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『異界樹物語』  作者: 大井翔
第三章

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第147話 温もりの箱と魂の壺

黒ずんだ木で組まれた箱が部屋の中央に据えられている。

石壁に囲まれた室内はひやりと冷え、誰も声を発していないはずなのに互いの息遣いだけがやけに近く感じられた。

パンドラは、ためらいなく一歩を踏み出した。

裾が擦れるわずかな音が、この静寂では不自然なほど大きく響く。


「おい、パンドラ。本当に開けるのか」


気づけば声が出ていた。

止めたいのか、確かめたいのか、自分でも分からないまま。

彼女は歩みを緩めることなく、穏やかに答える。


「もちろんですわ。父が残した箱ですもの。わたくしが開けるべきですわ」


「災いが起こるって言ってただろ」


俺は視線をジェラントスへ向ける。


「あの中に何があるんだ」


「……私にも分かりません。ですが旦那様は決して開けてはならないと、強く仰っておりました」


パンドラが振り返り、ルナを見る。


「ルナ。あの鍵を、わたくしに」


「え、うん」


差し出された鍵がパンドラの掌に収まる。

その瞬間、ジェラントスの目が大きく見開かれた。


「……その鍵を、どこで手に入れられたのですか」


かすかに震える声。視線は鍵から離れない。

パンドラは答えず、箱へ向き直る。


だが、差し込む場所がない。

側面も、裏も、底も――どこにも鍵穴は見当たらなかった。

ルナが困惑したように鍵と箱を見比べる。


「え……?鍵で開けるんじゃなかったの?」


パンドラは箱に指先を当て、わずかに目を細めた。


「……どうやらこの箱は魔力で封じられているようですわ」


パンドラは鍵をルナへ返すと、箱の上へ静かに手をかざす。


「わたくしの魔力で反応するかもしれませんわ。ルナ、少し下がっていてくださいませ」


掌から、ゆっくりと魔力が流れ出す。

空気がかすかに震え、室内の温度がわずかに変わる。


次の瞬間――箱が淡く光を帯びた。

強い光ではない。

けれど確かに、内側からにじみ出るような光だった。


やがて、蓋が音もなく持ち上がる。

その動きはあまりにゆっくりで、まるで中にあるものを外気に触れさせまいと、箱そのものがためらっているかのようだった。

呼吸さえ遠慮するような静けさが室内を満たす。

箱の中をのぞき込んだルナが思わず息を呑む。


「えっ……これは……」


「……ええ」


そこに並んでいたのは、玩具。

縫い目がほどけかけた布人形。

幼い筆跡で描かれた、三人が並んで笑っている似顔絵。

肩を寄せて写る家族の写真。

そして――丁寧に結ばれた、母の長い髪。


箱の中にあったのは、パンドラが両親と過ごした時間そのものだった。


パンドラの呼吸が止まる。

視線はそこから動かない。


指先が、おそるおそる布人形に触れる。

触れた瞬間、胸の奥で固く閉ざされていた記憶が音もなく開いていく。

小さな手で抱きしめて眠った夜の温もり。

母にほつれを直してもらいながら何度も遊んだ昼下がりの匂い。

父に高く持ち上げられ、声を上げて笑ったあの瞬間。


「……わたくし……全て、覚えておりますわ……」


言葉が震える。

似顔絵を手に取った瞬間、視界が揺らいだ。

膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。

絵の中の自分は、今よりずっと幼く、歯を見せて笑っている。

左右で父と母が同じ顔で笑っている。


「あ……あぁ……」


喉の奥から声にならない音がこぼれた。

ぽたり、と似顔絵の上に涙が落ちる。

にじんだ線が、さらに滲んでいく。


「どうして……どうして、忘れていたの……」


誰に向けたわけでもない言葉が、かすれて落ちる。


写真に手を伸ばす。

そこに写る父の手は、幼い自分の肩を優しく抱いている。

母の表情は安心しきった微笑みでこちらを見ている。

その視線から目を逸らせなかった。


「わたくし……こんなに、愛されていたのに……」


涙が頬を伝い、顎先から次々と落ちていく。


「もっと甘えたかった……もっと話したかった……もっと、そばにいたかった……」


言葉が崩れ、嗚咽へ変わる。


「お別れも言えていないのですわ……何も……何も……」


写真を胸に抱きしめる。

まるで、もう一度その腕の中へ戻ろうとするかのように。


そのとき。

写真の裏に貼りついていた一枚の手紙が、ひらりと床へ落ちた。

パンドラは、その手紙を拾い上げる。

紙は白紙だったが、パンドラが魔力を灯すと文字が浮かび上がって来た。

ゆっくりと息を整え、手紙を見つめる。


それは――父の遺言だった。


――――――


パンドラへ


この手紙をお前が読んでいるということは、私はもうお前の前に立てないのだろう。

まず最初に父として謝らせてほしい。

お前から大切な記憶を奪ったのは私だ。


あの日、私は選ばなければならなかった。

お前の命か。

お前の思い出か。


私は迷わなかった。

迷う資格など、父である私にはなかった。

お前を失うことだけは、どうしても耐えられなかった。

お前がどれほど私たちを慕い、母の膝で眠り、私に向かって笑っていたかを私は誰よりも近くで見ていた。


だからこそ記憶を消す決断は私にしか出来なかった。

お前には生きてほしかった。

苦しまないで前に進んでほしかった。

だから私はお前の中から私たちを消した。

それは父として決して許されぬ罪だ。


恨んでくれてもいい。

許さなくていい。


ただ一つだけ信じてほしい。

私と母は誰よりもお前を愛していた。


箱の中に入れたのは思い出ではない。

お前が愛されて生きていたという事実だ。

それだけは、いつか必ずお前に返したかった。


ネクロスを処刑したあと、忠誠を誓っていた者たちが水面下で結束し、反乱を起こした。

矛先は私ではなく、お前に向けられた。

彼らはお前の体をネクロスの器として担ぎ上げようとしたのだ。


私はそのとき、初めて恐怖を知った。

当主としてではなく、父としての恐怖だ。

だが、家族で過ごした記憶を消せば、お前の中のネクロスへの恐怖も消える。

その恐怖こそが、お前を器にする条件だった。

強い恐怖は魂に隙を生み、異質な存在が入り込む。

条件が失われれば、あの者たちの企みは成立しない。

お前は煌月家の当主として生きられる。

それだけが、お前を守れる唯一の手段だった。


お前から、母の温もりを。

私の声を。

家族の時間を。

すべて奪った。


そして、お前をここまで追い詰めた者たちの名を、ここに記す。

これが、ネクロスに忠誠を誓い、お前の人生を奪おうとした者たちの名だ。


もしこの手紙を読んでいるなら、お前はもう、真実に耐えられる強さを持っている。


どうか、憎しみに飲まれないでほしい。

お前は復讐のために生きる必要はない。

お前は幸せになるために生きてほしい。


パンドラ。

私の自慢の娘。


お前に寂しい思いをさせたこと。

お前から母の温もりを奪ったこと。

お前から父の記憶を奪ったこと。


本当に、すまなかった。


それでも、どうか生きてほしい。

私たちは最後まで、お前を誇りに思っていた。

そしてこれからも、それは変わらない。


私は、あの日の選択を後悔していない。

たとえお前に恨まれたとしても。


お前が生きている限り。


父より。


――――――


パンドラは、手紙をそっと胸に当てた。

紙越しに伝わる重みが、まだ残る涙の熱と重なって、しばらくその場から動けない。


ルナが、ためらいがちに声をかける。


「パンドラ……大丈夫?」


パンドラは顔を上げる。

目元は濡れているのに、その声は不思議なほど澄んでいた。


「わたくしの記憶を封じたのは……わたくしの父だった……ルナ、わたくし、やらなければならないことがありますわ」


ルナは手の中の鍵を見る。


「でも、この鍵は何だったのかしら。ノソファエルは、この鍵でパンドラの箱を開けてって言ってたのに」


次の瞬間だった。

その鍵が風を切るような速さでルナの手から弾かれた。

気づいたときには誰かの手に握られている。


「……え?」


視線の先。

そこに、鍵を握ったパソニアが立っていた。


「なっ……パソニア?どうしてここに?」


パンドラの瞳がわずかに細められる。

次の瞬間、掌から黒い炎が噴き上がった。

炎は一直線に走り、パソニアを包み込む。

悲鳴が石壁に跳ね返る。


それでもパソニアは燃えながら腕を振り抜いた。

その口元は、痛みに歪みながらも笑っていた。

鍵が宙を描き、ジェラントスへ向かって投げられる。


不自然な軌道だった。

まるで、鍵そのものがジェラントスを目指しているかのように。


ジェラントスを拘束していた守衛軍の二名が見えない力に引きはがされ、壁へ叩きつけられる。

魔力の鎖が弾け飛ぶ。


「……なっ、何を……」


鍵を受け取ると、ジェラントスは一瞬だけこちらを見た。

迷いを断ち切るような――それでいて、どこか怯えを押し殺した目だった。

次の瞬間、背を向け、来た道を駆け出す。


「待って!」


そう叫ぶより早く、ルナは駆け出していた。

何も言わず、その背を追う。


「何が起きてるんだ?」


「わたくしにも分かりませんわ。ですが、追いましょう。ジェラントスを、そしてルナを」


踏み出そうとした瞬間、視界が白く弾けた。


――閃光魔法。

振り向くと、パソニアが全身を炎に包まれたまま立ち上がっていた。

衣服は焼け落ち、露わになった肌は赤く荒れている。


「ここは……通しません」


黒い炎を引きずるように、こちらへ突進してくる。


「どうして、そこまで――!」


身体が先に動いていた。

回転の勢いを乗せた蹴りが、側頭部へ叩き込まれる。


「邪魔すんな!ハリケーン スイング キック!」


パソニアは吹き飛び、石床を滑って倒れ込む。


「天空、急ぎましょう」


「分かってる!」


だが、部屋を出ようとした、その出口に影が立ちはだかった。


煌月守衛軍、軍団長――タナエル。


「タナエル、そこをお退きなさい」


「……パンドラ様、今回ばかりは御命令をお聞きできません」


「邪魔だって言ってんだよ!」


拳を叩き込む。

だが、タナエルの反撃がそれを迎え撃つ。

咄嗟に身をずらすと、背後で石が砕け散る音が響いた。

かわしたはずの拳圧だけで床が抉れた。


「……こいつも魔力で身体を強化してやがるのか」


その隙にパンドラがタナエルの懐へ入っていた。


「無駄です。パンドラ様。あなたでも、私の防御魔法を突破するには時間がかかります」


「あら、そうかしら?」


パンドラの声は穏やかだった。


「でも――あなたの足元、もう燃えておりますのよ」


「なに?」


視線が下がる。


その瞬間、床から黒い炎が噴き上がった。

逃げ場なく、タナエルは炎に包まれる。


「急ぎましょう、天空。ここで時間を使っている場合ではありませんわ。煌月守衛軍の皆さま、ジェラントスを追いなさい」


「了解です、パンドラ様!」


廊下へ飛び出す。

通路に足音が反響する。

角を曲がった先、筒状の昇降室の前にルナが立っていた。


「止められなかった……あの執事は、これに乗って上の階に行ったわ」


ルナの声は悔しさを押し殺していた。

視線の先には筒状に上へ伸びる転送装置。

まだ、かすかに光が残っている。

パンドラは短く頷く。


「分かりましたわ。ルナ、天空。わたくしにつかまってくださいませ。上の階へ転移いたしますわ」


俺とルナは同時にパンドラの背へ手を添えた。


「――テレポロス メタバシス」


低く澄んだ声とともに足元へ淡い光が広がった。

それは円を描き、瞬く間に紋様を形作る。

空気が揺らぎ、次の瞬間、景色が入れ替わる。

視界が定まったとき、俺たちはすでに上階へ移っていた。


「ジェラントスの姿が見えない。どこへ行きやがった」


辺りを見回しながら言うと、パンドラは迷いなく廊下の奥を指す。


「あちらの方からジェラントスの魔力を感じますわ。わたくしについて来てください」


俺とルナはすぐにその背を追った。

通路を抜け、物置のような薄暗い区画へ入る。

古びた棚や木箱の奥に不自然なほど厳重に呪符が貼られた扉があった。

だがその扉は、すでに開かれている。


ルナが足を止める。


「この場所……ノソファエルの魂を封じた部屋に似てる……嫌な予感がするわ」


パンドラの横顔が、わずかに強張る。


「急ぎましょう」


中へ踏み込むと空気が一変した。

長い間、誰にも触れられていなかった沈黙。

奥へ進むと視界が開け、祭壇のような造りの場所へ出た。


その中央にジェラントスの背中があった。

祭壇の奥に埋め込まれた収納部へ、鍵を差し込んでいる。


「ジェラントス!」


呼びかける間もなく、鍵が回された。

かちり、と乾いた音が響いた直後、辺りが白く染まる。

光――封印が解けた瞬間だった。

やがて光が引く。


ジェラントスは、ゆっくりと両手でそれを取り出した。

古びた土色の壺。

口は分厚い呪符で幾重にも封じられ、紙の端がかすかに震えている。

その壺を目にした瞬間、パンドラの声が掠れる。


「まさか……あれは……」


ジェラントスは壺を胸に抱いたまま、静かに言った。


「この壺に封印されているのはネクロス様の魂……」


ゆっくりと振り向く。

その表情は、もはや老執事のものではなかった。


「ようやく……ようやく、この時が来たのです」


「何を言っているのですか。わたくしの父に仕え、わたくしに仕えてきたあなたが、なぜそのようなものを」


「仕えていた?違いますよ、パンドラ様」


その目は信仰者の目だった。


「私はずっと、ネクロス様に仕えていたのです」


空気が凍りつく。

ルナが息を呑み、俺は思わず一歩踏み出す。


「ふざけるな。じゃあ今までパンドラと一緒にいたのは何だったんだ」


「私はずっと待ち望んでいたのです。ネクロス様が再びこの世に還る時を。肉体は焼かれました。ですが魂は、不滅」


「父は……兄の魂が消えていなかったと知っていたのですね。だから封じた……」


「ええ。そして、恐れてもいた」


ジェラントスの視線がパンドラへ向けられる。


「あなたの中から恐怖が消えてしまえば、魂はあなたを器にできない。旦那様はそこまで理解していた。それで、あなたの記憶を封じたのです」


「では、なぜ今さら封印を解こうとするのですの」


「理由は一つ……ネクロス様こそが、正しき煌月家の当主だからです」


ジェラントスは壺を持ち上げる。


「あなたは全てを思い出してしまった。記憶も、恐怖も、全てが戻っている」


ルナが叫ぶ。


「やめて!それを開けたら――」


「もう遅いのです」


ジェラントスは壺の呪符に手をかける。


「記憶が戻った今、あなたの器としての条件は再び揃った」


呪符が一枚はがされる。

俺は祭壇を駆け上がる。


「やめろ!」


「あなたには、止められない」


二枚目がはがれる。

壺の中から冷たい気配が漏れ出す。


「さあ、思い出してください。あの時のネクロス様に感じた恐怖を」


最後の呪符に、指がかかる。


「やめろおおおぉぉぉ!」


最後の呪符が、はがされた。

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