第142話 思い出が形を成す場所と終わらぬ管理
深淵封鎖の間に、ルナの体が床へ崩れ落ちた重い音が響いた。
「ルナ!目を覚ませ、ルナ!」
呼びかけても返事はない。
瞼は閉じたまま、呼吸だけが浅く続いている。
その様子を見下ろし、アミラが告げる。
「……ルナ様は『魂転移の儀』によって……パンドラの心の内側へ引き込まれてしまいました」
「……なんだって?」
気づけば抑えきれない声が漏れていた。
「なら、早く戻せ!今すぐだ!」
「それは……できません」
アミラは視線を伏せたまま、淡々と告げる。
「魂を元の体へ戻すにはダビネとエバーの精霊力が必要です。ですが今、その力はすべて結界の維持に使われています。ここで切り替えれば、結界が崩れてしまいます」
「だったら俺が入る!俺がルナを助けに行く!」
叫ぶように言ったが、即座に否定が返ってくる。
「それも不可能です。魂転移の儀は一度に一人の魂しか通せません」
胸の奥が押し潰されるように痛んだ。
「……ふざけるな。ルナは何も持ってない。戻って来る方法はあるのか?中のやつをどうやって倒す?このままじゃ……ルナが殺されてしまう!」
その言葉を遮るようにティモーリスが前へ出た。
「落ち着くのだ。焦りは判断を鈍らせる。アミラが手をかざし続けている限り、出口の通路は消えておらん。問題は一つだけだ」
ティモーリスはルナを見下ろす。
「ルナ自身が、その通路を見つけられるかどうか」
そう言うと彼は両手をルナの頭上に掲げた。
短い詠唱が紡がれる。
空気がわずかに揺れ、淡い光が生まれた。
その光は広がり、霧を集めるように形を成し、やがて宙に映像を結ぶ。
「ルナの視界をこちら側に映す。まずは中の状況を知る。それから対処法を考えるのだ」
誰も言葉を発さなかった。
映像に映るものが、すべての分かれ目になる。
◇ ◇ ◇
深い闇に沈んでいた意識が、唐突に引き戻された。
最初に視界へ入ってきたのは眩しいほどに飾り立てられた天井だった。
「……?」
反射的に息を吸う。
肺に空気が入る感覚はあるが、どこか夢の中にいるようだった。
「……ここは……」
ゆっくりと身を起こす。
足元には柔らかな絨毯。
周囲には金と白を基調とした豪奢な内装。
「……煌月城……?」
見覚えがある。
数日前に訪れた場所。
次の瞬間、記憶が一気に押し寄せた。
黒く濁ったパンドラの瞳。
掴まれた手首。
胸に押し当てられた自分の手。
「……そっか……私……無理やり……」
無理やり引き込まれた。
その事実だけが胸の奥で重く残っている。
元の場所に戻れるかどうかは分からない。
「……ここは……パンドラの心の中……」
心臓が嫌な音を立てる。
廊下を歩き出した、その時だった。
――遠くから、楽しげな声が聞こえてくる。
「父上、母上、こっちよ!」
足が止まる。
幼い、澄んだ声。
続いて、低く穏やかな男の声。
「待つのだ、パンドラ。廊下を走り回るのではない」
さらに、柔らかくも切迫した声。
「危ないわ、パンドラ!」
胸がざわめく。
柱の影から、そっと様子を覗く。
そこにいたのは幼い少女――パンドラだった。
無邪気な笑顔で走り回り、両親に囲まれている。
だが、その光景には決定的な違和感があった。
「……両親の顔が分からない」
父と母の顔には薄い霧がかかったように輪郭が定まらない。
確かにそこにいるのに、記憶が拒むようにそこだけ空白のままだった。
その光景の直後、横から声がかかった。
「危ないじゃないか、パンドラ」
その声と同時に青年が現れ、少女を抱き止めた。
「……ネクロスお兄様」
幼いパンドラが心から安心したように笑う。
その光景を見て、ルナは思わず息を呑んだ。
「……彼が……パンドラのお兄さん」
兄の姿だけが他の誰よりもはっきりとそこにあった。
声も、表情も、触れられそうなほど近い。
その不自然さがルナの胸の奥を静かに締めつけた。
「両親は思い出せないのに……どうして?」
正体の掴めない不安が胸の奥でざわつく。
――パンドラの兄は何年も前に姿を消したはずだった。
それなのに、この場所ではすべてが穏やかで幸せそうだった。
ここは心の内側――パンドラの中に残された記憶だけで形作られた場所。
「……こうしてはいられない」
ルナは小さく息を吐く。
ここに留まれば敵に見つかる。
「アミラが通路を開けてる限り、元の場所へ戻る出口がきっとどこかにある」
ルナは静かに歩き出した。
扉を開けるたびにパンドラと両親、そして兄の笑い声が流れ出てくる。
どの部屋にもパンドラの思い出があるようだった。
だが、記憶を追いかけるほど、出口から遠ざかる気がした。
行き当たりばったりに進めば、時間を無駄にするだけだ。
階段を降りても辿り着くのは同じフロアばかり――。
その時、背後で笑い声が途切れた。
ルナは足を止める。
「……?」
振り返る。
そこにあったはずの光景――
幼いパンドラと両親、兄の姿は、影も形もない。
広い大広間だけが静まり返っていた。
「……消えた?」
一歩踏み出した瞬間、床の感触が変わった。
絨毯だったはずの足元が、硬く、冷たい石へと変わる。
天井の模様が歪み、柱は途中から溶けるように途切れ、音もなく床へ沈み込んでいく。
空間そのものが、ゆっくりと形を失い始めていた。
「……何かが……おかしい……」
次の瞬間、その違和感が背後からの気配と重なった。
何かが、すぐ近くまで来ている。
反射的に身を低くする。
その直後、ルナのいた位置を見えない衝撃が切り裂いた。
床が砕け、石片が宙を舞う。
「なにかいる……!」
姿は見えない。
だが、確実に何かがそこに立っていると分かった。
「……いるのは分かってるわ。出て来なさい……!」
声に出した瞬間、空気が裂けるような圧が正面から叩きつけられた。
体が浮き、背中から床へ投げ出される。
「きゃっ!」
肺から空気が抜ける。
痛みが遅れて走り、視界が白く弾けた。
「なにが起きて……!」
起き上がろうとした瞬間、右足首に重い感触が絡みつく。
誰かに掴まれた――そう思ったが、目の前には誰もいない。
それでも体が床を擦りながら引きずられていく。
「離して……!」
床を引っ掻くが抵抗は虚しく、体はずるずると後退させられる。
見えない手が容赦なく力を加えてくる。
「……っ、離しなさい……!」
左足で思いっきり蹴る。
次の瞬間、引く力が消えた。
すぐに立ち上がる。
だが、背後から冷たい気配が耳元に迫る。
「……うっ……!」
振り向こうとした瞬間、首元を締め付ける圧が走った。
目に見えない指が確かにそこにある。
喉が塞がれ、息が吸えない。
次の瞬間、足が床を離れた。
「がっ……はっ……」
視界が滲む。
その奥へ、冷えた意思が流れ込んでくる。
ただ――拒まれている。
ここに踏み込んだことそのものが間違いだと告げられる。
「……ここは……あなた方が入ってきていい場所ではないのですよ」
声ではない。
思念が直接押しつけられてくる。
「それは……!」
必死に首を振る。
「あなたも同じよ……」
肘へとオーラを集中させる。
感覚が一箇所に集まり、熱を帯びる。
振り返りざまに後方へ打ち込んだ。
――ドンッ。
鈍く、重い衝撃が空間を震わせる。
手応えがあった。
確信と同時に首を締めつけていた見えない拘束が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
その隙にルナの体が床へ叩きつけられた。
視界が回転し、背中を強く打った衝撃で肺の空気が一気に押し出される。
思わず咳き込み、床に手をついた。
荒れた呼吸を整えながら、ゆっくりと視線を上げる。
――そこに城の形は残っていなかった。
壁も天井も輪郭を失い、歪んだ記憶の欠片が宙に浮かび、回転しながら砕け、次々と消えていった。
(パンドラの記憶そのものが、消えてる……?)
ルナは短く息を吐き、前を見た。
「……あなたが、パンドラの心に潜んでいる者の正体ね」
そこに立っていたのは人の形をしていながら人ではなかった。
頭部は骸骨めいた輪郭を持ち、爛々と黄色く光る双眸だけが異様な存在感を放っている。
豪奢な立ち襟の外套を纏っていたが、その内側にあるはずの胴体は黒い霧に溶けるように透けていた。
そして、外套の袖口から覗く指には場違いなほど古い指輪が嵌められている。
視線がそこに触れた瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
――あの指輪だけが妙に浮いている気がする。
さらに視線を上げると、その外套の胸元には――
「……煌月家の紋章……?」
声が自然と低くなった。
「あなたは……煌月家の者なの?どうして、パンドラの心の中に……」
骸骨の口元が、ゆっくりと歪む。
「これはこれは、ルナエレシア王女。私の名はノソファエル。かつて煌月家に仕えた執事でございます」
丁寧な口調とは裏腹に双眸の光が強まる。
「今は一つの魂として、パンドラ様の記憶を管理する役目を担っております。もっとも……あなた方のおかげで、少々面倒になりましたがね」
「記憶を管理……?じゃあ……パンドラの記憶を消していたのは、あなたなのね。眠りの病も……あなたのせいなの?」
「ええ。パンドラ様が眠りに落ちてくださらねば、私は表に出られませんので」
淡々と告げるその声に悪意はない。
あるのは役目を果たす者の無感情だけ。
「どうして……何のためにそこまで……精霊の力を使ってないのにどうやって、ここに?」
「おっと」
ノソファエルは指を立てるような仕草をした。
「そこまでは、お教え出来ません」
ノソファエルの視線がルナの瞳を射抜く。
「あなたの瞳から別の者の魔力を感じます。他の方が、その視界を通してこちらを見ている……違いますか?」
(……見ている?……ティモーリス様の視界を映像化する魔法……)
「ですが――」
ノソファエルが、すっと横に身をずらした。
次の瞬間、その輪郭が滲み、壁の奥へ溶け込むように消えた。
「何をしようと無駄です。パンドラ様が眠った今、この場所は私の支配下。すべてを思うままに歪め、書き換えられる。パンドラ様の魔力を封じたところで意味はありません。私のこの能力があれば、あなたなど容易く排除できる」
声だけが空間のあちこちから降ってくる。
「パンドラ様の記憶と共に……あなたの魂も、消して差し上げましょう」
空気が切り裂かれ、正面に半透明のノソファエルが現れた。
鋭利な爪が一直線にルナの喉元を狙って伸びる。
だが――
「――見えなくても、視えてるわ」
一歩踏み込み、体を沈める。
次の瞬間、捻り上げるように回転の勢いを乗せた蹴りを放った。
「胡蝶脚」
足裏に重さが集まり、次の瞬間、衝撃が返ってきた。
骸骨の頭部が弾かれたように宙を舞う。
「……なっ、なぜ」
宙で体勢を立て直しながら、ノソファエルが低く呟く。
「姿を消している私を……見えるはずがない」
「ええ。あなたの姿は見えないわ。でも――」
更に一歩、踏み込む。
「あなたのオーラは見える。隠せているつもりでも、そこだけは隠しきれてない」
言い終える前に距離は詰まっていた。
「さっき……私の首を狙ったわね」
踏み込み、全身の重心を一点に集める。
「これは、そのお返しよ!椿落とし《つばきおとし》」
花ごと叩き落とすような、重く、逃げ場のない一撃。
鈍い音と共に首の骨が折れる感触が伝わった。
(――オーウェンから教わった。戦いは油断しない。終わらせられるなら、最短で終わらせる)
だが、ノソファエルは折れた首のまま、ゆっくりと振り向いた。
「無駄ですよ」
ノソファエルは壊れた人形のように首を元へ戻す。
「ここは今、私の支配下。私は傷つかず、滅びることもない。つまり――結末は最初から決まっているのです」
黄色の光が、さらに強まる。
「ルナエレシア王女、どうやらあなたにも不思議な力があるようですね。さすがはアルテミスハーストの王女という事だけある」
「……私の事を、どこまで知っているの?」
「知らずに招くと思いましたか?あなたは、ここで終わるために選ばれていたのです。さぁ――抵抗を見せてください。最期まで」
(まずい……)
背筋が冷える。
それは恐怖ではなく、判断が遅れていく感覚だった。
(このままじゃ……倒す手段が、ない……)
ルナは一歩も下がらず、構えだけを保った。
思考を奪われないために足を動かさなかった。
距離を詰められることよりも、判断を止めてしまうことの方が、この空間では致命的だと理解していたからだ。
ノソファエルの気配は近いのか遠いのか分からない。
音も圧も定まらず、前後左右の感覚が曖昧になる。
この場所では距離そのものが意味を持たなかった。
(出口も……今は見つからない。あの男が記憶の流れを握ってる限りは)
かつて城の回廊だった床は、ところどころが欠け落ち、別の部屋の断片が滲み出すように重なっている。
その不自然な継ぎ目を見た瞬間、ルナは理解した――この場所は、あの男の手によって塗り替えられつつある。
(……でも、ここはパンドラの心の内側……この場所そのものは、あの男のものじゃない。それに、さっきまで、あの男はいなかった。心の中のパンドラまで眠ってしまったから現れた?)
ルナは反転して走り出した。
背後から声が追いかけてくる。
「逃げても無駄です。あなたは、この私から逃げる事など不可能です」
だが、振り返らない。
(出口を探す意味がないなら、狙うべきは一つだけ。眠っているパンドラを見つけて目覚めさせる――この空間の主導権を、あの人に戻す。それしかない。作戦変更。出口ではなく、パンドラを探す)
この空間が崩れているのは、パンドラの意識が深く沈んでいる証拠。
ならば――
(心の中にいるパンドラの意識が戻れば、この場所の主導権は取り戻せる)
扉が現れる。
ひとつ、またひとつ。
ルナは躊躇なく飛び込む。
だが扉を抜けた瞬間、視界に広がったのは見覚えのある回廊だった。
床の欠け方、壁のひび、揺れる灯り――すべてが、さっきと同じ。
進んだはずの距離が、まるで最初から存在しなかったかのように消されている。
「……違う。戻されてる……」
空間が折り畳まれている。
逃走経路そのものが閉じられている。
「ここも違う……」
その時、視界の端でひとつだけ異質な光が揺れた。
他の扉と違い、歪みを拒むように白く浮いている。
(あそこだけ光ってる……)
直感が、告げていた。
あれは「パンドラの記憶が残っている場所」だ。
ルナは迷わずその扉を開いた。
次の瞬間、空気がはっきりと変わった。
ひんやりとした静けさが肌にまとわりつき、遅れて紙の匂いが鼻を満たす。
さっきまでの歪んだ回廊が嘘だったかのように、ここだけが不自然なほど整っていた。
天井まで続く本棚には背表紙が寸分の狂いもなく並び、歪んだ空間の名残がここには見当たらなかった。
「……だけど違う。ここにもパンドラはいない。いや、これはパンドラの記憶じゃない」
声が返った。
「ご名答です」
背後の本棚から影が滲み出る。
「ここは、私の図書館」
ノソファエルが姿を現す。
黄に光る双眸には焦りの色がなく、むしろ状況を楽しんでいるかのような静かな余裕が滲んでいた。
「パンドラ様が起きている間、私はここで過ごします。記憶の整理には静かな場所が必要ですからね」
「……何故、私をここに?」
「あなたが自分から来たのでしょう」
微笑が深くなる。
「ですが、都合がいい。あなたは眠るパンドラ様を起こそうとしているようですしね。ですから――ここで止める事にしましょう」
(……全て、見透かされてる)
ノソファエルが床を滑るように距離を詰めてきた。
ルナは呼吸を整え、重心を落とした。
攻撃が来る、と認識した瞬間――視界が遮られた。
「……えっ!」
棚から抜け落ちた何冊もの本が空中で弾けるように開いた。
ページが一斉にめくれ、びっしりと詰まった文字が幕のように広がる。
反射的に瞬きをした、その刹那――
文字の隙間を切り裂くように、鋭い風切り音が至近距離で鳴った。
(――爪の攻撃……いえ、違う)
視界が開いた瞬間、銀色の刃が目前に迫っていた。
投擲されたナイフが三本。
狙いは喉。
ルナは体を横に流すように捻り、刃を紙一重でかわす。
頬をかすめた冷気が遅れて痛みに変わる。
だが――それで終わりではなかった。
避けた方向、つまり逃げ道の先からオーラが湧き上がる。
本棚の奥が揺らぎ、そこからノソファエルが透けるように現れた。
「残念ですが、これで終わりです」
声と同時に爪が伸びる。
ルナは反射的に腕を上げ、首元を守った。
だが、その動きすら計算の内だった。
次の瞬間、脇腹に鋭い痛みが突き刺さる。
「……っ、あ……!」
空気が肺から抜け落ち、声が崩れた。
ノソファエルの爪が深く食い込み、脇腹に走った衝撃は遅れて熱を帯びた痛みに変わり、身体の奥へと沈み込んでいった。
爪が引き抜かれた瞬間、力が抜けた。
足が床を捉えられず、ルナの体がそのまま崩れ落ちる。
視界が傾き、床が近づく。
床に倒れ込む視界の奥で色も形も崩れていく中、ただひとつ――本棚の隙間から覗くノソファエルの瞳だけが、最後まで鮮明だった。




