第143話 抗う心と不滅の敵
「ルナッ……!!」
俺の叫びは深淵封鎖の間の天井にぶつかり、鈍く跳ね返った。
ティモーリスの魔法によって映し出された映像の中で、ノソファエルの爪がルナの脇腹を深く貫いていた。
次の瞬間、ルナの体が床へ崩れ落ちた。
「……そんな……」
映像が乱れ始めた。
ルナの意識の揺らぎに引きずられるように、光が歪み、輪郭がぶれる。
映像の中だけではなかった。
深淵封鎖の間に横たわるルナの口元からも血が溢れ、床へ落ちていくのが見えた。
胸が締め付けられ、呼吸が浅くなる。
「早く、治療師を呼べ!」
ルージェが入り口に向かって叫ぶ。
「ルナに回復魔法を!急げ!」
「了解しました!」
兵士が駆け出す音が遠ざかるのを聞きながら、俺はルージェの手にあった札へと手を伸ばした。
「な、何をする気だ!」
掴み取った札を握り締める。
「頼む!俺をパンドラの中に入れてくれ!」
間髪入れず、ティモーリスの声が響いた。
「駄目だ。今、結界を解けば――その瞬間にこの場の全員が殺される」
「でも、このままじゃルナが死ぬ!」
言葉が喉の奥で震え、抑えきれず溢れ出た。
「待て……」
ティモーリスは映像に視線を向けたまま、低く言う。
「……ルナが、動いた」
「……え?」
画面の中で倒れていたはずのルナが、震える手で床を押し、体を起こしていた。
「ルナ……」
祈るように名前を呼ぶ。
◇ ◇ ◇
「おや……驚きです」
ノソファエルの声が静かに響く。
「その傷で、まだ立ち上がれるとは」
ルナは片膝をついたまま、息を整え、片手を掲げた。
指先が震えている。
「ファラグス……フローガ……!」
だが、掌に何も生まれない。
炎も、熱も、気配すら。
ノソファエルの口元が歪んだ。
「無駄ですよ」
黄に光る双眸が細まる。
「パンドラ様の魔力を結界で封じているのは、あなた方です。ですから――心の中にいるあなたも魔法は使えない」
言葉の一つひとつが針のように突き刺さる。
「まぁ、分かっていたとは思いますがね」
(……魔法も、物理攻撃も効かない)
ルナの思考が必死に逃げ道を探す。
(今は……逃げるしか……でも、この傷だと走る事もできない)
脇腹を押さえた指に力が入らない。
血が止まらない。
「パンドラ様が眠っている今、私は不死身の存在」
ノソファエルは、ゆっくりと歩み寄る。
「あなたを殺して、再び魔力を高め、今度こそ結界を解きましょう」
笑みが深くなる。
「その時は――パンドラ様の黒き炎で、あの場にいる者たちを皆、焼き尽くして差し上げますよ」
(……駄目……)
視界が揺れる。
(逃げられない……天空……ごめん……)
唇が震えた。
(せっかく……会えたのに……)
「ルナエレシア王女」
ノソファエルの声が、妙に穏やかになる。
「せめて、最期の瞬間は……痛みを取り除いてあげましょう」
彼は片手を掲げた。
外套の袖口から覗く指に嵌められた指輪が、ゆっくりと傾く。
次の瞬間、指輪が光を放った。
その光は円を描きながら広がり、空間そのものを押し広げていく。
「……な、に……?」
意識が沈み始める。
◇ ◇ ◇
俺は、はっきりと見た。
あの指輪――リモルナが持っていたものと似ている。
パンドラを強制的に眠らせるためにリモルナが作った指輪だ。
……いや、もっと古い。
まさか、パンドラを眠らせる指輪の原型――。
「くそ……!」
背筋が凍りつく。
「ルナ!!」
叫びながら、俺は反射的に前へ踏み出した。
「耳を塞げ!目を閉じるんだ!その指輪を見るな!!」
俺は深淵封鎖の間に横たわるルナの手を握り締めた。
そして何度も、何度も呼ぶ。
「ルナ……頼む……!」
◇ ◇ ◇
――声が聞こえた。
遠くて、近い。
胸の奥に直接触れるような、懐かしい声。
(……天空……?)
指輪の光が広がる瞬間、ルナは反射的に目を閉じた。
だが、遅かった。
目を閉じたまま、光の感覚が少しずつ消えていく。
光も音も遠ざかる。
抗えない眠気が意識を包み込み、思考の輪郭を溶かしていった。
体が重い。
指先が感覚を失い始める。
(……いや……まだ……)
言葉にならない抵抗が胸の奥で微かに揺れた。
足が崩れそうになり、ルナは反射的に本棚へ手を伸ばす。
指が背表紙に引っかかり、紙のざらついた感触が伝わった。
それだけが意識を繋ぎ止めていた。
「では、これで終わりです。ルナエレシア王女」
ノソファエルの声が耳元で静かに囁かれた。
次の瞬間、襟元が強く引かれ、体が引き寄せられる。
視界の端でノソファエルの腕が持ち上がるのが見えた。
爪が一直線に迫ってくる。
(……間に合わ……)
◇ ◇ ◇
「やめろぉぉっ!!」
俺の叫びが深淵封鎖の間に響き渡った。
その瞬間――
ルナの手を握り締めていた俺の両手が激しく光を放った。
ルナの全身が白い光に包まれていく。
その光は奔流となり、映像の向こうへ流れ込んだ。
◇ ◇ ◇
「……天空……」
かすれた声が確かに響いた。
ルナの手がノソファエルの手首を掴む。
その瞬間、ノソファエルの腕が引き攣った。
「ぎゃああぁぁっ……!?」
掴まれた部分が内側から焼けるように熱を帯び、ノソファエルは悲鳴を上げた。
ルナの指の間に紙が貼り付いている。
――霊魂縛火の呪符
「な、何だ……これは……!」
ノソファエルがルナの襟から手を引き、呪符を剥がそうとするが剥がれない。
ルナは自分の手を見た。
そこには、いくつもの霊魂縛火の呪符が握られている。
(……どうして呪符が?)
一瞬の戸惑い。
だが、迷いはなかった。
(でも……これがあれば……)
眠気が、まだ体の奥で渦を巻いている。
それでもルナは足を踏み出した。
「……まだ、終わらない」
震える足で前に出る。
ノソファエルの姿が揺らぎ、透けるように消えようとする。
だが――
霞んでいた視界がわずかに輪郭を取り戻した。
ノソファエルのオーラが、ぼんやりと輪郭を伴って浮かび上がる。
ルナは迷わず突っ込んだ。
震える手でノソファエルの腕をしっかりと掴み、呪符を一枚一枚確実に貼り付けていく。
「ぎゃああぁぁぁ!!」
霊魂縛火の呪符が貼り付いた瞬間、光が爆ぜ、炎がノソファエルの体を飲み込んだ。
「これで……最後よ!」
ノソファエルの輪郭が歪み、悲鳴が空間を震わせた。
その場で動きが止まる。
だが――それでも、倒れない。
「無駄だ……!」
叫び声が怒りに変わる。
「私にそんなものが効くわけがない!私はここでは不滅そのものなのだ!」
(……そんな……まだ、足りない)
ルナの手には、もう霊魂縛火の呪符は残っていない。
残っているのは一枚だけ。
――魂魄分離の呪符
(これを使えば……私は、ここから出られる)
一瞬、迷いがよぎる。
でも――
「どうやら、手札が尽きたようですね」
ノソファエルが、ゆっくりと腕を振り上げる。
「今度こそ終わりです」
「……いいえ」
ルナは静かに言った。
「まだ、一枚残ってるわ」
震える足で踏み込む。
そして――ノソファエルの胸元へ、迷いなく魂魄分離の呪符を貼り付けた。
「な……に……!」
(――後は、任せたわ……天空……)
魂魄分離の呪符が淡く光り始めた。
◇ ◇ ◇
深淵封鎖の間、その中心に魂が浮かび上がった。
パンドラの心の奥から引き剥がされたノソファエルの魂――
それは、かろうじて形を保つ、人の輪郭をした意識の塊だった。
ノソファエルは眠るパンドラの姿へと視線を向ける。
その顔から余裕が剥がれ落ちた。
「ば……馬鹿な……そんな……あり得ない……」
声が震え、喉が詰まったように途切れる。
次の瞬間――
俺は迷いなく踏み込んでいた。
「よう。全部、見てたぜ」
背後から掴みかかり、ノソファエルの外套を握り潰すように引き寄せる。
抵抗する間もなく、俺の拳が顔面を打ち抜いた。
「なっ……なにを――」
言葉の続きは許さない。
「よくもパンドラを操ってくれたな。あげくに、ルナまで殺そうとしやがって」
怒りが腕を動かしていた。
左手で襟を掴んだまま、何度も拳を叩き込む。
――ドガッ!
衝撃が返ってくる感触だけが、はっきりと分かる。
「てめぇだけは絶対に許さねぇ!」
掴んでいた手を放し、今度は距離もつけずに連打を浴びせる。
「百万殴りの刑だ!くらえ――オメガ インパクト ストーム!」
――ドドドドドッ!
拳が止まる頃にはノソファエルは床に崩れ落ちていた。
「ぐ……は……」
かすれた声を残し、そのまま動かなくなる。
「死なない程度には手加減してやったぜ。あとで聞きたい事が山ほどあるからな」
そう言い捨てた瞬間、ノソファエルの意識が落ちたのが分かった。
沈黙の中でティモーリスが低い声を出す。
「天空……君はいま、何を殴っていたのだ?」
「あ、ノソファエルのハゲ野郎に決まってんだろ」
その言葉にティモーリスとルージェが揃って息を呑む。
「え?もしかして、俺にしか見えていないのか?」
「……私の視界には、何も存在せぬ」
アミラが静かに言った。
「天空さん。あなたには精霊力があるようですね。だから、あなただけが彼を認識できているのでしょう」
「精霊力……?」
どこかで聞いた言葉だった。
「ああ、前にも同じ事を言われたな。あんま自覚はないけど……」
ティモーリスが短く頷く。
「理解は後だ。ノソファエルを捕らえるにはダビネかエバーの精霊力が必要だ。今のパンドラなら一人でも結界は維持できる」
「分かりました。エバー、お願いします」
「承知しました」
エバーがパンドラから離れ、倒れ伏したノソファエルへと歩み寄る。
手を掲げた瞬間、歪んだ輪郭が空間から浮き出るように現れた。
――そこに、確かにノソファエルが存在していた。
ティモーリスは、しばらく俺を見つめてから言った。
「先ほどルナに呪符を渡した力、そして魂を見る力……君は、本当に人間なのか?」
その言葉が胸の奥で引っかかった。
――本当に人間か?
上の世界で魔導士に言われた声がよみがえる。
異界樹を通れた理由も、精霊の力がある理由も、何ひとつ分からない。
俺には自分が何者か分からない。
だが――
「……そんな事はどうでもいい」
俺は被せるように口を開いた。
「ルナは?ルナはどうなった?」
ティモーリスが展開していた視界共有の魔法が暗転していた。
「……ルナは意識を失ったようだ」
胸が冷える。
「魂魄分離の呪符をもう一枚くれ。俺が送る。俺の力なら、ルナの魂を戻せるだろ?」
「それは出来ぬ。このアジトに残る呪符は、もうない」
「だったら俺をパンドラの中に――」
「駄目だ」
ティモーリスの声には揺らぎがなかった。
「今、パンドラの心の中に入れば眠っている記憶に触れることになる。その瞬間、封じられていたものが目を覚まし、もう誰にも止められなくなる。そして――目覚めた時、そこにいるのが元のパンドラだとは限らん」
一瞬の間が落ちる。
俺は短く息を吐いた。
「……待つしかない、って事か」
ティモーリスは眠るパンドラを見下ろす。
その表情には祈りに近い静けさがあった。
「そうだ。それまでに我々が出来るのは、この場の状況を守ることだけだ。ルナの体には回復の魔法を惜しまず注ぐ。魂が戻り、目を覚ますその瞬間まで――待とう」
その言葉を聞きながら俺は拳を強く握り締めていた。
何も出来ない時間がこれほど長く感じられた事はない。
けれど、ここで踏み出せば、すべてを壊してしまうと分かっていた。
「……分かった。ルナを信じて、待つよ……」
それは、誰に向けた言葉でもない。
自分自身に言い聞かせるように静かに呟いた。
◇ ◇ ◇
パンドラの心の奥――
静まり返った図書館の床にルナは倒れていた。
呼吸はある。
だが、意識は深く沈んだまま。
その傍らで幼い姿のパンドラが、じっと彼女を見下ろしている。
表情のない瞳は倒れたルナから一切逸れなかった。
まるで――ルナではなく、これから起きる何かを待っているように。




