3.
廊下。お手洗いへと先導するココネを、愛香は止める。
「一先ず、この辺でいいでしょうか」
「? お手洗いはもう少し先よ?」
「言葉の綾、と言うものです。今は、一人にして差し上げた方がよいと思ったものですから」
「つまり――トイレには行く必要は特に感じていない、と言う事でいいのかしら?」
ココネが振り返ってそう聞くと、愛香は苦笑いに悲しみの表情を少し混ぜて頷いた。
彼女は、廊下の端に置かれている長椅子に腰掛ける。そんな愛香の表情を見て、ココネは少し思案した後、その隣に腰を下ろす。
「何か言いたそうね」
「そう思っても、まずは世間話から始めるべきではないでしょうか……」
ココネは苦笑を返されてしまうが、自分にそういった間の求め方はしないで欲しいと思った。人間のように、会話の空気を整えるのはあまり得意としていないからだ。
「――でも、そうですね。聞いていただけるのであれば、とてもありがたく思います」
尤も、それを愛香側も理解しているのだろう。最初の一言だけで、それを特に咎めようとする様子は見受けられない。
「その話を聞いても、返してあげられる言葉の内容は期待できないかもしれないわよ?」
「人間と共に在るために作られたのにですか?」
「アナタも知っているでしょう。会話はできても、完全に同調できるわけではないわ」
ココネの中で、先日の名前の件が想起される。最終的には蒼太との関係を回復するに至ったが、そもそもの考え方の根本的な食い違いがなくなったわけではない。
「いいのですよ。人間同士だって、相手の事を100%理解できるわけではありませんから。大事なのは、相手のことをいたわり、慮る気持ちです。今、あなたがわたくしの話を聞いてくださろうとしてくれているとおり」
「ワタシは……」
ただ、そういう形に作られているだけだと、ココネは思った。自らの行動の全てが、人間のためにエンジニアに与えられたものだ。
しかし。恐らくそれを口にするのはこの場において適切ではないだろうと判断する。空気を読む、という明確な概念の存在しないそれでも、彼女には実行する事ができる。
「わたくしが、本当はお兄様を恨んでいるだろう、と言った話。ココネさんは、どう思われたでしょうか?」
――ココネの思考を司るプロセッサが、愛香の言葉の内容を処理していく。
「少なくとも、アナタが彼に負の感情を抱いているとは思えないわね」
彼女の気をそれで軽くする事はできないであろう事を承知で、ココネはそう返す。旧型の自分には、それが精一杯である。
「ええ、勿論です。感謝する事こそあれど、恨むことなんてあるはずもありません」
そうだろうともと、ココネは当たり前の返答を聞き取った。高性能のAIが搭載されているといっても、会話の広がりを作れる程の能力も経験も無い。
だから――代わりに、そう述べる愛香の行動について、自分の疑問を述べる事にする。
「むしろ、過剰なくらいではないかしら。少なくとも、このくらいの年齢の一般的な兄妹の関係性としては、少々執拗な様子を感じるわ。それも、アナタ側からが特に」
無論、これらのデータはLSR全タイプ共通で使われる汎用コピーに過ぎない。単なる個人差で片付けられる範囲とも考えられるが、少なくともココネ自身はそう判断した。
「――そう、ですね。周りの方々と比較すると、少々過剰気味であるかもしれません」
だが。その、証明としてはいささか足りない所感的認識は、当人も明確に理解していることであったらしいと、ココネは分析する。
「ですが、わたくしの心は、過剰だとは思ってはいないのです。だってこれは、わたくしなりのお兄様への、愛情返しなのですから」
「愛情返し……?」
“愛情返し”、という言葉は世間一般的な言葉ではなく、明らかな造語だった。しかしココネは、言葉面から、彼女がある程度言いたい事を理解する。
「――わたくし、今はこのように健常なのですけれど、幼少期はとても病弱だったのです。父はその頃にはおらず、母も入院中で。母方の祖父母に兄共々引き取られていましたが、わたくしもわたくしで、しょっちゅう入院を繰り返すような、そんな女の子でした」
想像ができない、というのはこのような事をいうのだろうと、ココネは思った。174cmの身長と平均よりも高い運動能力を持つ今を思えば、そのような時期からこれほどにまで成長できているのは素晴らしいとしか言いようがない。
「でも、全然辛くなかったんですよ。すぐに体調を崩して、そのために中々友達もできず、入院ばかりで自由もそんなに無かったのにもかかわらず。どうしてだと思います?」
「少なくとも、あのひとが関係していると言う事は推測できるわ」
ココネがそう言うと、愛香は優しく微笑む。彼女の笑みは、兄のそれによく似ていた。
「ええ。一番はやはり、お兄様が常に傍に居てくださった事は間違いありません。だけど、それだけではありませんでした」
「と言うと?」
「わたくしが、他を知らなかったからです」
「他を、知らない?」
知らない事がメリットになるのかと、ココネは目を丸くする。彼女の常識として、情報とは積み上げれば積み上げるほど、アドバンテージになるものだ。
自らの情報不足を日頃痛感するココネにとっては、それはまさに目から鱗だった。
「きっと、他のヒトを知れば。走り回る事を知れば。恐らくわたくしは、それを強請ったでしょう。自分にはできない事を悲しみ、他者を妬んでいたでしょう。ともすれば、どうしようもないやり場のない怒りを覚え、誰かにぶつけていた事だって、あったかもしれません」
「可能性はあるわね。負の感情を覚える多くの理由は、外的要因にある場合が多いもの」
他があるから、比較が生まれる。比較し、劣っているから悲しみが生まれる。なるほど確かに、情報が必ずしもメリットになるわけではないのだなと、ココネは理解する。
「しかし、わたくしの場合は、お兄様が居ました。入院中も、自分の時間の大半を費やして――時には学校を休んでまで。怒られてまで、わたくしの元へ来てくださいました。寄り添ってくださいました。決して外のことは話さず、わたくしがその時したいこと、やりたいことに付き合ってくださいました」
そう語る愛香の眼差しは、膝の上で組み合わせた両手の指に落とされていた。指は、まるで大切なものを抱えて守っているようでもあった。
「実は、わたくしがお兄様をお兄様と呼び続けるのも、その延長だったりするのですよ? 絵本を読んで、お姫様になりたいと言って始めたごっこ遊び。懐かしい話です。召使いをしようとしたお兄様に、王子様役をしてとせがんだあの日――」
「確かに、世間一般的な兄妹の呼び方とは違うわね。ごっこ遊びの延長線を、幼少期を脱した今でも引き続けるのもまた、珍しい話だけど」
あるいは、その思い出が彼女にとってそれだけ大事なのかもしれないと、ココネは思う。自分には理解しがたい概念ではあったが、かと言って特別否定するようなものでもない。
「――それは、見ようによっては籠の中の鳥も同然だったのかもしれません。あるいは、水槽の中の熱帯魚でしょうか。広い世界を知らず、狭い温室の中で生きる、哀れで滑稽な存在。けれどもそのおかげで、わたくしはいつも心穏やかで、幸せでいられたのです」
「彼は、そこまで考えてそうしていたの? 今聞いた限りだと、少なくとも当時のあなたは、それに気がついていなかったようにも思うのだけど」
「そう、ですね……今でこそ周りからは聡い等と言われたりはしますが、当時のわたくしは、その時のそんな状況には気がついていませんでした。しかし――お兄様は、ある程度は理解しながらにして、そうしていたように思うのです」
「その心は?」
愛香は、すぐには答えない。代わりに、自身の口を人差しで遮り、他言無用を求める。これは、本来自分が知っている話ではない、と。
「――お兄様は、両親の離婚の原因は、自分にあると考えていらっしゃるためです」
「自分に?」
「ええ。両親の離婚を経て、父とは会わなくなって、母は精神を病んでしまって。そのために、妹に寂しい思いをさせてしまっている、と」
愛おしさの中に混じる、悲しみ。そこから、ココネは思う。人間のその時その時の感情は、一つの想いだけでできているわけではないのではないか、と。
一言で言い表しきれない心情を、今の愛香からは感じる。
「――発端は、お兄様が父の浮気の現場を見てしまった所から始まったようです。当時、お兄様は5歳。母と共にショッピングモールに来ていたそうなのですが、その時はぐれてしまったらしく。母の姿を探して、歩き回っていたそうです」
子供から目を離してはいけない、という的外れな事を思ったが、その発言は場違いなのは幾らココネでもわかった。彼女は、愛香の話に耳を傾け続ける。
「そうしたら、何の因果なのか、迷った先で父を見かけたそうでして。――きっと、そのショッピングモール自体、いつもより遠出した位置にあった場所なので、そういう偶然も幾らか起こりやすかったのでしょう。思いがけず父の姿を見かけたお兄様は、自らが迷子であった事もあり、大喜びで駆け寄ろうとしたそうです」
「とした、と言う事は、相手はあのひとを認識しなかった、と言う事かしら?」
「ええ。雑踏の中、父はお兄様に気がつかず、紛れていってしまったそうです。――知らない女性と共に」
離婚。直前に出ていたワードと、一般的な認識を統合し、ココネは話の概要を掴む。そしてそこから、せめてもの救いを差し伸べると言わんばかりに、可能性を提示する。
「会社の同僚、とかそういった類いではなかったのかしら?」
「どうやら、違うようでして。その女性自体が、母の知人で、よくやり取りをしていたそうなので、少なくとも同僚ではないのは確かだそうです。そして――兄は、探しに来た母と再会を果たしたとき、父がその女性と一緒に居るのを見たと言ってしまった」
「――勘違いだったとか、そういう事にはならなかったのよね? 俗的な事を言うなら、例えば、プレゼントを選んでいた、とか」
「わたくしも、母と父と、その女性の事で詳しいことは存じ上げません。ただ少なくとも、そこから、浮気騒動へと発展した、とは聞いています。そして――家庭の崩壊に至った」
僅かに言いよどむも、そう口にする愛香の言葉には、経験した者らしい重さは感じられなかった。人づてに聞いたからなのかもしれないと、ココネは推察する。当時の彼女には理解が難しく、実感がわかないのだろう。蒼太が目を逸らさせていた事もあるに違いない。
「それから、兄とわたくしは母に引き取られ、実家へ。しかし、その一件で精神を病んだ母は精神病院に入院し、と言う状況が生まれたらしいです」
「――あのひとが、自分に原因があると思っているのは?」
「もし自分があの時余計な事を言わなければ、家庭崩壊を起こすことは無かったかもしれない。母が精神を病むことは無かったかもしれない。そして――死ぬこともなかったかもしれない、という事なのでしょうね」
「死ぬ……?」
「ええ。母は、自ら命を絶ちました。――兄を、父と……自分の夫と勘違いした挙句、ただの連絡のやり取りで不倫の話がフラッシュバック。その後、首を吊った、とのことです」
「そして、そんな状況に妹であるアナタまで巻き込んでしまった。そのせいで寂しい思いをさせている、と」
ココネの言葉に、愛香は苦笑する。
「そんなの、仮に黙っていたとして。実際どうなったか、わかりっこ無い筈ですのにね」
「…………」
「わたくしは、当時のことをほとんど覚えていません。その不倫の話が真実なのか。どういう経緯だったのかも、当然知るよしもありません。でも、きっといつかはどこかで破綻してしまう事だったでしょう。避ける事のできない話だったと思います」
遅かれ早かれ。いずれは起きていたである事。愛香は、はっきりとそう言った。なるべくしてなったのだろうと、彼女は話す。
「それでもお兄様は、自分が失態を犯してしまったから。余計な事を話してしまったから、皆不幸になったと思ってしまった。それ故に、お兄様は“話さない”事を選択したのだと、わたくしは思います」
閉じ込めて知らせず。これは本来、愛香が知っている筈のない話。知っても、決して幸せにはならないと、蒼太が判断したから。だから、彼女も知らないフリをする。
「わたくしのために、一人で全部抱え込んで、身を尽くして。こんなの――少しでも愛情を返してあげたいと思うに決まっているではないですか」
「愛情……」
「ですからわたくしもまた、お兄様の幸せを心のそこから願うのです。お兄様が望むなら、わたくしは何にもなりましょう。その命の旅路に、終生まで共をいたしましょう」
それはまるで、婚姻の誓いを口にしているかのようだった。健やかなる時も病めるときも。自らの生涯を相手と共にする事を宣誓する。
そんな彼女の宣言に対し。冗談のつもりではなく。ただたた純粋に、ココネは思った事を愛香に告げる。
「――兄妹は結婚できないわよ?」
「ふふっ、お兄様にも昔言われましたわ」
愛香は、“どちらともつかない”笑みを浮かべてそう返した。どこまでがごっこ遊びか。その延長なのか。線引きはどこなのか。曖昧にした回答を述べる彼女の姿は、籠の中の鳥とは無縁の、自由な姿だった。




