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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第146話 命令する当主と開かれてはならない箱

木々の葉がざわめき、湿った空気が頬を撫でていく。

視線の先、整然と並ぶ煌月守衛軍。その中央にカティフラクトが立っている。


パンドラが一歩、前へ出た。

そして――ゆっくりとフードを下ろす。


その瞬間、カティフラクトの目が見開かれる。

隊列が波打つように崩れ、全員が一斉に膝をついた。


「パンドラ様……ご無事で……。なぜ、帝国の者たちとご一緒に……?」


安堵と困惑が広がり、やがて葉擦れの音だけになった。

その様子を横で見ていたラザロは目を見開き、口をわずかに開いたまま固まっていた。


「ぱ、パンドラ……なぜ目を覚ましている……馬鹿な……」


俺はラザロを睨んだ。


「ラザロ。お前、次から次へと余計なことばかりしやがって。どうしてここに煌月守衛軍を連れて来た?」


ラザロは慌ててカティフラクトへ向き直る。


「カティフラクト様!あの男がポレモスを殺したのです!俺はこの目で見た!」


「はぁ?後ろから刺したのはお前だろうが!」


「違う!俺はやっていない!殺したのはお前だ!」


その時、ラザロの横に立っていた魔影軍の男が空気を読まずに口を開いた。


「え~……ラザロさん、アジトに戻った時、ポレモスを討ち取ったって言ってませんでしたっけ?あれ、嘘だったんですか?」


「……っ、馬鹿!今それを言うな!」


パンドラは一度だけ息を整え、それから静かに口を開いた。


「カティフラクト。どちらを信じるべきか、お分かりでして?」


カティフラクトはゆっくりと立ち上がり、ラザロを鋭く睨みつけた。


「……ぐっ、くそっ!――ペトマイ プロオドス!」


足元に走った光が円を描いた瞬間、ラザロの身体が一気に空へ持ち上げられた。


「追え。逃がすな。捕らえ次第、その場で殺せ!」


「了解です!ペトマイ プロオドス!」


三名の煌月守衛軍の兵士が空へ舞い上がり、ラザロを追う。

頭上を風が裂き、揺れた葉がぱらぱらと地面に落ちた。

やがてカティフラクトはパンドラへ向き直った。


「パンドラ様……失礼ながら、なぜ玄冥魔帝ティモーリスとご一緒に?その男は煌月家にとって最大の敵。王国の民を数多く手にかけた帝国軍の将です」


カティフラクトの声は低いが、わずかに乱れていた。


「わたくしはもう二度と無駄な争いを起こさせないと決めましたの。これより、ティモーリスさんと休戦の誓いを交わしますわ」


「しかし……」


「カティフラクト。あなたは常に前線に立ち、煌月守衛軍のみなさまも同じように戦ってこられましたわね。ですからわたくしは、あなた方がわたくしを裏切ることはないと信じておりますわ」


「裏切る……?何をおっしゃっているのですか、パンドラ様」


その反応を見て、パンドラは小さく頷いた。


「事情は、そこにおりますルナからお聞きなさってくださいませ。それまで、しばしお待ちいただけますかしら」


「ルナ……?」


「では、参りましょう。ティモーリスさん」


そう告げると、パンドラは迷いなく背を向け、そのままアジトへと歩き出した。

ティモーリスも何も言わず、その後に続いた。

言葉を失ったカティフラクトと煌月守衛軍はその場から動けずにいた。


カティフラクトはルナを見た。


「……ルナ、と言ったか」


抑え込まれた声が喉の奥から押し出されるように漏れた。

疑念と警戒、そしてわずかな苛立ちが混ざっている。


「はい」


「パンドラ様は……どういう状況なのだ。なぜ帝国の者と共に?なぜ休戦などという言葉が出る?」


煌月守衛軍の視線が一斉に集まる。

責める視線ではないが、答えを強く求める視線だった。


ルナは息を整え、それからゆっくりと顔を上げる。


「パンドラは煌月家で最も信頼していた人物に心を操られていました。眠りの病も、記憶の消去も、そして彼女が行った攻撃も、すべて禁呪によって施されたものだったんです」


「……何だと?」


声は低かったが、その奥に押し殺した動揺が滲んでいた。

列のあちこちで呼吸が浅くなる気配だけが伝わってくる。


カティフラクトの指先がわずかに震え、固く握られていた拳がゆっくりと緩む。


「それを行っていたのが、ノソファエルです」


その名が落ちた瞬間、何人かが小さく息を呑み、列の奥からざわめきが広がっていく。


「ノソファエル……?馬鹿な……彼は何年も前に死んだはずだ。我々の手で最期を見届けた」


ルナは静かに頷いた。


「そのノソファエルの魂がパンドラの心に入り込み、眠りを引き起こし、記憶を封じ、判断と行動を操っていました」


誰もすぐには言葉を返さなかった。

カティフラクトの表情が目に見えて強張る。

ルナはパンドラの心の内で起きていた出来事を、順を追い、自分が見てきたままの形で丁寧に語り続けた。

その場にいる者たちは言葉を挟むこともできず、ただ受け取るしかなかった。

煌月守衛軍の視線が、ひとつ、またひとつとルナへ集まっていく。

そこにあるのは疑念ではなく、ただルナの言葉を受け取ろうとする目だった。

パンドラに「話を聞け」と命じられている以上、誰も口を挟まなかった。


けれど――本当に、これほどまでに静かに受け止められるものなのか。

パンドラは長い間、煌月家の中に帝国と通じる者がいると疑い、誰にも悟られぬまま、ひとりで抱え込んできた。

だがそれは外からの侵入ではなく、煌月家の内に潜んでいた裏切りで、その事実は当主としての決断をあまりにも重くしていた。


俺はその様子を少し離れた場所から見ていた。

つい先ほどまで帝国軍を排除しようとしていた煌月守衛軍の兵士たちが、今は帝国軍に身を置く一人の少女の言葉に真剣に耳を傾けている。

立場も理屈も関係なく、ただルナの言葉を受け取ろうとしている。


パンドラの言葉には軍を従わせる力がある。

ルナの言葉には人の心に届く力がある。

それは似ているようで、まったく違う力だった。

ずっと孤独の中にいたパンドラが同じ境遇にあるルナと一緒に俺をからかって笑っていた光景が、不意に胸の奥によみがえる。

あの時の笑顔は無理をしたものではなく、心の底から本気で笑ってくれた気がして、俺は少しだけ嬉しかった。


「おーい。天空の魂、現実の世界はこっちだよー!」


「……ん?」


気づいた瞬間、視界いっぱいにルナの顔があった。

金色の髪先が触れそうな距離で揺れ、吐息がかかりそうな近さに心臓が跳ねた。


「おわっ!」


思わず声が裏返る。


「何をぼんやりしているのだ」


カティフラクトの低い声が飛んできた。


その瞬間、全身から力が抜け、その場に崩れ落ちた。


「あ、あれ……?」


煌月守衛軍に追われなくていい。

パンドラの病は消えた。

ずっと探していたルナが、今、すぐ横にいる。

その実感が遅れて胸に落ちた。


「貴様、さっきから何をしているのだ。緊張感のない男だな」


緊張――?

その言葉で、ふっと視界が開ける。


ああ。ずっと、頭の中に薄いもやがかかっていたんだ。


空を見上げる。青い。

森の木々が揺れる音が、やけに心地いい。


「気持ちいいな。この場所」


「やっと、いつもの天空に戻ったね」


「え?」


「会ってからずっと、どうする?どうする?って顔してたんだよ。ずっと心配だったんだから」


「俺、そんなにひどい顔してたんか?」


「うん」


迷いのない即答に思わず苦笑する。

まだ何も終わっていない。これから向き合うことも山ほどある。

それでも――体から、すっと力が抜けていった。


俺が崩れ落ちたあと、しばらく誰も口を開かなかった。

煌月守衛軍に先ほどまで確かにあった敵意はもうない。

残っているのは事実を受け止めようとする目だった。



ルナの言葉が煌月守衛軍の間に静かに沈んでから、いくらか時間が過ぎていた。

森の奥へラザロを追って飛び去った煌月守衛軍の兵士のうち一人が息を乱して戻って来た。

結局、ラザロは逃げ切ったらしい。

報告を受けた兵士たちの間に、わずかな緊張が走る。

だがそれはすぐに消えた。

今、この場で優先されるべきことは別にあると全員が理解していた。


森の入口から足音が近づいてくる。

それだけで煌月守衛軍の背筋が揃って伸びた。

振り向いた先にパンドラが立っていた。

その後ろにティモーリスが一歩下がった位置で無言のまま続いている。

風に揺れた葉が兵士の肩に落ちた。

それでも誰も動かない。


パンドラは迷いなく歩みを進め、カティフラクトの前で足を止める。


「お待たせいたしましたわ」


声が届いた瞬間、空気がゆっくりと沈んだ。

先ほどまでルナの言葉を受け止めきれずにいた煌月守衛軍の兵士たちの視線が、一斉にパンドラへ吸い寄せられていく。

カティフラクトは膝をついたまま、深く頭を垂れる。


「パンドラ様……我々は何も知らずに……」


「お顔をお上げなさい」


間を置かず返るその声に、わずかな迷いもなかった。


「あなた方に非はございませんわ。すべては、わたくしの心の内で起きていたことですもの」


責める響きも許す響きもない声だった。

その静けさが、かえって兵士たちの胸を強く締めつける。

パンドラは、ゆっくりと周囲を見渡した。


「その代わり――これ以上、煌月家の内から裏切りが生まれることは許しませんわ。城へ戻った後、何が起ころうとも、あなた方はわたくしの命令のみを聞くこと。この事を心に刻んでおいてくださいまして」


その言葉は命令だった。

だが、どこか願いにも似ていた。

カティフラクトは顔を上げる。


「もちろんでございます、パンドラ様。我々が忠誠を誓うのは、あなた様ただお一人です」


周囲の兵士たちも声こそ上げないものの、同じ意思を示すように強く唇を結んだ。

その時、アジトから玄冥魔軍の兵士を伴って出てきたルージェが前へ出た。


「パンドラ」


低い声に警戒が混じる。


「私はまだ、お前の言葉だけでは信じきれていない。ならば、この目で最後まで見届ける。煌月城へ戻るなら、我々も同行する」


パンドラはわずかに頷いた。


「構いませんわ。ですが、あなた方が城の中に入るとなると大騒ぎになりますわ。ですので、お城に入るのは天空とルナのみにしていただきますわ」


「……分かった。だがもし天空とルナに何かあればすぐに駆け付ける。その道だけは開けておいて欲しい」


「分かりましたわ。こちらの煌月守衛軍のみなさまと話し合ってくださいませ」


俺とルナは無言で顔を見合わせた。

カティフラクトが立ち上がる。


「パンドラ様。すぐに移動できます。ですが、ここからでは距離があります。まずは空路で森を抜けましょう」


煌月守衛軍の数名が前へ出る。


「ペトマイ プロオドス」


詠唱が重なった瞬間、足元に光の紋様が浮かび上がる。

空気が震え、身体がふっと軽くなる感覚が広がった。


「天空、しっかり捕まってくださいまして」


パンドラの声がすぐ横にある。

次の瞬間、視界が一気に持ち上がった。

地面が遠ざかり、木々の頂が足元へ流れる中、森は大きな緑のうねりとなって広がった。

風が強く頬を打ち、衣服が激しくはためいた。

煌月守衛軍の数名が俺たちを囲むように飛行し、一定の間隔を保って進んでいく。


誰も声を出さない。

風の音だけが耳を打ち続ける。

誰一人として、隣を見ようとしなかった。


その隊列の中央でパンドラの姿勢だけがまっすぐ保たれている。

振り返らない。

その姿を見ているだけで胸の奥が静まっていく。


やがて森が途切れ、視界が大きく開けた。

草原が広がり、その先に道が細く伸びているのが見える。

高度がゆっくりと下がり、俺たちは地面へ降り立った。

そこには煌月守衛軍が乗ってきた魔導装甲車が三台並んでいる。

黒鉄の装甲に淡い光が流れ、低い駆動音を響かせていた。


「パンドラ様、ここからはこちらで向かいます」


カティフラクトが扉を開く。

俺、ルナ、パンドラが同じ車両へ乗り込んだ。

そしてルージェたちがもう一つの車両へと乗る。


魔導装甲車が動き出す。

車輪が土を踏みしめ、規則正しい振動が身体に伝わる。

パンドラは窓の外を見たまま動かない。

ルナも視線を落とし、何かを考えている。

俺はその二人を見ながら、何も言えずにいた。



やがて丘を越えた瞬間、遠くに巨大な影が姿を現す。

高くそびえる外壁。

幾重にも重なる塔。

昼の光を受け、白く浮かび上がる。


煌月城。


その姿が視界に入った瞬間、車内の空気が変わった。

ルナが無言で城を見つめる。

そしてパンドラの指先が膝の上でゆっくりと握られた。

魔導装甲車は速度を落としながら城へと続く石畳の道へ入っていく。


煌月城の門が、ゆっくりと開いた。

かつて幾度となく出入りしたはずの場所なのに、空気がまるで違って感じられる。

城壁の内側に流れる気配は静まり返っているというより――息を潜めているようだった。


先頭を歩くのはパンドラ。

その後ろに俺とルナ、さらに後方には煌月守衛軍の兵士が続いている。

城内へ足を踏み入れた瞬間、廊下の奥からパソニアが姿を現した。


「パンドラ様、ご無事で何よりでございます。そちらの女性は……?」


視線は俺たちに向けられている。礼節は崩れない。

その奥に、わずかな警戒が滲んでいる。

ルナの肩に力が入るのが分かった。


「こちらはわたくしの客人ですわ。この先はわたくしが自ら案内いたします。あなたは持ち場に戻ってくださってかまいませんわ」


穏やかな口調。だが、有無を言わせない響きがあった。

パソニアは深く一礼し、何も問わずにその場を下がる。

パンドラはそのまま振り向き、カティフラクトへ視線を向けた。


「カティフラクト。エピメスを解放なさいませ。そして彼を、わたくしの玉座まで連れてきてくださいませ」


「承知いたしました、パンドラ様」


カティフラクトは即座に兵士へ指示を飛ばす。


「お前たちはパンドラ様に同行せよ。命令通りに動け」


「了解です」


シャンデリアが俺たちの気配に呼応するように微かに揺れた。

足元の絨毯が柔らかく沈み、淡い光が波紋のように広がる。

すれ違う貴族たちは状況を察しきれぬまま、それでも条件反射のようにパンドラへ一礼した。

「ここから一気に王室まで参りますわ。ついて来てくださいませ」


円形の小部屋に入る。

扉が閉じた瞬間、身体がふわりと浮いた。

一瞬の浮遊感。次に扉が開いた時、俺たちはすでに上階の回廊に立っていた。


その先に、ジェラントスが姿を現す。

黒い燕尾服。

伸びきった背筋。

無駄のない佇まい。

その顔に浮かんでいたのは驚きでも焦りでもない。

すべてを察しているような、静かな表情。


「……お戻りになられましたか。パンドラ様」


どこまでも丁寧な声。

だがパンドラの視線は凍りつくほど冷えている。


「ジェラントス。わたくし、すべてを知りましたわ」


揺らぎのない一言。

ジェラントスはわずかに目を伏せた。


「何のことでございましょう」


その瞬間、背後の煌月守衛軍が一斉に動く。

間合いを詰め、ジェラントスの両腕を押さえ込む。


「拘束いたします」


短い宣告とともに鎖が回る。

それでもジェラントスは表情一つ変えなかった。

パンドラはゆっくりと彼の正面へ立つ。


「ジェラントス。この階のどこかに、わたくしが一度も足を踏み入れたことのない場所がございますわね」


「……なんのことでございましょうか」


「わたくしの名が付けられた箱がある場所のことですわ」


その言葉にジェラントスの表情が初めて揺らいだ。


「……あの箱を、開けるおつもりですか」


「ええ」


即答だった。

ジェラントスは静かに首を振る。


「おやめくださいませ。あれは開けてはならぬもの。旦那様も最後まで封印を守られておりました。あれを開けば――災いが起こります」


パンドラの右手に黒い炎が生まれる。

そして音もなく揺れるその炎をジェラントスの目の前まで近づけた。


「わたくしがまだ理性を保っているうちに、案内してくださいまして」


低く、抑えた声。だがそこには怒りよりも強い決意があった。

ジェラントスは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。


「……かしこまりました。ご案内いたします」


拘束されたまま、歩き出す。

長い廊下を進むにつれ、空気が重くなる。

人の気配は途絶え、壁際の空気は動かない。

やがて一つの扉の前で足を止めた。


「ここでございます」


だがそこは一面が壁だった。

パンドラが静かに手をかざす。

魔力が流れ、壁面が水面のように波打つ。

揺らぎの奥から扉が現れた。

重厚な扉がゆっくりと開く。


部屋の中は長い年月を感じさせないほど整えられた私室だった。

さらに奥、本棚の一角だけが不自然だった。

煌月守衛軍の兵士が本棚を横へ押すと、隠されたもう一つの扉が姿を現した。

空気が明らかに変わる。

ひんやりとした気配が足元へまとわりついてくる。


「……この先でございます」


扉を開けると狭い石造りの部屋があった。

灯りはない。

だが、中央だけが淡く照らされている。


そこに――それはあった。

古びた箱。

装飾も、宝石もない。

黒ずんだ木で作られた、ただ重々しい箱。

部屋の空気が、その箱を避けるように流れている。

近づくだけで胸の奥がざわつく。


俺たちは、ゆっくりと歩み寄った。

ジェラントスが低く呟いた。


「……それが、パンドラの箱でございます」


誰も触れていないはずなのに、そこだけ時間が止まっているように感じられる。

パンドラの足が止まる。

その場にいる全員が言葉を失っていた。

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