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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第140話 封じられた魔力の先と目覚めの予感

深淵封鎖しんえんふうさの間――

俺は宙に浮いているパンドラを見つめていた。

彼女の身体は台からわずかに離れた位置で固定され、両手両足を拘束する鎖が四方の空間へと張り巡らされていた。

その周囲を囲むようにティモーリスを含む四人が四方に立ち、同時に掌を向けている。


ルージェが一歩前に出て、簡潔に告げる。


「ティモーリス様、ルナがいらっしゃいました」


「おお、ルナ。ちょうどいい所に来た」


ティモーリスは視線を外さないまま言った。


「四人がかりで結界を張り、パンドラの魔力を抑えておるが、もはや限界だ。このままでは破られる。力を貸してくれ」


ルナは状況を見渡し、額に汗を浮かべる。

彼女の隣に立つルージェも同じだった。

パンドラの魔力が強大なのは言葉にするまでもない。

それでも俺自身は直接押し潰されるような感覚を受けていなかった。

――魔力を感じない俺だからこそ、こうして平気で立っていられるのかもしれない。


「……分かりました。私もやってみます」


ルナは短く息を整え、ティモーリスの隣へ歩み出る。

そっと両手をかざした瞬間、白い光が彼女の掌から立ち上った。

制御された揺らぎのない光。

だが、状況は変わらない。

鎖が淡く光り始め、今にも引き裂かれそうに震え出した。


――このままじゃもたない。

そう思った瞬間、迷うより先に身体が前へ出ていた。


「待て!何をする気だ」


ティモーリスの声が鋭く飛ぶ。


「それ以上前に出るな。死にたいのか!」


だが、俺は止まらず、振り返りもせず、片手を後ろへ払う。


「関係ねぇ!俺はパンドラと話すためにここまで来たんだ。何が起きてるのかは本人の口から直接聞く」


「愚か者が!」


ティモーリスの声が荒れる。


「黒き炎で、すでに何人もの兵士が命を落としている!近づけば、お前も――」


――その先は聞かなくても分かる。

だが、何かがおかしかった。

囚われの状況で漂う雰囲気がいつもの彼女と違う。

追い詰められた状況で抵抗すること自体は珍しくない。

それでも引っかかる。


俺は光の中心まで進み、パンドラの正面に立つ。

背後からティモーリスの驚きの声が漏れた。


「……なぜだ?なぜあの男だけには攻撃をしない……?」


その声には結界を張り続けながらも、明らかな動揺が混じっていた。


「これまで近づいた者には誰であれ黒き炎を放ってきたはずだ」


なのに、俺だけがここまで無傷で立っている。


俺がこの部屋へ入り、名前を呼んだ瞬間、パンドラは俺を見た。

そして――笑った。


意識はある。

俺をはっきり認識している。


パンドラの黒い瞳が俺から逸れないまま静かに揺れている。

その視線を受け止めた瞬間、胸の奥が静かに沈んだ。


ノマディアの教会の地下での光景が唐突に脳裏をよぎる。

エピメスが回復魔法をかけた時、眠っていたはずのパンドラが突然起き上がった――あの時に見せた目だ。

今のパンドラの瞳には普段の赤い輝きがない。

底知れぬ闇が広がり、こちらをただ観察しているだけ。


パンドラが口を開いた。


「オーシャン……わたくしを、助けて下さいまし……彼らを始末なさって」


声はいつもの彼女と変わらない柔らかく甘い声。

けれど俺は、はっきりと違和感を覚えていた。

ここ数日のパンドラを思い出す。

彼女には当主としての覚悟と周囲を気遣う余裕が同時にあった。

それを今の瞳からは感じ取れなかった。

姿は同じ。

声も同じ。

だが――違う。


「……誰だ?てめぇ」


俺の言葉が終わらないうちに、パンドラの目が大きく見開かれた。

その視線は俺に定まらない。

焦点がずれ、空間を漂っている。

まるで、俺の声が何かを突き刺したように。

俺の背後からティモーリスの声が響いた。


「……魔力が、弱まっている……?少しずつだが、確実に……」


驚きと警戒が混じった声。

四方から放たれる光が抵抗を感じなくなったように前進し始める。

鎖が縮まり、食い込むように締め上げられていく。

パンドラの表情が初めて歪んだ。

甘く柔らかな声ではなく、かすれた別の響きが漏れる。


「……うっ……」


短い、押し殺したような音。

苛立ちか、それとも――別の感情か。

その隙を逃さず、ティモーリスが即座に叫ぶ。


「今だ!結界に注ぐ魔力を限界まで高めろ!」


「分かりました!」


ルナが応じ、五人の光が一気に強まる。

空間が白く染まり、パンドラの身体は光に包まれたまま宙に留まっていた。

彼女の瞳が、ゆっくりと閉じられ――

結界の光がさらに強まると同時に鎖が役目を終えたように解け、拘束が失われる。

次の瞬間、宙に浮いていた身体が張りつめていた支えを失ったように揺れ、そのまま崩れ落ちようとした。

俺は急いで駆け寄り、腕を伸ばして受け止める。

腕の中の重みは思ったよりも軽かった。


近くで様子を見ていたルナが、ためらいながら歩み寄ってくる。

パンドラを抱えたまま立つ俺を見て、戸惑いを隠さずに声をかけた。


「天空……大丈夫なの?」


その声に返事をするより早く、背後でティモーリスが息を呑んだ。


「一体、何が起こったのだ。説明してくれ」


俺はパンドラを抱えたまま、短く息を吐いた。

自分でも整理がついていない。

だから、正直に言うしかなかった。


「俺にも分からねぇよ。ただ……目の前にいたあいつがパンドラじゃない気がして。理屈じゃなくて、なんかムカついて、それで……気づいたら口に出して言っていた。そしたらこうなったんだ」


誰もすぐには言葉を返さなかった。

ティモーリスも、ルナも、ルージェも、空気が固まったように沈黙している。

俺は腕の中のパンドラへ視線を落とし、低く呼びかけた。


「おい、パンドラ。起きろ。……聞こえてるか?」


それを見て、ルージェが苛立ったように声を荒げる。


「やめろ。そんなことをすれば、再び目を覚まして攻撃してくるかもしれない」


「あれはパンドラじゃねぇ!」


俺は言い切り、腕の中の顔をもう一度確かめるように見下ろした。


「それに、あの目には俺に向けた感情がなかった。……あいつは、信じてるのは俺だけだって……そう言ってたのに」


一拍置いてから言葉を継いだ。


「……パンドラの中に別の何かがいる気がする」


その場の空気が、わずかに張りつめる。


「声も姿も変わらない。でも、あれは絶対にパンドラじゃない」


浮かんだ感覚をそのまま口にしただけだった。

だが、誰もそれを軽くは扱わなかった。

しばらく黙って話を聞いていたティモーリスが、静かに口を開く。


「……君に、話がある」


ティモーリスは一度言葉を切り、周囲を見渡した。


「ルナ、ルージェも来てくれ。アミラ、ダビネ、エバー。君たちはここに残り、引き続きパンドラの結界を維持してほしい」


「わかりました」


三人が即座に応じる。

俺たちはティモーリスの後に続き、部屋を出た。

扉の前で足を止めるとティモーリスが木で組まれた扉を音もなく開く。

奥の部屋へ進み、彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。

木の床がわずかに軋み、外から入り込む風が静かに室内を満たした。


「……ふぅ。ルナが来てくれたおかげで、なんとかあの場を抑えられた。本当に感謝している」


「いえ……こちらこそ急に押しかけてしまって、ごめんなさい」


短いやり取りの後、ティモーリスの視線が自然とこちらへ向いた。


「それで……彼は何者だ?パンドラとは、どのような関係にある?」


ルナが一歩前に出て、落ち着いた声で説明する。


「天空はオーウェンの知り合いで、私たちと共に戦ってくれた仲間です。パンドラを連れ去る前に短い間ですが、彼女と行動を共にしていました」


俺は小さく頷き、そのまま言葉を引き取る。


「正直に言う。俺は煌月家からパンドラを助けに来た。そのために、まず帝国の上の人間と話がしたかった。戦うつもりはない。話し合いで終わらせたいんだ」


その瞬間、部屋の空気が張りつめる。


「――ふざけるな」


ルージェが低く、だがはっきりとした声を上げた。


「話し合いで収まる事態ではない。あの女は我々の側近を殺し、多くの仲間を葬った。それだけではない。町一つが壊れ、多くの命が失われたのだ」


言葉を切り、ルージェは俺を睨む。


「今はどうだ。結界によって魔力を封じられ、意識も失っている。この機を逃せば再び同じ惨事が起こる。だからこそ――今、死罪を与えるべきだ」


重い沈黙が落ちた。

その言葉の重さは誰の胸にも等しく突き刺さっている。

俺は静かに息を吸い、ルージェへ視線を向けた。


「……あんたは、それを全部見たのか。パンドラが側近や兵士、町の人達を殺した瞬間を」


「もちろんだ。私はその場にいた。だが、あの魔力の前では抗うことすらできなかった。逃げる以外の選択肢はなかった。ルナと共に町を離れるのが精一杯だった」


ルナの話と完全に一致している。

だからこそ胸の奥に違和感が残る。

俺の知っているパンドラは無差別に人を巻き込むような存在じゃない。

その確信だけが、どうしても揺らがなかった。


だから――直接、聞きたい。

なぜ、自らが動いてまで帝国の軍と戦ったのかを。

俺は椅子から腰を浮かせ、そのままティモーリスと目を合わせた。


「……ティモーリスさん」


ティモーリスは穏やかな表情のまま、鋭い視線をこちらに向けてきた。


「何だ?」


「多分、ルナやルージェが見たことは本当なんだろう。でも、あいつが自らの意志であんなことをするとは思えないんだ。町の関係ない人達を巻き込むようなやつじゃねぇ。だから聞きたいんだ。本人の口から、何が起きたのかを」


ティモーリスが腕を組んだまま静かにこちらを見る。


「お前は彼女をどれほど知っている?側近でもない。少しの間、行動を共にしていただけだろう?」


「知り合ってから、まだ大して経ってない。でも――あいつは俺にだけ本音をこぼした。眠りの病に落ちる前、この地で信用できるのは俺しかいないって言って……俺に託した。あれが誰かを陥れるための芝居だとは思えない」


「その言葉が策略でないという保証は?」


「目を覚ました後、側近が傍にいるのに、あいつは俺の胸で泣いた。当主という立場でありながら、みんなが見てる前でだ。あれが嘘なら……俺にはもう何も信じられない」


ルージェが目を見開く。


「パンドラ・煌月が……泣いた?」


言葉を続けようとしたルージェをティモーリスの視線が制した。


「……あの時、お前は言ったな。『誰だ』と」


ティモーリスの声は静かだった。


「あれは何を意味していた?」


「目が合った瞬間、パンドラは俺をはっきり認識していた。あれは夢遊病に似た症状なんだと思っていた。でも、違う。言葉を使って俺にあんたらを殺させようとした。結界っていうやつを解かせるために。もしそれが無意識だったとしても……いや、無意識で俺にやらせようとするのはおかしい」


ティモーリスは目を閉じ、わずかに考え込む。

過去の記憶と今の報告を重ね合わせるように。


俺はその沈黙の中で椅子から立ち上がり、床に膝をついた。

額が自然と下がる。

理由は分からない。

ただ、ここで引けば何かが決定的に失われる気がした。


「ティモーリスさん。あんたが、この地を指揮している総司令官なんだろ」


声を絞り出す。


「頼む。一度でいい。パンドラを目覚めさせて、話をさせてくれ」


室内が凍りついたように静まる。

ティモーリスもルージェも、理解できないものを見るように俺を見ていた。

その沈黙を破るようにルナが立ち上がり、俺の傍に寄る。


「天空……そこまでしなくていいわ」


そして、ティモーリスへ向き直る。


「ティモーリス様。私からもお願いします。今の彼女に最終的な処分を下す前に、一度だけ本人の声を聞くべきです」


ティモーリスは俺の土下座した姿を、じっと見つめていた。

やがて、彼はゆっくりと息を吐き、穏やかだが低い声で言った。


「……その姿勢は、何を意味する?」


俺は額を床につけたまま、声を絞り出す。


「頼みだ。……心からの」


ティモーリスは小さく頷き、ルナの方へ視線を移した。


「ルナ。君も同じ願いか?」


ルナは俺の隣に立ち、深く頭を下げた。


「はい、私も天空と同じ願いです」


ルージェが苛立ったように口を挟む。


「ルナ、そんな甘い考えでは――」


ルージェが口を開きかけるが、ティモーリスが止める。


「良い」


ティモーリスの声は静かだったが、部屋の空気を凍らせるほどの鋭さがあった。

彼は再び俺を見下ろし、ゆっくりと言った。


「……覚悟は認めよう。ただし、完全に結界を解くことはできん。この場にいる者すべての危険が大きすぎる」


俺は顔を上げる。


「……それでいい。話せるなら、それだけで十分だ」


ティモーリスはしばらく黙っていた。

森の奥から聞こえる風の音が、部屋に微かに響く。

やがて、彼は静かに頷いた。


「……分かった。魔力の封鎖は維持したまま、反応だけを見る。少しでも魔力が跳ね上がる兆しがあれば必要な措置に移る。それでいいな?」


俺は再び頭を下げる。


「……ありがとうございます」


ルナがほっとしたように微笑み、俺の腕にそっと触れる。

ルージェは不満を隠さなかったが、それ以上は言わなかった。

ティモーリスは立ち上がり、扉の方へ歩き出した。


「では行こう。深淵封鎖の間へ」


その背中に従い、俺たちは部屋を出た。

歩きながらティモーリスがふいに口を開いた。


「……エピメスは、まだ生きているのか?」


振り返らないままの問いだった。


「生きてる。今も煌月城に囚われたままだ。パンドラが、手を出すなって言ったらしい」


短く答えると、ティモーリスはわずかに顎を引いた。


「……そうか」


それ以上は何も言わず、歩調だけがわずかに速まった。

その一言を聞き流せず、俺は言葉を返した。


「どうして、エピメスのことを?」


代わりに答えたのはルナだった。


「パンドラを連れ去る作戦はエピメスの伝言だったの。もし自分が捕らえられても、助けに来ないでほしいって。その代わり――自分を囮にしてパンドラを捕らえて深淵封鎖の間へ連れて行ってほしいと……眠りの病を詳しく調べてほしいって」


思わず足が止まる。


「……どうして、そんなことを?」


ルナは一瞬、言葉を選ぶように視線を伏せた。


「エピメスはパンドラを幼い頃から知っているの。それなのに、パンドラだけが覚えていないなんて、おかしいわ」


「はぁ?でも、パンドラはエピメスに会った時、初対面みたいな反応だったぞ」


その言葉に、ルナの表情が曇る。


「……だからこそよ。もしかしたらパンドラ自身も気づいていない――記憶が抜け落ちている可能性があるわ」


「記憶が……消えてるって事か?」


歩みを再開しながら、頭の中でばらばらだった出来事が一つの結論へと収束し始める。

エピメスが自分の身を危険に晒してまで、あえてパンドラに近づいた理由が、ようやく輪郭を持ちはじめた。

今の彼女が自分のことを覚えているのかどうか――それを確かめるためだけに、あいつは近づいた。

ノマディアの教会地下で起きた、あの異変。

あの場でエピメスはパンドラの内側に「別の何か」が潜んでいることに気づいていた。

パンドラが目を覚ましてからもエピメスの関心は終始、彼女の状態に向けられていた。

体調の変化を執拗なほど気にかけ、『浄化の儀』を行うと言って、フィトリアまで同行したのもパンドラに起きている変化の原因を探るためだったはずだ。

本来なら帝国の人間としてパンドラを殺すべき立場なのに、地下で流されかけた彼女を命がけで助けようとした。

――だが、その時の俺にはその理由が分からなかった。


……最初は、ただの潜入任務だと思っていた。

だが、違う。

――エピメスはパンドラを殺す気などないと言っていた。

だが、このやり方では自分の正体が魔影軍だと知られた瞬間、弁明の余地すらなく殺される可能性の方が高かった。

賭けにするには危険が大きすぎる。

結果として、ルナにパンドラを連れ去らせる策はパンドラをも紙一重の立場へ追い込んでいた。

一歩でも歯車が狂っていれば帝国に捕らえられた時点で処刑されていても何ら不思議ではない状況だ。


それでもエピメスは、すべてを承知の上でパンドラに近づき、自分が動けなくなった後はルナたちに彼女を連れ去らせた。

何故だ。何故、そこまでしてパンドラに執着する。


――その理由は一つしかない。

エピメスの目的は最初からパンドラの失われた記憶を取り戻すためだ。


そこまで考えが及んだ時、通路の先が騒がしくなった。

深淵封鎖の間の前で誰かが兵士ともめている。

声を張り上げている男――ラザロだった。


「パンドラはどこだ!あの女を殺せば煌月家は終わる!なぜさっさとやらない!俺が――俺がやる!」


「駄目です!ティモーリス様の命令です!ここは誰も――」


遮るようにティモーリスが低く言った。


「ラザロ。……何の真似だ。命令を忘れたか」


ラザロは勢いよく振り返り、声を荒げる。


「ティモーリス様こそ、なぜ処刑しないのです!煌月家の当主を捕らえたんですよ?今ここで殺せば帝国の勝利でしょう!」


ルージェが一歩前に出て、強く言い放つ。


「黙れ、ラザロ。事態は貴様が考えているほど単純ではない。誰か、この男を連れていけ」


だが、ラザロは兵士を振り払い、無理やり間へ踏み込もうとする。

その肩に俺は手を置いた。


「よう」


「なっ……お前は人の女に手を出す女たらしクソ野郎……」


「誰が女たらしクソ野郎だ!」


――ズドン!

反射的に拳が出た。

鈍い音と共にラザロの身体が壁に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちる。


ルージェが兵士に命じた。


「連れていけ。拘束しろ」


「はっ!」


ラザロが運び出されるのを見送り、俺はルージェへ視線を向ける。


「……あんた、パンドラには死罪を与えるべきだって言ってたよな。それでも、さっきは止めてくれた。ありがとう」


ルージェは一瞬だけ視線を逸らし、低く答えた。


「……話し合いで状況が変わるのなら、それに越したことはない。本当に変わるのかどうか――この目で確かめさせてもらう」


試すような視線が俺を貫く。

――その言葉の裏にルージェの複雑な感情が透けて見えた。

パンドラへの憎しみは本物だ。だが、ラザロのような単純な復讐心とは違う。

その言葉を背に俺たちは再び深淵封鎖の間へと向かった。


扉を開けた瞬間、空気が違うと分かる。

中央では、アミラ、ダビネ、エバーの三人が結界を維持し続けていた。

その様子を見渡し、ティモーリスが短く指示を出す。


「このまま結界は維持する。だが、パンドラが眠っている間は出力を落とせ。反応だけを確認しろ。一人で十分だ。二人は下がれ。交代で続ける」


無駄のない判断だった。

三人は互いに顔を見合わせ、何も言わずに頷く。

ダビネとエバーが、かざしていた手をゆっくりと下ろし、こちらへ歩いてくる。

その距離が縮まった時、ようやく俺は異変に気づいた。

二人の腕と脚――人の形をしているはずのそれが、淡い緑に染まり、細かな蔦や葉脈のような模様を浮かべている。

皮膚というより植物が人の形を借りているように見えた。


「ルナ……この人たちって、もしかして……」


声を落として問いかけると、ルナは小さく頷いた。


「ええ。アルテミスハースト城で人の形へと変えられ、今の姿になった森の精霊たちよ」


思わず息が漏れる。


「……まじかよ。じゃあ、なんで帝国のアジトにいるんだ?」


「オーウェンが説得したの。アルテミスハースト城から連れて来られた彼女たちを。戦わずに、話し合いだけで」


一瞬、言葉を失った。

話し合いだけで?それが本当に通じる相手だったのか?

疑問は浮かんだが、すぐに振り払う。

今は考えるべきことが多すぎる。


――だが、ふと思う。

ルージェが俺の頼みをあそこまであっさり受け入れた理由。

もしかすると、その裏にもオーウェンの存在があったのかもしれない。


◇ ◇ ◇


それから、どれほどの時間が過ぎたのか。

深淵封鎖の間の内部はすでに闇に沈み、灯りだけがぼんやりと揺れていた。

沈黙の中で微かな変化が起きる。

パンドラの指先が、わずかに動いた。

次いで、まぶたが震え、ゆっくりと開かれる。


「……」


焦点の合わない瞳が天井を彷徨い、やがて横へと動く。

その視線が俺と重なった。

胸の奥が、静かになる。


「……起きたか、パンドラ」


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