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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第145話 記憶の回復と交わされる重い誓い

ルナがパンドラの心の中に入っている間、俺は借りた部屋で身を休めていた。

目を開けると既に朝だった。

窓の外から小鳥の声が届き、森の匂いを含んだ空気が部屋へと流れ込んでくる。

だが、落ち着いている理由は朝の空気だけじゃない。

パンドラを縛っていた眠りの病と記憶の消去。

その二つを引き起こしていた原因が消えたことで、胸の奥に溜まっていた重さがようやく抜けていくようだった。


起き上がってベッドの上で胡坐を組み、背筋を伸ばして目を閉じる。

呼吸を整え、意識をゆっくりと内側へ沈めていった。

体の奥ではオーラが巡っている。

それとは別に精霊力が外へ滲み出していた。


俺の中に眠っていた力。

なぜ自分にこんな力があるのかは分からない。

だが、この感覚だけは失いたくなかった。


両手をゆっくりと膝の上から持ち上げる。

指先を開いた瞬間、淡い白光が掌から滲み出した。

熱でも冷たさでもない、ただそこに在ると分かる光が呼吸に合わせて静かに揺れている。


やがて、扉の向こうから控えめなノックの音が響く。


「天空さん、ルナ様の魂がパンドラから出ました。もうすぐ目を覚まされます」


アミラの声だった。


扉が開き、彼女が部屋に入ってくる。

だが、その声はすぐには届かなかった。

意識は体の奥深くに沈み、血液が巡る音と、心臓の鼓動だけがはっきりと聞こえていた。


「……天空さん?」


呼ばれていることに気づき、ゆっくりと目を開ける。

アミラは俺の両手を見つめたまま、動きを止めていた。


「ああ、ごめん。瞑想に集中してて……入ってきたのに気づかなかった」


「やはり……あなたの手から精霊力を感じます」


アミラは慎重な口調で言った。


「その力は目覚めかけています。ですが、まだ境目に立っている段階です」


「自分でもこの力が何に使えるのか分からない。でも、魔法が使えないなら代わりに何か使えた方がいいだろ?」


一瞬、アミラの表情が揺れた。


「……あなたは上の世界から来られたのですね」


「ああ」


短く答えると彼女は戸惑いながら微笑んだ。


「ルナ様は間もなく目を覚まされます。お会いに行きますか?」


「もちろんだ。知らせてくれてありがとう」


俺たちは部屋を出て、廊下を歩き出した。

アジトの朝は静かで、窓からの光が床を細く照らしている。

少し進んだところで俺はふと思いつき、アミラに声をかけた。


「なぁ、俺が精霊力を持ってるのが自分でも不思議なんだけど、父さんか母さんのどっちかが実は精霊だった、なんてことはあるのか?」


アミラは歩きながら静かに首を振った。


「精霊と人間との間に子が生まれるなどあり得ません。ですので、あなたが人でありながら精霊力を持つ理由は私にも分かりません」


「……ああ、そう」


アミラは一拍置いてから、静かに続けた。


「今の私たちはアルテミスハーストの実験によって精霊から別の姿に変えられています。けれど……本来の精霊はあなたが想像しているような生き物ではありません」


アミラは歩きながら言葉を選ぶように続けた。


「精霊とは自然そのものです。風が吹く理由、木が芽吹く理由、水が流れ続ける理由――それらが重なり合い、ただ存在しているもの」


廊下に差す光が彼女の足元を照らす。


「感情も、善悪も、目的もない。ただ巡り、満ち、やがて別の形へ移ろっていく。それが本来の精霊です」


アミラは胸元に手を当てた。


「ですがそれをアルテミスハーストは壊しました。精霊を個として切り分け、名前を与え、形を固定し、命令に従う存在へと変えたのです。闘いの兵器にするために」


ほんの一瞬、声が震えた。


「私たちが話し、考え、恐れ、願うことが出来るのは……本来ならあってはならないことです。今の私たちは精霊でも魔物でもない。どちらにも属せない不完全な存在です」


理屈は分からない。ただ――その声だけが胸の奥に重く残った。

アミラは小さく息を整え、続けた。


「だからこそ……あなたのように人間が精霊力を持つことは理屈の上では、あり得ないのです。けれど、あなたの中の精霊力は作られたものではありません。……自然の流れに限りなく近い」


俺は無意識に両手を見下ろした。

その光がほんのわずかに脈打った気がした。


「じゃあ……魔物に変えられた精霊と人間の間に子供が出来ることは?」


「それも、あり得ません。種族が違いますから」


「だよなぁ……」


俺は天井を見上げながら小さく息を吐いた。

けれど、分からないことばかりなのに不思議と焦りはなかった。



深淵封鎖の間に足を踏み入れた瞬間、張り詰めていた気配は消えていた。

部屋の中央に置かれたベッドの上でルナとパンドラは穏やかに並んで眠っていた。


そして――

先に目を覚ましたのはルナだった。


「う……ん……ここは?」


声はまだ夢の中にあるように柔らかい。


「起きたか、ルナ!体は大丈夫か?」


ルナの瞳がはっきりと焦点を結ぶ。


「天空……ええ、私は大丈夫よ。ノソファエルはどうなったの?」


「ノソファエルはダビネの精霊力で魔力を封じられたまま運ばれた。ルージェも一緒について行ったし、おかしな真似は出来ないだろう。パンドラは……どうだ?」


ルナはすぐ隣で眠るパンドラを見ると、口元をふっと緩めた。


「大丈夫。もうすぐ目を覚ますはずよ」


その言葉を聞くと、パンドラのまぶたが震え、ゆっくりと目を開いた。


「……おはようございます、みなさま。ルナ」


ルナは堪えきれず、ベッドに身を乗り出してパンドラを抱きしめた。


「おはよう!パンドラ!記憶はどう?覚えてる?」


「ええ、すべて覚えておりますわ。辛い過去も、楽しかった出来事も、すべて」


その様子を見て、俺は思わず声を上げた。


「おいおいおいおい!何で急にそんな親しくなってるんだよ!まだ出会って数分だろ!」


「いいえ、オーシャン。ルナとは心の中で、とても長い時間をご一緒したのですのよ」


パンドラはルナの手を握る。


「おい、お前までそんな事を……」


「あら、オーシャン、焼きもちを焼いておられでして?」


「なんでだよ!」


ルナが首をかしげる。


「そういえば、どうしてパンドラは天空のことをオーシャンって呼ぶの?」


パンドラは懐かしむように目を細めた。


「魔法船ヴェラリア・ランヴェルで初めてお会いした時ですわ。彼、海を見ながら真剣なお顔で言いましたの。『俺の名前は……オーシャン』って」


ルナが吹き出す。


「えっ、なにそれ」


「わたくし、あの時、笑いを堪えるのに必死でしたのよ」


「おい、やめろ!恥ずかしいな!」


深淵封鎖の間に笑いが広がった。

だが、その直後、ティモーリスが一歩前に出た。

表情は厳しいままだった。


「パンドラよ。記憶が戻ったと言ったな。ならば聞こう。黒影軍を壊滅させたこと、その他の村や町を襲ったことは覚えているか」


空気が静まる。

パンドラは目を閉じ、しばらく黙っていた。


「……わたくしの記憶に確かにございますわ」


ルナがすぐに口を開く。


「ティモーリス様、それはノソファエルによるものだと分かっておられるはずです。パンドラの罪ではありません」


「分かっておる」


低い声が返る。


「だが、それは何者かが裏でパンドラの力を操っていたという事実を意味する。煌月家の罪が消えたことにはならん」


沈黙が落ちる。

その中でパンドラが顔を上げ、ティモーリスを見た。


「ええ、おっしゃる通りですわ。ですから――お願いがございます。ノソファエルという者と、わたくしは話をしたいのです。わたくしに施されている魔力を封印する結界を解いていただけませんか?」


ルナはティモーリスを見てゆっくりと頷いた。


「……分かった。ルナを信じよう」


エバーが掲げていた手を下ろす。

それでもティモーリスの視線はパンドラに向けられたままだった。

張りつめた空気の中、次の瞬間、その視線がわずかに動く。


俺には魔力の流れは感じ取れない。

だが、理解した。

パンドラに魔力が戻ったのだと。


「ティモーリスさん、そこまで身構えずともよろしいのですわ。わたくしがこの場で何かをしでかすとお思いでして?」


パンドラがからかうように穏やかに口を開くと、張りつめた空気がわずかに緩んだ。


「……理解はしている。だが、そのままこの部屋から出れば目立つ。フードをかぶって顔を隠してくれ。心配せんでもただのローブだ。帝国の紋章もついておらん」


「……構いませんわ」


パンドラは素直にローブを受け取り、袖を通す。

赤い髪はフードの奥に隠れ、その気品も表情も影に沈んだ。


俺たちは深淵封鎖の間を出た。

足音だけが、木の床に乾いて響く。

案内されたのは、ひときわ異様な気配を放つ扉の前だった。

入口には太いしめ縄と幾重もの呪符が張られ、その周囲の空気の質だけが明らかに異なっていた。


「この部屋は?」


俺が尋ねるとティモーリスは扉を見たまま答えた。


「ノソファエルの魂を封じる部屋だ。アミラとダビネに急遽作らせ、魔力を封じる魔法陣も刻んである。二度とここから出られんようにな」


扉が軋む音とともに開かれる。

部屋の中央に立っていたのは、呪符を巻いた槍を手にするルージェだった。


そしてルージェの視線の先、ノソファエルは呪符で拘束され、全身に無数の傷を負っていた。

焼け焦げた跡と裂けた傷、乾いた血がそのままこびりついている。


「ティモーリス様」


「どうだ。何か吐いたか」


「いえ。何をしても口を開きません。このままでは時間の無駄でしょう」


その時、ルージェの視線がローブ姿のパンドラに止まる。


「な……パンドラ?何故ここに?」


ルナが一歩前に出る。


「大丈夫よ。ルージェ。パンドラはここでは何もしないわ。ノソファエルと話をしに来ただけよ」


パンドラはゆっくりと歩き出す。

ノソファエルの前に立った瞬間、閉じていた唇が不意に開いた。


「……パンドラ様」


ノソファエルが、かすれた声で言った。

パンドラはフードの奥から見下ろす。


「ノソファエル。あなたは父の代に仕えた執事でして、ずっとわたくしの心の中に巣食っていたのですね。わたくしの記憶を消し、わたくしの魔力を利用するために。何故そのような事をする必要がありまして?」


ノソファエルは答えなかった。

ただ、視線だけがパンドラを追っていた。


「……あなたが用いた禁呪。それは以前、兄が使っていたものと同じですわ。長い年月わたくしの心に入り続けていたということは、肉体はすでに失われていますわね。そこまでして、わたくしの記憶を管理する必要があったのですの?」


沈黙。

だが、パンドラは続ける。


「父と母は原因不明の病で衰弱し、言葉を失い、そのまま亡くなりました。何も伝えられぬまま。あの病も、あなたの関与があったのですか?」


ノソファエルの唇が、わずかに動いた。


「誤解なさらないでいただきたい。私は記憶を管理する事であなたを守っていたのです。苦しみからも、煌月家を狙う者からも、あなたの魔力を奪おうとする者からも」


「仰っている意味が分かりませんわ。わたくしの心の中にいたのは、あなた自身ですわ。あなたは誰の命令で動いていたのですか?」


「……記憶がお戻りになられた今のあなたなら、誰の命令かはすぐに思い出されるでしょう。私の見てきた記憶も、あなたと共有される事になるのですから」


パンドラは口を閉じる。

それを見て、ノソファエルがかすかに笑った。


「おや。今度はあなたが口を閉ざされましたか。では、ひとつだけ教えて差し上げましょう」


ノソファエルがゆっくりと視線を上げる。


「あなたが父から受け継いだ箱があるはずです。あなたの父により、パンドラの箱と名付けられた箱です」


パンドラの表情に覚えのある気配がよぎる。


「パンドラの箱……?」


「思い出されましたか。その箱を開ける鍵は私が持っていました。ですが、どうやらあなたの心の中に置いてきたようです」


その時、ルナが一歩前へ出る。


「その鍵って、これのこと?」


ルナの手には古びた鍵が握られていた。


「パンドラの心の中の記憶を管理する部屋で拾ったの。目が覚めたら何故か握っていたわ」


ノソファエルの目が、わずかに見開かれる。


「その鍵でパンドラの箱をお開けなさい。すべての真実へ辿り着くための鍵です。煌月家の秘密も、あなたが背負わされた理由も、全て明らかになるでしょう」


誰も、すぐには口を開かなかった。


「天空、行きましょう」


「て、てんく?……お、おう。もう話さなくてもいいのか?」


俺の問いにパンドラはゆっくりと頷く。


「ええ。ノソファエルの記憶の中で、いくつものことが見えてきましたわ。わたくしを陰から操っていた者の姿も。その人物は――」


「そんなの言わなくて分かってるよ。それより、早く帰って、エピメスを解放してやってくれ」


「勿論ですわ」


そのやり取りを聞いていたティモーリスが静かに口を開く。


「では、煌月家の当主として誓いを立ててくれ。そなたの父がそうであったように、いかなる立場の民も苦しめぬと」


「父のことをご存じなのですの?」


「忘れるはずもない。帝国と王国の争いが激化する中で、そなたの父は戦時下にあっても互いに手を出さぬと申し合わせていた」


パンドラは一瞬だけ目を伏せた。

フードの奥で表情は見えない。

それでも、わずかな沈黙がその言葉の重さを物語っていた。


その時だった。

廊下の奥から慌ただしい足音が近づいてくる。


「ティモーリス様、大変です!」


兵士が息を切らして飛び込んできた。


「煌月守衛軍にこのアジトの場所が知られました!間もなくここに到着します!」


「何故この森のアジトが知られた?」


ティモーリスの声が低くなる。


「そ、それが……煌月守衛軍と一緒にラザロが……どうやら魔影軍の仲間が現れ、彼を牢から出してしまったようで……」


「はぁ……ラザロのやつ……」


思わず俺は吐き捨てる。


「あの野郎……一体何を考えてるんだよ」


パンドラは、わずかに首を横に振った。


「戦場で裏切りは珍しいことではありませんわ。私利私欲で動く者など、いくらでもおりますもの」


ティモーリスが続ける。


「その通りだ。あいつは所詮、エピメスの代わりにすぎん。指揮官には向いていなかったのだ」


パンドラは静かに前を向いたまま、はっきりと告げる。


「大丈夫ですわ。わたくしが責任をもって、煌月守衛軍を止めますわ」


「おい、本当に大丈夫なのか?」


思わず口を挟む。


「煌月守衛軍だって、もうお前の味方じゃないかもしれないんだぞ」


パンドラはゆっくりとこちらへ視線を向けた。


「天空、わたくしは――どんな形であれ、もう二度と無駄な争いは許しませんわ。たとえ、わたくし自身が傷つこうとも、命を賭けてでも止めると決めましたわ」


その覚悟の重さに、胸の奥が押さえつけられ、声が出なかった。


「煌月守衛軍がわたくしの軍でなくなったとしても、煌月家の当主として必ず止めなければなりませんわ」


その瞳には深い悲しみが滲んでいた。

当然のことだ。

これまで信じ、仕え、支えてきた者たちが陰で裏切っていた。

裏切りの深さは、どんな傷よりも心に重く残る。

それでもパンドラは煌月家の罪を自ら背負うことを選んでいる。


やがて俺たちは歩き出した。


廊下を抜け、深淵封鎖の間を通り過ぎ、玄冥魔軍のアジトを出る。

外気が肌に触れた瞬間、森の奥からかすかなざわめきが届いた。

足並みの揃った気配がゆっくりと迫ってくる。


俺たちは言葉を交わさず、ひたすら足を進めた。

木々の隙間から光が差し込み、やがて視界が開けた。


森の外へと出た、その瞬間――目の前に整然と並ぶ煌月守衛軍の姿が現れた。

木々の葉がざわめき、冷たい風が肌を突き抜ける。

武器を構え、無数の視線がこちらへ向けられる。

その張り詰めた列の中央でカティフラクトが鋭い目を真っ直ぐ俺へ向けていた。


「探したぞ。こんな所に玄冥魔軍のアジトがあったとはな」


カティフラクトが列の中央から一歩前へ出た。


「貴様を殺し、玄冥魔帝ティモーリスを殺し、そしてパンドラ様を助け出す」


迷いのない宣言だった。


「これで、この地に隠れている帝国軍は終わりだ」


パンドラが、ゆっくりとフードに手をかけた。

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