、背後から気配が近づく。
終焉の精霊――リリシス。
「やっと死んだのね」
ためらいなく、あっさりと言う。
「あなたのおかげで解放されたわ。ありがとう」
「……はぁ?何言ってるんだ?」
感謝される理由が分からない。
むしろ、胸の奥に引っかかるものが広がる。
その違和感を確かめる間もなく――
タナエルの倒れている場所に、淡い紋様が浮かび上がった。
円を描くそれは古い刻印のようで、ゆっくりと回転している。
中心がわずかに歪み、そこから細い光が引き上げられるように昇っていく。
「……なんだ?何をしてるんだ?」
リリシスが片手を上げる。
すると光はそのまま軌道を変え、まっすぐ彼女の手元へ吸い寄せられていく。
指先に触れた瞬間、紋様ごと収束し、音もなく消えた。
まるで――回収されたかのように。
タナエルとのやり取りが脳裏に浮かぶ。
戦いの最中、この精霊は一切介入しなかった。
それどころか、どこか他人事のように眺めていた。
『死んでくれたら、それで終わる』
確かに、そう言っていた。
「……おい」
自然と声が低くなる。
「――じゃあねぇ~」
軽い調子で背を向ける。
「おい、ちょっと待てって!」
間合いを詰めるように踏み出す。
リリシスは振り返りもせず、気だるそうに答える。
「なぁに?私は戦わないわよ」
「そういう話じゃねぇよ。お前はタナエルと一緒にここまで来たのに、なんで助けなかった?タナエルの命令で動いてるんだろ?」
問いかけると、空気がわずかに張り詰める。
リリシスはゆっくりと振り返った。
その表情からは先ほどまでの軽さが消えていた。
「だって助ける理由なんてないもの」
迷いなく言い切る。
「私は終焉の精霊。アルテミスハーストで造られた存在じゃないわ。あなたが見ているこの姿も、人間を基にした仮の形に過ぎない」
一歩、こちらへ近づく。
「それに――人間に取り憑く条件は決まってる」
「人間に取り憑く?」
「そう。肉体の寿命が一年未満の人間」
「……一年未満?」
「私は人間に取り憑いていないと、他の魂を終わらせることができないの」
淡々とした口調のまま続ける。
「この男は本来、その条件を満たしていた。だから私との契約で終わりを与える力を得ていた」
そこで、わずかに苛立ちが滲む。
「でもこの男はネクロスの若返りの禁呪で寿命を引き延ばされた。そのせいで、契約だけが残って条件から外れたのよ」
視線がわずかに細くなる。
「分かる?」
「……いや、よく分かんねぇな」
「寿命が引き延ばされたせいで、私はあの男と何年も一緒にいなきゃいけなくなったの!」
「……はぁ」
(……タナエルは何年も前からネクロスの力で若返っていたのか)
言葉が出ない。
それを見ていたリリシスは興味を失ったように、懐から小さな帳面を取り出す。
ぱら、とページをめくる。
「私は忙しいの!この男に付き合わされている間に本来終わるはずだった魂が、もう百も溜まってる」
「……どういう意味だ」
「生き延びちゃったのよ。本来なら消えるはずだったのに」
指でページを軽く叩く。
「だから魂を回収しないといけないの。そのために終わりに近い人間を探して、契約して、順番に消していく」
そこで初めて、まっすぐ俺を見る。
「そうじゃないと、大変なことになるわ」
その一言だけが重く残る。
次の瞬間、リリシスの足元に紋様が広がる。
淡く光りながら回転するそれは、さっきのものとは違う。
移動のためのものだと直感で分かる。
「おい!待てって言ってんだろ!」
思わず声を上げる。
「じゃあねぇ~」
それだけ言って――紋様が一気に光を強める。
次の瞬間、姿は消えていた。
後に残ったのは、冷えた夜気と、説明のつかない静けさだけだった。
俺はゆっくりと視線を落とし、すぐそばに倒れているカティフラクトを見る。
動かずに横たわっているその身体。
だが、さっきまで深く貫かれていたはずの腹部にはもう傷がない。
(カルポロスの影響か……)
あの薬のせいで強引に回復している。
だが、それが正常でないことは一目で分かる。
一方で――
自分の腹に触れた瞬間、嫌な感触が指先にまとわりつく。
血は止まっていなかった。
「ぐっ……」
奥から鈍い痛みが込み上げる。
張り詰めていた感覚が緩んだせいか、抑え込んでいた痛覚が一気に押し寄せてくる。
「くっそ……」
押さえ込むように腹に力を込める。
それでも、じわじわと血が滲んでいく。
「……気を抜いた途端に、これかよ」
吐き出すように呟き、顔を上げる。
(そうだ……イオアンヌ……)
視線を遠くへ向ける。
戦いを見ていたはずの場所――そこに倒れたままの影が見えた。
「……生きてるか」
腹を押さえたまま、足を引きずりながら歩き出す。
一歩ごとに鈍い痛みが響く。
どうにか辿り着くと、イオアンヌはうつ伏せのまま顔だけをこちらへ向けていた。
「……イオアンヌ、無事か?」
「ああ……ちゃんと見ていたよ。あのタナエルを倒すところを……全部な……凄かった」
イオアンヌはかすかに笑っていた。
呼吸は荒いが、意識ははっきりしている。
その言葉に俺は小さく息を吐き出す。
その瞬間、上空から気配が降りてくる。
反射的に視線を上げると、ルージェとコンスタンティヌ、そして玄冥魔軍の兵士たちがこちらへ降りてくるところだった。
地面に着地したルージェが、すぐにこちらを見る。
「無事か」
「ああ……なんとかな」
軽く答えるが、声に力はない。
「タナエルはどうなった」
横からイオアンヌが答える。
「彼が倒した」
その一言で周囲の空気が変わった。
兵士たちの視線が一斉にこちらへ集まる。
ルージェの目が、わずかに見開かれた。
「あのタナエルを……倒したのか」
俺はわずかに肩を動かして返す。
「ああ。ルナとラザロは?」
「仲間たちが到着している。すでにアジトへ運んだ。エピメスもルナたちに同行した」
その言葉に胸の奥の緊張がわずかに緩む。
「……そうか。よかった」
短く呟き、すぐに表情を引き締める。
「それより、カティフラクトを助けてくれ」
振り返り、倒れているその身体を見る。
「あいつはカルポロスを打たれてる。見た目は治ってても――体の中がどうなってるか分からねぇ。早く解毒剤を打たないと!」
ルージェは即座に頷いた。
「分かった。すぐに運ぶ」
そして一歩近づき、俺の状態を見て眉を寄せる。
「そなたの体も限界だ。一度アジトへ戻る」
「……ああ」
その直後、兵士たちが一斉に詠唱を始めた。
足元に淡い光の紋様が広がっていく。
魔力の流れが空気を震わせる。
視界がわずかに霞む。
その中で、最後に見えたのは――倒れたままのタナエルと夜の森だった。
――そこで、意識が途切れた。
◇ ◇ ◇
目を開けた時には、ベッドの上だった。
身体を押さえられ、周囲を取り囲む治療師たちが一斉に詠唱を始めていた。
淡い光が重なり合い、腹部へと集まっていた。
焼けつくような痛みが、じわじわと引いていく。
だが、完全には消えていない。
「……うっ」
抑えきれず息が漏れる。
表面は塞がりつつあるが、奥に鈍い痛みが残っている。
「お目覚めになられましたか、天空さん。回復魔法で傷は塞がってきていますが……完全な回復には時間がかかります」
治療師の一人が静かに告げる。
「今夜の突撃までに万全の状態に戻すのは難しいでしょう」
「……そうか」
タナエルとパソニアは倒した。
けど、まだ終わっていない。
(……煌月城に行かなければ)
ジェラントスを闘いの場から引き離し、ネクロスの元へ辿り着く。
だが現実は思っている以上に厳しい。
俺はこの状態。
カティフラクトも戦線復帰は望めないだろう。
(俺はネクロスのところまで行けるのか……)
ゆっくりと息を吐く。
焦ってもどうにもならない。
――だが。
(あの言葉……)
タナエルが最後に残した言葉が頭の奥にこびりついて離れない。
――ネクロスが俺を呼んでいる。
(あいつは知ってやがる。パンドラが俺の中にいることを――)
それを知った上で呼んでいる。
それならネクロスの目的は一つ――パンドラを取り戻すこと。
――その時、扉が開き、ルナが入ってくる。
「天空、怪我の調子はどう?」
ルナの姿を見て、少しだけ力が抜ける。
「腹の傷は塞がってきてる。けど完全に戻るまでは時間がかかるそうだ」
俺は言葉を選びながら答える。
「思ったより傷は深くはなかったみたいだ。これも普段からオーラの鍛錬を続けてたおかげかもしれないな」
ルナは静かに頷いた。
俺はそのまま視線を落とし、ルナの左腕を見る。
「……ルナの腕はどうなんだ?」
「私も傷自体は治ってるわ。でも、魔力が戻ってない。今の私では……戦力にならない」
「そっか……」
「……うん」
「ラザロは?」
「エピメスが付きっ切りで治療してるわ」
その言葉に小さく頷いた。
――その時だった。
扉が再び開く。
「エピメスはいるか?」
ティモーリスが顔を出す。
ルナが振り返る。
「ラザロの治療にあたってるわ。回復魔法に集中するから、部屋には入らないでほしいって――」
「……いや。ラザロの部屋にはいなかった」
一瞬、空気が止まる。
「……えっ?」
思わず声が漏れる。
ルナの表情が固まった。
「そんな……」
嫌な感覚が背中をなぞる。
考えるより先に言葉が出た。
「ラザロに聞きに行くぞ。あいつなら何か知ってるかもしれない」
ベッドから身体を起こす。
腹に鈍い痛みが走るが、それでも構わず立ち上がる。
「……天空」
ルナの声が制止する。
「大丈夫。話を聞くだけだ」
短く答え、そのまま扉へ向かった。
◇
ラザロがいる部屋の前で足を止める。
静かすぎた。
嫌な予感が確信へと変わる。
扉を開ける。
「うーーーっ!」
一瞬、呼吸が止まる。
ラザロは寝台の上で起きていた。
だが――布団を剥ぐと、両手両足は拘束され、口には布が詰め込まれている。
「おい、ラザロ!」
すぐに口の布を引き抜く。
「はぁ……っ、はぁ……!」
荒い呼吸が一気に溢れる。
「……エピメスが……あいつは……煌月城に向かった……!」
「……何?」
一瞬、思考が止まる。
「この部屋を出てから……もう一時間以上は経ってる……」
「なんで……」
ラザロの目に涙が滲む。
「パンドラを元に戻すためだ……あいつ、また……命を懸けるつもりだ……」
拳がわずかに震える。
ラザロが必死にこちらを見る。
「頼む……エピメスを……助けてやってくれ……」
沈黙が落ちる。
腹の痛みが強くなる。
だが――それ以上に、胸の奥が熱を帯びていく。
(俺のせいだ……俺の中にパンドラがいることをエピメスに話していれば、こんな事にはならなかった)
思考が止まらない。
(あいつは……パンドラを救うためなら、命を賭けてどんなことでもする)
分かっていたはずだった。
それなのに、エピメスに言わなかった。
(どうして……こうなると気づけなかった……)
胸の奥が鈍く軋む。
その時、玄冥魔軍の兵士が入ってきた。
「大変です、ティモーリス様」
「どうした?」
「アムネシアの森に止めてあった煌月守衛軍の魔導装甲車が一台ありません。それと、治療にあたっていた煌月守衛軍の兵士一名と、待機していた魔影軍の兵士二名がいなくなっています。やはり、エピメス様は煌月城に向かったと思われます」
「くそっ!なんで俺を置いて行ったんだよ。……あいつだけは絶対に死なせたくないのに。なんでだよ!」
抑えきれず吐き捨てる。
ルナがわずかに身を乗り出す。
「天空、どうするつもりなの?」
俺は一度、ゆっくりと息を吐く。
胸の奥で渦巻く感情を押し込めるように。
そして顔を上げる。
迷いはない。
「決まってる。エピメスを助けに行く」
言い切る。
「それに――タナエルは死ぬ前に言っていたんだ。ネクロスが俺を呼んでいるって」
その一言で、空気が変わる。
ティモーリスの目が細くなる。
「……呼ばれている、だと?」
(ネクロスは俺を呼んでいる)
その事実だけが、今の状況を切り開く唯一の糸口だった。
「……俺が正面から行けば、門前払いはされないはずだ」
視線をまっすぐ向ける。
ティモーリスはわずかに間を置いた。
「だが、それが罠という可能性もある」
「……それでもいい。俺はあいつに全てを思い出したパンドラと会わせてあげたいんだ。だけどこのままじゃ、エピメスが殺される。時間をかければかけるほど、エピメスは危険になる」
(そしてネクロスは俺も殺す気だ。だけど――それだけじゃない)
胸の奥に沈む感覚。
(あいつは……俺の中にいるパンドラを取り戻そうとしている)
「何の策もなく城に行くなど正気とは思えん」
ティモーリスが静かに言う。
「この状況で、まともな手なんてもう残ってねぇだろ」
誰も反論しない。
沈黙が落ちる。
やがて――ティモーリスが小さく息を吐いた。
「……いいだろう」
低く、決断を下す声。
「だが、最低限の準備はさせてもらう。お前を無駄に死なせるわけにはいかないからな」
それだけ言い残し、背を向ける。
足音が遠ざかっていく。
部屋に残ったのは、静寂。
だがそれは先ほどまでとは違う――
すでに何かが動き出している、張り詰めた静けさだけが残っていた。
ルナがゆっくりと口を開く。
「……天空」
視線を向けると、その目には隠しきれない不安が浮かんでいた。
「ルナ、大丈夫だ。エピメスもパンドラも取り返して必ず戻って来る」
一瞬言葉を切り、再び口を開く。
「だから、待っててくれ」
ルナはすぐには言葉を返さない。
ただ、わずかに頷いた。
「……うん」
その返事だけで十分だった。
俺は扉を開け、部屋を出る。
◇
廊下は静まり返っていた。
足音だけが、やけに大きく響く。
一歩進むごとに覚悟が形を持っていく。
――その時。
「天空――すべて聞いておりましたわよ」
意識の奥に澄んだ声が響く。
「……パンドラ、やっと戻ってきたか」
「ええ。随分と無茶な決断をなさいましたわね」
その声には呆れが滲んでいたが、わずかにやわらいでもいた。
「天空、エピメスを責めてはいけませんわ」
「……分かってる」
即座に返す。
「むしろ逆だ。あいつは何も考えずにネクロスと戦うような真似はしない」
歩みは止まらない。
「あいつが動く時は考え抜いた上でだ。きっと何かしらの勝算みたいなものがあるんだ」
自分に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「だけど、止めないといけない」
「ええ……」
パンドラは何も否定せず、ただ静かに言葉を重ねる――その一言がわずかに思考を整える。
(エピメス……頼む……早まらないでくれ)
短く息を吐き、強くなる鼓動を受け入れる。
手遅れになる前に、間に合わせる。
そのすべてを終わらせるために――向かう。
――煌月城へ。




