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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第144話 心の奥で眠り続けた真実と目覚め

ルナの意識が、ゆっくりと浮かび上がる。

目を開けた瞬間、天蓋付きのベッドが視界を満たした。

白と金の装飾が淡い光を受け、細工の施された柱が周囲に立っている。


一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。


「……ここは……?」


声を出した瞬間、喉が驚くほど自然に動いた。

――痛みが、ない。


反射的に脇腹へ手を伸ばす。

あれほど深く貫かれていたはずの場所に、熱も、違和感も残っていなかった。

指先に伝わるのは自分の体温だけだった。


「ここは煌月城。わたくしの寝室ですわ」


澄んだ声が静まり返った空間に波紋を落とす。

ルナは息を詰めたまま、勢いよく上半身を起こした。

視線の先に立っていたのは幼い姿のパンドラだった。


小さな体。柔らかな赤髪。

だが、その瞳は幼い体には似合わない深さを宿していた。


「パンドラ……?」


名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。


「あなたは、わたくしが入れなかった場所で倒れていましたわ。……ずっと呼んでくださっていたでしょう?だから、ようやく辿り着けたのですわ」


パンドラの声を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた。


「……ノソファエルはもういないはずよ」


ルナは低く息を整え、言葉を選びながら続けた。


「魂魄分離の呪符で、あなたの心から引き離したの。だから……眠りの病は治るわ。失われた記憶も元に戻るはず」


ルナはパンドラを正面から見つめた。


「もう、私がここに残る理由はないわ。私を外へ出して」


しかし、パンドラは首を横に振った。


「わたくしの力では出来ませんわ。あなたが出るには……あなた自身の意思が必要でして」


その声が、わずかに揺れる。


「それに……理由は分かりませんが、わたくしは、まだ両親の顔を思い出せませんの」


「……どうして?」


パンドラは小さく表情を曇らせた。


「思い出そうとしているのですわ。でも……何かが、妨げているようでして……」


その瞬間、寝室が唸るような音を立てて揺れた。

床が沈み、壁が軋み、天井の装飾が一斉に震え出す。

城そのものが、耐えきれない重さに身を沈めるように揺れた。


ルナは即座に悟った。


(これは、記憶の封印のせいじゃない……原因は別にある)


ルナは深く息を吸い込み、パンドラに語りかける。


「パンドラ……それは、あなたの恐怖が記憶に触れるのを拒んでいるのよ。全部を思い出した時に、心の奥に眠っている出来事にあなたが耐えられるか分からない。だから、心が拒んでいる。でも……思い出さなきゃ」


ルナはベッドから降り、床に足をつけた。


「これは……あなた自身が望んだことよね」


パンドラの肩が、わずかに震える。


「少しずつでいいの」


ルナは微笑んだ。


「怖いことも、不安なことも……何でも言って。私が側にいるから」


しばらくの沈黙の後、パンドラは小さく息を吸った。


「……ルナエレシア王女」


「もう王女じゃないわ。ルナでいい」


その言葉にパンドラの唇がかすかに震えた。


やがて二人は寝室を出た。

長い廊下、大広間、静かな応接室、誰もいない舞踏の間――。

歩くたびにパンドラは語った。

どの部屋で、何があったのか。

語られるたびに断片だった記憶が少しずつ繋がり始めていた。


だが、ある部屋の前でルナは足を止めた。

胸の奥が理由もなく強く締めつけられた。

空気が、違う。

冷たく、重く、背中にまとわりつく感覚。


「……この部屋は?」


「ここは兄の部屋ですわ」


パンドラは目を伏せて答えた。


「この部屋に入ったのは、ほんの一度だけでして」


そう言って、パンドラは扉に背を向けて歩き出した。

だが、ルナは歩みを止め、その扉を見つめた。

そして扉から離れようとするパンドラに向かって、ルナは静かに声をかけた。


「パンドラ……あなた、お兄さんの顔だけは、はっきり覚えているのね」


パンドラは足を止め、ゆっくりと頷いた。


「ええ、少し前にオーシャンと一緒に入った時に、肖像画が飾ってありましたので。兄は、いつもわたくしのことを一番に考えてくださいましたわ。いつも笑顔で迎えてくださいましたの」


その声は少しだけ明るく、ルナの胸に、言いようのない違和感を残した。

ルナは静かに言った。


「……逃げないで、パンドラ」


空気が止まる。


「私の兄、ゼニトスは違った」


ルナは息を詰め、そのまま堪えきれずに口を開いた。


「私のことなんて、最初から存在しないものみたいだった。いつも不快そうな目で……そこにいるだけで、邪魔だと言われてるみたいで……」


ルナの声はかすかに震え、言葉に痛みが滲んだ。


「一緒にいるのが……辛かった」


沈黙が二人の間に落ちた。

パンドラは何も言わず、ただ指先を握りしめたまま動かなかった。


「……兄はアルテミスハーストの次期国王になる男。私はただ従う存在だった。でも……もう逃げない。無抵抗な人達を殺す兄を私は止める。そのために私はもっと強くならなければいけない」


ルナはパンドラを見つめた。


「だから……あなたも逃げないで」


「……ルナ」


パンドラは深く息を吸い、扉に手をかけた。


「わたくしも煌月家の当主として……覚悟を決めますわ」


だが、扉は動かなかった。


「……開きませんわ。内側から閉ざされていますわね」


「鍵がかかってる……?」


ルナの脳裏に、あの図書館が浮かぶ。

ノソファエルが記憶を管理していた、あの部屋。

まだ、何かが残っている。


「パンドラ、もう一度、あの図書館へ行くわ」


ルナは言った。


「この扉を開ける鍵は、きっとあそこにある」


「……分かりましたわ、ルナ」


二人は言葉を交わさないまま、並んで歩き出した。

足音はひどく小さく、長い廊下に吸い込まれていく。

やがて、扉の前に辿り着いた。


だが、そこにあったものは、もう図書館の入口ではなかった。

扉の隙間から溢れていたのは、白い光ではない。

黒い闇がゆっくりと溢れ、空間に重くたちこめていた。

空気が重く、冷たい。足元の感覚が曖昧になる。


「ルナ……この部屋、先ほどと違いますわ……」


パンドラの声がわずかに震えた。


「何だか……とても、怖いですわ……」


ルナは扉から視線を離さず、静かに答える。


「でも、ここに入るしかない。ここには――あなたのお兄さんの部屋へ続く鍵がある」


その声には迷いがなかった。

二人は同時に扉へ手を伸ばし、闇の中へ足を踏み入れる。


その瞬間、足元の感触が消えた。


気がつくと視界には果てしない空が広がっていた。

風が吹き抜け、視界が一気に開ける。

城の廊下は消え、二人の前には人の気配を失った町の通りが続いていた。

土の匂い、乾いた空気、そして遅れて届く金属音。


「……この場所は私も知ってる……」


ルナの声がかすかに掠れる。


「もしかして……フィトリア?」


その疑問に答えるように、遠方から整った隊列が現れた。

掲げられた帝国の旗。

その紋章を見た瞬間、ルナの胸が強く締め付けられる。


「まさか……あれは、光翼軍……」


無意識にパンドラへ視線を向ける。

ルナは、そこで初めて異変に気づいた。

パンドラの瞳が赤ではなく、深い黒に染まっていた。

胸の奥に嫌な感覚が広がる。


「……違う、これは……」


ルナは理解してしまった――これは単なる再現ではない。

パンドラが、ひとりでフィトリアを攻め落とした日の記憶だった。


次の瞬間、空気が震えた。

炎が生まれる。

だが、それはルナの知るパンドラの黒い炎ではなかった。

制御の気配もなく、理性を失ったまま、赤い炎だけが暴れ出す。


光翼軍の隊列が崩れ、悲鳴が上がる。

逃げ惑う兵士たちの足が止まり、次々と地面に倒れ込んだ。

その向こうで、パンドラが無表情のまま手を突き出していた。


「パンドラ……やめて!お願い、止めて!」


ルナは叫び、駆け寄ろうとする。


だが、記憶の中のパンドラは止まらない。

炎は兵士だけでなく、街へも広がっていく。

家々が崩れ、悲鳴を上げながら人々が四方へ散っていく。


そのとき、ルナの耳に微かな声が届いた。


「……ルナ……」


振り返ると、隣にいる幼いパンドラが泣きそうな顔でルナを見ていた。


「止めて……わたくしを止めて……こんなこと……したくないですわ……これは……わたくしじゃないですわ……」


ルナは一瞬だけ息を止め、そのまま前へ踏み出した。


「パンドラ!あなたは、こんなことをする人じゃない!お願い、止まって!」


けれど、その声は記憶の奥へ沈んでいく。

炎は止まらず、街から人の気配が消えていった。

やがて――炎が消え、叫びは途切れ、音そのものが遠のいた。

足元に灰が積もるその場所で、記憶の中のパンドラがその場に力なく座り込んだ。

膝をつき、顔を伏せ、動かなくなる。


幼いパンドラがその姿を見つめ、震える声で言った。


「……これが、わたくしの記憶ですわ。わたくしが……フィトリアの人たちを……」


言葉が続かない。

小さな肩が揺れ、涙が零れ落ちる。


ルナはそっと彼女の前に立った。


「違うわ、パンドラ」


ルナは首を横に振った。


「あなたは心を支配されていた。自分の意思でやったことじゃない。あれは、あなたの罪じゃないわ」


「……ルナ……」


「思い出して」


ルナは優しく促す。


「この後、どうなったの?」


幼いパンドラはしばらく黙り込み、やがて目を伏せた。


「……わたくしは……動けませんでしたわ。何も考えられず、ただ……うなだれていましたの」


その声が、わずかに震えた。


「その時、兄が現れましたわ」


風の気配が消え、空気が一気に重くなった。

記憶の奥から足音が近づく。

重く、逃げ場のない音だった。


「よくやった」


低く、満足そうな声。


「光翼軍は全滅し、彼らを支持する者たちも、もう残っていない。すべて、お前の手柄だ。パンドラ」


そこに立っていたのは――ネクロスだった。


「……ネクロス……お兄様……」


ルナは息を呑んだ。


「え……?じゃあ……その場に、あなたのお兄さんが……?」


パンドラはゆっくりとうなずいた。


「……ええ。兄からは……このことを、父には絶対に話さないよう言われましたわ」


幼いパンドラの声は震えていた。


「ですが……父に詰め寄られて……わたくしは言ってしまったのです。兄が……その場にいた事を……」


言葉が途切れた、その瞬間だった。

光が薄れ、色彩が一気に失われていく。

その瞬間、足元の感覚が消え、身体が底の見えない闇に引きずり込まれた。


――闇がほどけ、景色が反転した。


ルナの視界に広がったのは石の柱が規則正しく並ぶ広場だった。

重く冷えた空気が満ち、足元の地面は乾ききっている。


その中央に――

十字架に吊るされたネクロスの姿があった。


両腕は高く縛り上げられ、身体は無理な角度で固定されている。

足元には藁が積まれ、処刑の準備が整えられているのが一目で分かった。

顔は柱の影に沈み込み、表情までは読み取れない。


彼の前に立っているのはパンドラの父だった。


だが、その顔は輪郭がわずかに揺らぎ、焦点が合っていない。

まるで、パンドラの記憶そのものが父の顔を正面から捉えることを拒んでいるかのようだった。


「ネクロスよ」


低く、冷たい声が広場に落ちる。


「お前は禁呪を使い、パンドラの体を奪った。その結果、煌月家の親族や訪れていた客人の老化が急速に進むという呪いを引き起こした。よって――死罪にする」


言葉が終わると同時に沈黙が落ちた。


誰も動かない。

空気が張りつめ、時間が止まったようだった。


その静寂の中でネクロスが笑った。


「父上、フィトリアを攻めたのはパンドラです。私ではない。だが……その呪いは私が解けます。私に忠誠を誓う者だけ、呪いを解きましょう」


次の瞬間、父の声が鋭く跳ね上がった。


「黙れ、ネクロス!煌月家は恐怖で民を縛る家ではない。帝国軍とも戦争が終わるまでは互いに距離を保つと合意していたのだ。それを踏みにじったのはお前だ」


ネクロスは首を傾げた。

理解できないのではなく、理解したうえで否定している仕草だった。


「その甘さこそが混乱を生むのです。支配なくして、平和は保てない」


ネクロスは、父ではなく――広場に集まった人々を見渡した。


「それが、神王様の教え」


ざわめきが、わずかに波打つ。


「……誓いを破ったのは、父上。あなたです」


「煌月家の当主は私だ。お前に名を継ぐ資格はない」


父の声は、わずかに震えていた。


「この拮抗を崩せば王国も帝国も関係なく、最初に犠牲になるのは民だ。それだけは……許されぬ」


そして、背後の兵に視線も向けずに命じる。


「……やるのだ」


「はっ!」


兵士たちが一斉に前へ出た。

魔力が集まり、空気が焼ける。


号令と同時に、炎が藁へ落ちた。

瞬く間に火が走り、赤い光が十字架を包み込む。

炎はネクロスの身体を這い上がり、容赦なく燃え広がった。


それを、少し離れた場所から見ていたのがパンドラと母だった。


「パンドラ!」


母の制止の声を振り切り、パンドラは駆け出す。


(わたくしのせいで……ネクロスお兄様が死ぬことになる。わたくしが、絶対に話してはならないと言われていた事を、父に話してしまったから……)


「ネクロスお兄様!」


パンドラの足が石を蹴り、音が広場に響いた。

十字架の前まで辿り着こうとした瞬間、父の手が行く手を阻んだ。

ネクロスは、その向こうからパンドラを見下ろす。


その目を見た瞬間、パンドラの全身が凍りついた。

そこにあったのは、圧倒的な恐怖――。

そして同時に、激しい憎悪。

パンドラが今まで一度も感じたことのない、兄の目が放つ鋭い光だった。


「パンドラ……お前はこの兄に逆らった。そのせいで私は死ぬことになる。だが、この兄は必ず復讐を果たす。覚えておけ。煌月の血は……必ず、私に還る!」


ネクロスの体から黒い闇が溢れ出す。

赤かった炎は、その色を失い、黒き炎へと変わって燃え上がった。

その瞬間、炎の音が消えた。


ネクロスはパンドラを見ながら笑っていた。

その顔に兄の面影は残っていなかった。


パンドラの意識が、そこで途切れる。



ルナと幼いパンドラは、その光景を少し離れた場所から見ていた。


「少しずつ記憶が蘇ってきましたわ。兄は失踪なんてしていなかった。父によって……処刑されたのですわ」


ルナは目の前の記憶を追いながら思考を巡らせた。


(フィトリアを襲わせたのはネクロス。やり方はノソファエルと同じ。心の中に入り込む禁呪……。そして、パンドラの黒き炎。あれは、兄が燃える光景が消えずに魔法として残った)


幼いパンドラは体を小刻みに震わせ、恐怖と悲しみでかろうじて立っていた。


「パンドラ、大丈夫よ。私がいるから。心配しないで。あなたの記憶は私もきちんと見ているわ」


ルナは、そっとパンドラの手を取る。


「……ルナ」


やがて、記憶は次の場面へと流れていく。


「――そして、しばらく経ってから、わたくしはもう一度兄の処刑された場所に来ましたわ。ですが、その時、帝国軍の奇襲を受け、護衛の方々は全員倒されてしまいましたの。わたくしは森の中へ逃げましたが、帝国軍は奥深くまで追ってきましたわ」


パンドラは一度目を伏せ、心を落ち着けるように深く息を吸った。


「追手に見つかりそうになった、その時――一人の男の方が、わたくしを助けてくださいましたわ。そう、彼がエピメスですわ」


「パンドラ王女、どうして危険を冒してまで森の中に?」


エピメスが問う。


「この近くで……兄が亡くなったのです。その悲しみを抱えたままにしたくなくて……どうしても、もう一度その場所を見たかったのです」


「それは危険すぎます。私がこの森から出る道を案内しますから、早く逃げてください」


わたくしはエピメスの案内で森を抜け、煌月城の近くまで辿り着きました。


「エピメスさん、この先はあなたと一緒ですと父に捕まってしまいますわ。ですので、ここから先は一人で行きますわ」


「分かりました。お気をつけてください。パンドラ様」


「パンドラでいいですわ。エピメス……またお会いする事は出来ますでしょうか?」


パンドラは静かに続けた。


「それから……わたくしはエピメスと隠れるように何度も会っていましたわ。辛い事も、楽しい事も、悲しい事も。エピメスにだけは全てを話せましたのよ。ですが――ある日突然、わたくしの記憶の中からエピメスに関する記憶が全て消されてしまいました」


ルナが、静かに言う。


「ノソファエルがあなたの心の中に入り込んで、記憶を奥底へ隠した……」


「……ええ」


パンドラは小さく頷いた。

その瞬間、二人の立っていた部屋の輪郭が崩れ、床が消え、壁がほどけ、天井が遅れて溶けていった。

残ったのは何もない白い空間だった。


その静寂の中でルナが足元に何かを見つけた。


「あそこに……何か落ちてるわ」


拾い上げたそれは、誰にも触れられぬまま残されていた鍵だった。


「これが……あなたのお兄さんの部屋の鍵ね」


その言葉に幼いパンドラの指先が震えた。

二人は並んで歩き出す。

目の前にパンドラの兄の部屋と同じ形の扉がぽつりと浮かび上がった。

その前に立ったとき、パンドラは小さく息を吸った。


「……ルナ」


何も言わなくてもルナには分かった。

鍵を持つ手にそっと力を込め、扉の鍵穴へ差し込む。


ガチャン。


音は小さかった。

だが、その瞬間、扉の隙間から白く、あたたかい光が溢れ出した。


「その扉の向こうに……きっと、わたくしの心から抜け出す道があるのですわ」


ルナは振り向いた。

そこにはパンドラの父と母、そして――幼いパンドラ。


両親の表情は優しい顔だった。

失われる前の、壊れる前の、家族の姿。

その光景を前にしてルナが静かに声をかけた。


「パンドラ……記憶が戻ったのね?」


その言葉にパンドラの喉がわずかに震えた。


「ええ、ルナのおかげで……わたくし、全てを思い出しましたわ」


ルナは声を抑えながら確かめるように話した。


「……体は大丈夫?苦しいところはない?」


その声は問いではなく祈りに近かった。


「ええ、大丈夫ですわ。全ては……あなたが一緒にいてくれたおかげですわ」


そう答えた瞬間、幼いパンドラがふっと笑った。

ルナの胸にだけ残る、忘れられない笑顔だった。

そして、静かに告げる。


「さようなら、ルナ」


その声は優しく、しっかりと別れを伝えていたが、どこか名残惜しさが滲んでいた。

ルナは扉に手をかけた。

だが、扉は開かなかった。


「……駄目よ、パンドラ。まだ足りないわ」


「……え?」


そのとき、ルナは振り向いた。

すると、そこにいたのは大人の姿ではなく――幼い頃のルナだった。

視線は下がり、声は軽くなり、まるで子どもの頃の彼女そのものの雰囲気がそこにあった。


「私はまだ帰らないわ」


幼いルナは目を輝かせ、嬉しそうに声を弾ませた。


「もっと遊びましょ!パンドラ!お城の中を案内して?」


「……ルナ」


答える前に手を取る。

そして二人は走り出す。

白い空間は徐々に城へと変わり、廊下が続き、窓から柔らかな光が差し込んだ。

笑い声と足音が重なり合い、時間の感覚は次第に曖昧になっていく。


それは一瞬の出来事で、けれど何年も一緒に過ごしたかのような感覚だった。

失われた時間も、奪われた記憶も、胸の奥に残したままの想いも、その中でゆっくり溶けていく。


――そして、静かに。

パンドラは眠りから目を覚ましていく。

扉の向こうで、現実が待っている。


ただこの瞬間だけ、二人の間には一生分にも感じられる、包み込むような温かい時間が流れていた。

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