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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第141話 奪われた記憶の空白と目覚めを拒む存在

夜が訪れ、深淵封鎖の間はゆっくりと闇に沈んでいった。

壁沿いに据えられた灯りだけが、かろうじてこの空間の輪郭を保っている。

その中央の台の上でパンドラの瞼が微かに動いた。


俺はそのすぐ横に置かれた椅子に腰掛け、身じろぎもせず様子を見守っていた。

パンドラの息遣いが変わる。

やがて、焦点の定まらない視線が天井を彷徨い――ゆっくりと、すぐ横の俺を捉えた。


「……オーシャン、ここは何処ですの?」


目覚めたばかりだというのに、声は驚くほど落ち着いていた。

俺は一瞬、言葉を探した。


「ここは、帝国の……玄冥魔軍の隠しアジトの中だ」


パンドラは瞬き一つせず、俺の顔を見つめ続けていた。

まるで言葉の裏側まで量ろうとしているかのように。

そして、わずかに息を整えてから口を開く。


「そうですの。どうやら、わたくしは長い時間眠っていたようですわね」


「……ああ」


それ以上、言葉は続かなかった。

何を聞くべきか、どこから切り出すべきか――考えだけが巡り、喉の奥で止まったまま声にならない。

沈黙が灯りの揺れとともに重く落ちる。

先に口を開いたのはパンドラだった。


「オーシャン、そんなに思い詰めた顔をなさらなくてもよろしくて?わたくしに聞きたい事があるのでしょう」


「……ああ」


躊躇いを押し殺し、俺は言葉を選びながら続ける。


「思ったよりも冷静だな。ここが帝国のアジトで、捕らえられたのは自分だって言うのに……」


その言葉にパンドラは小さく微笑んだ。

作られたものではない、柔らかな笑みだった。


「オーシャン。あなたが目の前にいて、こうして傍にいてくださるだけで、わたくしは十分に安心しておりますわ。たとえ囚われの身であろうと……あなたの事を信じておりますのよ」


「……パンドラ」


彼女は起き上がろうともしなかった。

身を捩ることも、拘束を確かめることもない。


――分かっているのだ。

ここで余計な動きをすれば、俺と話す時間が失われるかもしれないということを。

その態度が覚悟の表れであるように思えて、胸の奥がわずかに痛んだ。

俺は一度息を整え、核心に踏み込んだ。


「……なぁ。どうして、わざと捕まるような真似をした?」


その瞬間、部屋の空気がわずかに張り詰めた。

入口付近で控えていたルナとルージェ、そしてティモーリスの気配が強まる。


「わざと捕まっただと?どういうことだ?」


ティモーリスの声が静寂を破った。

だが、俺はパンドラから視線を逸らさなかった。


「お前なら、あの場を簡単に切り抜けられたはずだ。……なのに、そうしなかった」


「どうして、そう思いますの?」


その問いに俺は記憶を辿る。


「ノマディアの灰の降る間に入った時、俺たちは口を塞いで進んでた。でもお前は違った。平然としてて、身体の周りに薄い光が出てた。そいつが灰が触れる前に全部弾いてた」


俺は続ける。


「そんな事が出来るなら舞踏会で使われた眠りのガスも防げたはずだろ」


パンドラは黙って聞いている。

視線を逸らすことなく、俺の言葉を受け止めていた。


「さらにお前を探して動く中で、俺はカティフラクトと戦う事になってしまった。あいつは俺の拳に合わせて物理攻撃を防ぐ魔法障壁を瞬時に使って来た。あんなに速い反応速度で対応出来るのに、判断を間違えるようなやつだとは思えない」


一度、言葉を区切る。


「後から考えると、あの布陣も不自然だ。防御役として最も信頼されているカティフラクトをエピメスではなく、お前の側につけていたのは出来すぎている。それでも防御魔法が通用しなかった理由は一つしかない。パンドラ、お前、あの時何かやっただろ?」


再び沈黙。

やがて、パンドラはほんのわずかに口元を緩めた。


「ええ。お城の大広間に、フィトリアで見た転送を封じる『テレポロス フォラグマ』ではなく……防御魔法を封じる『アミナ アパゴレヴォ』を施しましたわ」


俺は胸の奥に溜めていた息をゆっくりと吐いた。


「……それで、どうして帝国に捕まるような真似をしたんだ?」


パンドラはゆっくりと俺から視線を外した。

揺れる灯りが彼女の横顔を淡く照らす。


「わたくし――エピメスと話しましたの。魔影軍の軍団長でありながら、どうして流されそうだったわたくしを助けてくださったのか……それが、どうしても分からなくて」


その声は静かで、どこか遠くを辿るように聞こえた。


「ああ……俺もそれがずっと引っかかっていた」


パンドラは小さく息を吐き、わずかに口元を緩める。


「ふふっ。囚われた身でありながら、エピメスはわたくしの身体の事を気遣い、繰り返し様子を確かめてくださいまして。……あれほど近くにいらしても、敵意の気配を一切感じませんでしたのよ」


パンドラは一度目を閉じ、再び静かに開いた。


「エピメスは、わたくしの眠りの病の事を確かめながら、ご自身の事を覚えているかどうかを、何度も尋ねてきましたわ。最初は意味が分かりませんでしたわ。ですが……」


言葉が一瞬、途切れる。


「両親のお顔の事、幼い頃の思い出、そして兄の事を次々と聞かれましたわ」


その表情に微かな陰が落ちた。


「……わたくし、両親の顔を思い出せませんの。その時になって初めて、自分の中から大切な記憶が抜け落ちている事に気付かされましたわ」


胸の奥に言葉にならない重みが沈んでいく。


「その後、エピメスは打ち明けてくださいましたわ。既にわたくしを捕らえに来るという作戦が、帝国の魔影軍に伝えられている事を――そして、その時は抵抗せず捕まってほしいと」


俺は黙って聞いていた。


「行き着く先は玄冥魔軍の拠点だと……ですが、そこへ辿り着く前に命を落とす可能性がある事も、包み隠さず話してくださいましたわ」


「……エピメスは全部話していたんだな」


「ええ。玄冥魔軍のいる場所に着いたら、まずはティモーリスという方に事情をお伝えし、そのうえでルナエレシア王女とお話しする機会を頂くようにと言われましたわ。彼女であれば、眠りの病の事も、失われた記憶の事も、信じてくださると」


「ルナと……」


「ですが、玄冥魔軍のアジトに着く前にルナエレシア王女は別行動をとってしまい、やがて眠りの病が訪れ、わたくしはそのまま眠りに落ちてしまいましたわ」


「お前、それまではずっと起きていたのか?」


「ええ」


パンドラはゆっくりと俺の方を見る。


「……そして、目を覚ましたら、こうしてあなたがいらっしゃった。……とても、不思議ですわ」


言葉を失い、俺は黙り込む。

捕らえられてなお彼女を気遣っていたエピメス。

そして、その策を理解したうえで身を委ねたパンドラ。

重なる選択の末に今がある。


「オーシャン」


静かな呼びかけに顔を上げる。


「煌月守衛軍と闘いになられたのですか?お体は……大丈夫でして?」


「ああ。俺は問題ない。どうにか逃げきれた」


一拍、言葉が遅れる。


「……ただ」


視線が自然と落ちた。


「……闘いの最中に俺の目の前でポレモスが死んだ。俺には防げなかった。……ごめん」


パンドラはそっと目を閉じた。


「……そうですの」


その声から感情の輪郭は読み取れなかった。

後悔なのか、覚悟なのか、それとも別の何かなのか。

やがて彼女は静かに言葉を紡ぐ。


「謝らなくても、よろしくてよ。彼は煌月守衛軍の一員として、自らの役割を果たしただけですわ」


再び沈黙が落ちる。

灯りの揺れが、時間を引き延ばすように思えた。

俺は思い切って口を開いた。


「なぁ、パンドラ。少し前……お前はこの場所で目を開けて、魔力を封じるための結界ってやつに抵抗していた。何も覚えていないのか?」


パンドラは首を傾げ、不思議そうに答える。


「……何も覚えておりませんわ」


その時、入口付近に控えていたルナが一歩前に出た。


「……パンドラ」


声に反応し、彼女はそちらを向く。


「あら。ルナエレシア王女もいらしてたのですね?」


ルナは一切表情を崩さず、言葉を向ける。


「質問があるわ。あなたは黒影軍を執拗に追い詰め、さらには拠点としていた町まで襲った。……なぜ、そこまでしたの?」


パンドラはルナの顔をまっすぐ見つめる。


「少なくとも……今のわたくしの記憶にはございませんわ。ですが、仮に記憶が残っていたとしても、そのような行いに及ぶことを、わたくし自身が望んで選んだとは思えませんわ」


その言葉に空気が張り詰める。

前へ出たのはルージェだった。


「それだけの犠牲を出しておいて、何も覚えていないと言うのか?自分は関係ないと、そう言いたいのか?」


「……ええ」


パンドラは一切目を逸らさない。


「どれほど思い返しても、そのような行いをした記憶は、わたくしの中にはございませんわ」


ルージェの表情が抑えきれない感情に歪んだ。

怒りだけではない。

そこには拭いきれない喪失と行き場のない痛みが滲んでいた。


「……ルージェ」


低く呼び止める声より先にルナが一歩踏み出す。


「落ち着いて、ルージェ。あなたの気持ちは分かるわ。でも――今のパンドラを責めても、何も解決しない」


その言葉は理性的だったが、同時に重かった。

理屈で押さえ込まなければならない現実が、ここにあると告げる声だった。

少し離れた場所で様子を見ていたティモーリスが、ゆっくりと前へ出る。


「パンドラ・煌月」


静かな呼びかけが空間を引き締めた。


「では、これまでの帝国軍との戦いも覚えていないというのか。貴様は過去、何度も前線に現れ、村や町を制圧し、支配してきた。そのすべてを――記憶していないと?」


その問いかけには疑念だけでなく、真実か虚偽かを量ろうとする視線が滲んでいた。


「……覚えておりませんわ」


パンドラの返答は変わらない。

揺れも、言い訳もなかった。


ルナが続けて問いを重ねる。


「何年も前、帝国の光翼軍が拠点にしていた頃のフィトリアを、あなたが一人で滅ぼしたと聞いているわ。その事についても、何も覚えていないの?」


パンドラは静かに目を閉じる。

何かを探るように、心の内側へ意識を沈めているようにも見えた。

やがて、ゆっくりと瞼を上げる。


「……わたくしの記憶の中に、そのような経験はございませんわ」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に複雑な感情が広がった。

彼女が無差別に破壊を行う存在ではないと、どこかで信じていた自分がいた。

それが否定されなかったことに安堵を覚える一方で――

彼女自身が自分の過去を失っているという現実が重くのしかかる。


「……聞いていられん」


ルージェの声は低く、震えていた。


「そんな都合のいい話を、どうして信じられる。すべてを忘れたと言えば罪が消えるとでも思っているのか」


吐き捨てるように言い残し、彼女は荒く身を翻した。

そしてそのまま、部屋の外へと足早に去っていった。

怒りとも、悲しみともつかない表情を残して。


「……ルージェ」


思わず声が漏れる。


「今は、そっとしておきましょう」


ルナが静かに言った。


「黒影軍の仲間を失った彼女にとって、今の状況はあまりにも酷いわ」


その直後、ティモーリスが両手を前に掲げる。

短い詠唱と共に空中に淡く揺らめく光が生まれた。

光はやがて形を成し、雲のような映像となって浮かび上がる。


「……これが、先ほどこの場で起きた事の記録だ」


映し出されたのは――

両手両足を拘束され、宙に浮かぶパンドラの姿。

周囲を取り囲む兵士たちが、次々と黒い炎に包まれていく。

悲鳴を上げる間もなく、その身体は闇に呑まれ、何も残さず消えていった。

容赦なく繰り返される光景。


パンドラは、ただ黙ってそれを見つめていた。

目を逸らすことも、否定することもせず。

やがて、静かに口を開く。


「……わたくしの記憶に、ありませんわ」


声はかすかに震えていたが、言葉は変わらない。


「どれほど思い返しても……この場で起きた事を、わたくしは覚えておりませんわ」


その後もティモーリスは問いを重ねた。

時を変え、角度を変え、言葉を選びながら。

だが、返ってくる答えは常に同じだった。

やがて、ティモーリスは小さく息を吐く。


「……天空、ルナ。ここで一度、休憩しよう」


その声には疲労と判断が混じっていた。


「先ほどの部屋で待っていてくれ。アミラ、一緒に来てくれ」


そう告げると彼はこの場を背にする。

残されたパンドラが、こちらを見る。


「これが……わたくしの眠りの病と関係している事なのですか?」


「……まだ分からない。だけど……無関係だとも思えない。エピメスがお前をここまで来るよう仕向けた理由もあるはずだ。それに……あいつは俺に言ったんだ。自分が選んだ道が正しいのか、その答えを俺に委ねるって」


少しの沈黙を挟んでから、俺は続きを口にした。


「お前が連れ去られた後にエピメスと話した時、あいつは自分の選択を後悔していなかった。それどころか自分の言葉に命を懸けるつもりで俺の覚悟を試してきた。俺がこの場所に辿り着けるかどうかを、あいつ自身の選択の答えにしていたんだ」


「オーシャン……エピメスは、あなたのお言葉によって死を選ばずに済んだと申しておりましたわ。生きる決意を与えられたのだと」


「俺の言葉?」


(俺……あいつに、何を言ったんだっけ)


「その一言があったからこそ、今がありますわ。わたくしは感謝しております、オーシャン」


その微笑みは、あまりにも静かで、儚かった。


「パンドラ」


俺は一歩近づき、言葉を選びながら告げる。


「お前の身に起きている事は……必ず解決する。だから、もう少しだけ、ここで待っていてくれ」


「……わかりましたわ」


小さく、しかし迷いのない返事だった。


俺とルナはその場を後にする。

深淵封鎖の間の扉が閉じ、張りつめていた空気だけが扉の向こうに取り残された。

それでも胸の奥の重さは消えなかった。


数歩進んだところで、俺は口を開く。


「……俺には、パンドラが嘘を言っているようには思えない」


ルナはすぐには答えなかった。

歩きながら、ほんの少し考えるように視線を落とし、それから静かに言う。


「私も同じよ。ティモーリス様が映像を出した時の彼女の目……あれは、自分のやったことを受け入れきれずにいる人の目だった。取り繕っている感じはなかったわ」


少し間を置いて、俺は別の疑問を口にした。


「エピメスはパンドラに『浄化の儀』を試そうとしていた。それを、ここでやるつもりなのか?」


「分からないわ」


ルナは首を横に振った。


「でも、パンドラの中に何かがいるのは確かだと思う。それが彼女自身の一部なのか、全く別の存在なのか……まずは、それを確かめる必要があるわ」


俺たちは先ほど使っていた部屋へ戻った。


扉を開けると壁際にルージェが座り込んでいた。

背を壁に預け、膝を抱えたまま、声を殺して泣いている。


「……ルージェ」


名を呼ぶと、彼女は顔を上げないまま、掠れた声を落とした。


「ルナ……私はパンドラに仲間を殺された。黒影軍は壊滅し、町の住人たちも大勢命を落とした。あの時から私の中にあったのは一つだけだ……パンドラを殺すこと」


握った拳が、かすかに震えている。


「それなのに……何も覚えていない?無自覚で、無意識でやっただと?そんな話を、どうやって受け入れろというのだ」


ルナは一歩近づき、静かに言った。


「あなたも見たでしょう。今のパンドラは、あの時町を滅ぼした彼女とは違う。それは、あなた自身が一番分かっているはずよ」


「……分かっている」


ルージェの声は怒りとも悲しみともつかない色を帯びていた。


「分かっているからこそ、許せない。憎むことすら出来ない自分が……何も出来ないまま、ここにいる自分が……」


俺は言葉を選びながら前に出る。


「ルージェ……あんたが堪えていることは伝わってる。俺も話し合いだけで状況が変わるとは思っていない」


一拍置き、続ける。


「でも、パンドラと話して分かった。自分の身に起きていることを知って、あいつ自身も苦しんでいる。ここで信じてもらえなければ、パンドラは王国にも帝国にも居場所を失う。誰にも手を差し伸べられず、独りで壊れていく。今だけでいい……今だけは、パンドラの話を信じてやってほしい」


ルージェは何も答えず、顔を伏せたまま涙をこぼし続けた。


その時、扉が開く。


ティモーリスとアミラが部屋に入ってくる。

ティモーリスは奥の椅子に腰を下ろし、俺たちにも座るよう促す。


「結論から言おう」


低く、落ち着いた声だった。


「パンドラの記憶がないという言葉は事実と考えている。念のため、後ほど記憶の深層を探る魔法を使うが、結果は変わらないだろう」


俺は顔を上げる。


「エピメスは意図的にパンドラをここへ連れて来た。ここにパンドラを治す手段があるんじゃないのか?」


ティモーリスは少し考え、答える。


「森の精霊が扱う魔法の中には、心を静め、濁りを取り除く力を持つものがある。だが、それは別人格に対して有効な方法だ」


一瞬、言葉を切った。


「私は、あれを別人格とは見ていない。パンドラの内側には、もう一つの魂が入り込んでいる。心の奥に入り込み、彼女を内側から支配している存在だ」


「……そいつはパンドラじゃないって事か?」


「そうだ。彼女が眠りに落ちた時にその存在が表に出て来るのだろう。そこで『魂転移こんてんいの儀』を行う事にする」


「なんなんだ?その魂転移の儀って。それでパンドラの治療をするのか?」


「いや、魂転移の儀はパンドラ自身の治療をするものではなく、誰かの魂を一時的にパンドラの体へ移すための儀式だ。つまり、パンドラの中に何者かが潜んでいるならば……」


「……俺たちの誰かがパンドラの中に入ってそいつを取り除く、ってことか」


「そうだ。精霊力の高いアミラなら『魂転移の儀』を行う事が出来る」


俺は即座に言った。


「なら、その役は俺がやる。やり方を教えてくれ」


「駄目だ」


ルージェが立ち上がる。


「その役は、私がやる」


振り返り、真っ直ぐに言葉をぶつける。


「殺された仲間の仇を、この役目で果たさせてほしい。それが、私の中で終わらせるためのけじめだ」


「無茶だ」


俺は首を振る。


「パンドラの魔力は桁が違う。そんな事をすれば、あんたまで殺されてしまう――」


「心配はいらん」


ティモーリスが遮った。


「パンドラの魔力は結界で完全に封じてある。あの空間にいる限り、内側に入った者がその力を引き出すことは出来ないだろう」


ティモーリスの言葉で、張りつめていた空気がわずかに緩んだ。

その沈黙の中でルージェが顔を上げた。

濡れた瞳の奥には、もはや迷いの色がなかった。


「頼む……私にやらせてくれ」


俺は一瞬、言葉を探した後、静かに頷く。


「……分かった、ルージェ。必ず、パンドラの中にいるやつを倒してくれ」


「約束は必ず果たす」


短くそう言い切ったルージェの声には、もはや迷いは残っていなかった。


「では、準備に取り掛かる」


ティモーリスがそう告げると、椅子から立ち上がり、迷いなく部屋を出る。

俺たちも後に続き、再び深淵封鎖の間へ向かった。


深淵封鎖の間の中央ではダビネとエバーが腕を広げ、結界を形作るように手を動かしていた。

淡い光が広がり、空気がじわりと張り詰めていく。


「ティモーリス様、大変です」


ダビネが声を上げた。


「パンドラが再び眠りに落ちました。ですが、魔力が急激に増加しています。このままでは……再び結界を失う恐れがあります」


「なっ……もう眠ったのか?さっき目を覚ましたばかりだっただろ」


俺の言葉にティモーリスは低く息を吐いた。


「中にいる者が意識の主導権を取り戻そうとしているのだろう。時間が無い。すぐに魂転移の儀を始める」


「分かりました」


アミラが静かに応じ、詠唱に入る。

低く抑えた声が空間に響き、結界の光が一段階強まった。

その様子を確認しながら、ティモーリスはルージェへ向き直る。


「いいか。心の内側に入れば、お前自身も魔法を使えなくなる可能性がある。この霊魂縛火れいこんばっかの呪符を持って行け。悪霊や彷徨う魂に作用する聖なる札だ。貼り付ければ、浄化が始まる」


さらにもう一枚を渡す。


「そしてこっちが魂魄分離こんぱくぶんりの呪符だ。自分の体に貼ることで、この場へ戻れる」


そして、念を押すように続ける。


「加えて、お前の視界をこちら側でも共有する魔法をかける。敵の正体が判明すれば、我々も対処を考えられるかもしれないからな」


「承知しました。ありがとうございます」


ルージェは短く頭を下げ、札を受け取った。

その直後、横たえられているパンドラから、白く透明な光がゆっくりと溢れ始める。


「生命エネルギーの通路を開けました」


アミラが告げる。


「胸部に触れれば、心の内側へと入れます」


「相手が何者かは分からん。くれぐれも油断するな」


ティモーリスの言葉にルージェは小さく頷いた。


「ルージェ」


ルナが声をかける。


「気を付けて。相手は、あなたの感情を揺さぶってくるはずよ。怒りに飲み込まれないで」


「心配はいらない。今の私は……もう、何が起きても揺るがない」


その言葉が終わった直後だった。

横たわっていたはずのパンドラが、唐突に上半身を起こす。


「……え?」


思わず漏れたルナの声。

彼女が見たパンドラの瞳は焦点が合っていなかった。

黒く濁った奥で誰かが内側からこちらを覗いている気配だけがはっきりとあった。


次の瞬間だった。

パンドラの手が跳ねるように伸び、ルナの右手首を強く掴んだ。

逃れる間もなく、その手を自分の胸元へと強引に押し当てた。


「しまった!ルナ!」


俺が叫んだ時にはもう遅かった。

ルナの体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。


「おい!ルナ!ルナ!」


抱き起こすが、返事はない。

深淵封鎖の間には、取り返しのつかない予感だけが重く満ちていた。

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