6.
ココネが自宅に来た次の日。月曜日の朝、蒼太は大学までの道を歩く。
――いやはや、朝から大変だったと。今朝を振り返って彼は思う。
何せ、起き抜けから事件が起こったのだ。目を覚ませば、自分の腕の中には裸のココネ。寝ぼけた頭で、あまりにもあり得ない状況からしばらく夢かと疑ったその状況。それが違うと理解したのは、彼女が目を開けた時である。
どうやら昨日の夜、誘いをかけてきた時には既に裸だったようで。暗闇で全く確認できず、そのまま添い寝を決行したとの事。そうとは知らず、起き抜けに裸身の彼女を目の当たりにした蒼太はパニックに陥ったというのが事件の内容である。
「ふわぁ……」
兎にも角にも、そんな一悶着があって、朝食を食べ、今に至る。
それ以前に、はっきり言って寝不足。中々寝付けず、しかも今朝もいつもよりも早めに起きてしまったために、蒼太はあくびが思わず出てしまう。
しかし、意外と動く気力はいつも以上に出ていた。なぜなら、ココネが朝食を用意してくれたからである。
普段なら、面倒臭くなって適当な菓子パンと水で済ませていたのを。朝から、バランスのしっかりとれた食事を取れたおかげで、身体を動かす分には不足の無い状態となっていたのである。
高い買い物だったのは間違いない。しかし、たった一日で、その価値がどれほどリーズナブルだったのかを蒼太は理解する。あの機能を使う以外でも、これほどありがたい存在だとは思ってもみなかった。
ただ現状の問題は、歩くのをやめて座り込んだら眠気が帰ってくるんじゃないかと言う懸念だった。やはり、睡眠不足までは食事どうこうでは解決しない。
そうして辿り着く、一コマ目の講義のある講義室。入り、適当に空いている席を見つけてそこへ向かった。
窓からは、遠方に位置する山や深い森林がよく見える。その麓は所謂“樹海”と呼ばれるもので、自然豊かな場所にあるこの大学の外の景色は、色々と乱れた精神への良い清涼剤かもしれないと蒼太は思う。
そんな光景を視界に入れながら向かう席。その席は、正面の入り口から見て右側。前後位置から概ね真ん中の位置。講義までまだ15分ほどあるので他にも空いている席はあるのだが、蒼太はなんとなくその場所を選んだ。
強いて言えば、高校生の頃の印象をそのまま引きずっているから、と言うべきか。前は近すぎ、後ろは遠すぎ。しかし教師――この場合は教授だが、その目線が頻繁に行かないであろう横にずれた位置。
所謂目立ちにくい席というヤツで。蒼太の席選びも、その延長線上にあるものだった。
席に腰掛けた蒼太は、教授が来るまでの時間を、腕に付けた“ホログラフリング”をいじりながら時間を潰す。寝てしまわないための抵抗でもある。
手首に巻き付けられた帯から展開される、掌程度の面積のホログラフスクリーンを操作。妹から連絡が来ていたので軽く返信してから、ネット検索を始める。
思いついたままに文字を入力。熱意10%程度の気分でLSRについてを調べる。
内容は、セクサロイドタイプを購入したヒトは、そのLSRとどう付き合っているのかというもの。他一般大衆がどのようにしているかが、ちらりと気になったのだ。
日常生活は大分と助かることが分かった。しかし、例の機能をまだ蒼太は使う気になれない。そればかりか、ココネの一挙手一投足に惑うばかり。このままでもまあいいかと言う気持ちとは裏腹に、でもやっぱり、という複雑な気持ちもやはりあるのだ。
ただ、内容が内容であるために、周囲の意識に対してはいつもより過敏になっていた。学内の学生など、ほぼ全てが赤の他人のようなものだが、知り合いであろうが無かろうが、自分の性的な事情に関する調べ物を見られるのはあまりにも恥ずかしい。
「(――それができれば苦労しないよ)」
一つ目に出てきた購入者の話は、蒼太とは無縁のものだった。買ってすぐにベッドへ直行、そのまま試すという、よくぞできたものだと妙な呆れと微妙な忌避感を覚える内容である。統計上78%は伊達ではない、というのがよくわかる側面も、その記事からは感じられる。
もう少し潜ってみると、今度はLSRのそういった機能に対する批判的な考えも含まれてくる。やれ人口減少の加速だの、とうとう機械に生態系の頂点を奪われる時が来たという皮肉だの、あまり役立ちそうな話は見当たらない。
むしろ、自分と似た話が出てこないと、今の自分の状況の方が異端なのではないかとさえ、蒼太は思えてくる。もしかすると自分は、かなり異端な方なのかもしれない。
と、やんごとなき事情に、顔を引きつらせているときだった。
自分の隣。椅子を一つ空けて右側に座る人物の気配を感じた。蒼太は慌てて画面を消す。
「(――なんか、凄く派手なヒトだな)」
ちらりと見えたそれは、所謂パンクファッション、と呼ばれる衣装だった。黒色のダメージニットに、赤基調でチェック柄のプリーツスカート。そこからスラリと伸びる足は黒のニーハイソックスが履かれ、それをチェーン付きのガーターで留めている。
そんな人物が腰掛けたとき、ふわりと香りが舞う。シトラス系の香水の匂い。内向的な自分とは済む世界の異なる女学生の気配。そんな人物と思わず目が合い、蒼太は思わず反対方向へと視線をやる。なんか怖いし。バッグも派手だし。
しかし、同講義にこんなヒトも居たんだなと蒼太は思った。当講義に参加したのはもう幾らかになるが、彼女のような黒くトゲトゲした人物を初めて見た。今まで全く違う場所に座っていたのだろう。こういう派手な装いが許されるのは、私服で通う大学らしさがある。
調べ物を中断させられたため、蒼太は時間を確認する。講義開始まであと2分。既に前には教授がやってきており、講義の準備を始めている。
――自分も準備をしよう。そう思い、蒼太はバッグから講義に必要なノートやペン、資料を取り出し始める。
そうして始まった講義。そうしていつしかその時間も、半ばにさしかかり始めていた。睡眠不足にもかかわらず蒼太は、寝落ちせずに前を向き。その様は、模範的な大学生そのものに見えた。
が、その内実は、とてもエラいとは言えるものではない。こんないかにも聞いていますという態度を取っておきながら、その実、話は右から左へと抜けて行っているのである。
「(――なんだか落ち着かないんですけど……)」
原因は、先ほど隣に座った女学生だった。
目を引く格好の誰かが近くに居る、というのは、それだけで集中を削ぐ要因になる。未だ正確に顔も見ていない――強いて言うなら、ウルフカットの黒髪に青と赤のメッシュを入れていて、黒いマスクをしているという事が分かる程度の相手。
しかしそんな、蒼太にとっては非日常なイキモノが座っている。それだけでも、講義への集中を邪魔するには充分なのである。
それは、陰キャならではの恐怖感、のようなもの。――それが寝落ちの危険を防いでいるのは皮肉としか言いようが無いが、とにかく今は、彼女の事が気になって仕方がなかった。
だが、それだけならまだ大した問題にはならない。いかにそれが集中を削ぐ要素といっても、ある程度経てば少しは慣れるもの。例え完全に無視できるとまではならずとも、しばらくすれば講義を聴く余裕は出てくるものだ。――しかし、である。
「(何? 何なの……?)」
この女学生。さっきからチラチラと、蒼太の方を見てくるのである。気にしているので、目の周りにも化粧を施した彼女の目と目が合いかける。合いそうになって、慌てて逸らしたのはもう何度目か。まるで変則ルールのあっち向いてホイをしているかのようだった。
何故、こちらを見てくるのか。――正直、蒼太は原因の推測ができていた。こちらが見過ぎたのだ。
きっと、あちら側もこちらの視線に気がついたのだろう。だから、まるでガンを付けるように何度も見てくるのだと推測する。
正直、これは良くないと思う。講義の終わった後に、妙な言いがかりを付けられてもおかしくはない。距離を離したいところだが――生憎これ以上奥へは行けない。と言うか、今移動したら移動したで、余計に気まずいだろう。
「…………」
なので蒼太は、これ以上自分から視線を投げることの無いように、身体を左に傾けた。そうすれば、首を大きめに右へとひねらない限り、そちらへ視線をやることはない。
そもそも視線が行ってしまうのは、目だけで見る事のできる位置に相手が居る状況だからだ。ならば、それを根本的に変えればいい。
そうやって講義中を乗り切った後は、ダッシュで講義室を出るのだ。そうすれば声をかけられる事も無い。脱出の展開もきっちりプランニングしながら、蒼太はその時を待った。
――だが、その計画もすぐに虚しく破綻する事になる。
「――?」
自分のノートの上に、一枚の紙が滑り込んでくる。可愛らしいピンク色の、メモ用紙一枚。それが、舞ってしまわないよう綺麗に畳まれて蒼太の目の前に現れた。
思わず、蒼太はそれが来た方向を見る。すると、さっきの女子学生がこちらを横目でチラチラ見ているのが分かった。
その視線は、紙を開けて中身を見ろと言っているようだった。――アイシャドウを施した目から刺さる視線は、どことなく恐怖を覚える。
――蒼太は、恐る恐る紙を開いてその中を確認した。
『あなたは こもだそうた くん? 六柯子幼稚園に昔通ってたりする?』
それは、蒼太が“かつて通っていた”幼稚園の名だった。
流石に蒼太は、驚きと共にばっと相手を振り返った。相手の女の子の、赤いカラーコンタクトの入った目と自分のドノーマルな目が合う。すると彼女は目元を少しだけ微笑ませていた。
その微笑みは、その外見から来る印象のどこから出てきたのか、と言わんばかりの柔らかいものだった。それが、髪をかき上げたときに見えた厳つい量の耳のピアスとすさまじいギャップを生み出し、蒼太を混乱させる。
しかし。蒼太の知り合いに、こんな派手な女の子はいない。そもそも、妹やココネ以外の女の子と話した事など、これまでほとんど無いのだ。
「(君は誰……?)」
蒼太は困惑のままに先ほどの紙にそう記入して、女の子の横にそっと返した。――ミスって落としたくなかったので、右手を伸ばして丁寧に、しかしこっそりと返却する。
――少しして。女の子が記入。今度は彼女も同じように、手を伸ばしてメモ用紙を蒼太の前に滑らせながら置いた。
「えっ」
そこに書かれた名前を見て、蒼太は思わず驚愕の表情と共に女の子を見た。
今度はしっかりと眼が合った。涙袋とアイシャドウが印象的で、黒髪に青と赤のメッシュを入れている女の子が、目元に情感を込めて微笑んだ。
紙には、『蓮川 心音』と書かれていた。




