2.
「お兄様ッ!!」
その部屋中に響いたであろう声を、窓の向こうから聞いたような気分とともに。蒼太は、目を開けた。
心臓が、暴れ回っている。それはさながら、檻に押し込められた小動物が、縦横無尽に動き回って外飛び出そうとしているかのようだった。しかし幸いにも格子が決壊する事はなく、徐々に落ち着きを見せているそれを蒼太は他人事のように感じる。
そうして、ゆっくりと落ち着きを取り戻しながら、彼は周囲の情報を拾い集める。
視界に映るのは、見知らぬ天井。白いプラスチックのはめ込まれた無機質な電灯と、オーガニック感の取り除かれた室内の上部。それから、その区画を囲うようなカーテンレール。幕は開かれており、他の患者の様子が、視界の端に僅かばかり見える。
――どうやら病院らしいと、蒼太は理解した。
「愛香……」
自分の手を握っている誰か。蒼太がゆっくりと顔を向けると、そこには大切な自分の妹の姿があった。
「お兄様……! よく、よくお目覚めに……!」
ベッドの傍らに座る愛香は目に一杯の涙を湛え、握る手を強くしてくる。起き抜け故か、蒼太はそれを鈍い感覚で感じながら、冷静に状況を思い出そうとする。
――今は亡き母の夢が、色濃くこびりつく中。蒼太はそれを、水を含みすぎた絵の具で無理矢理上塗っていく気持ちで、記憶を巻き戻す。
「――っ、そうだ、ココネは!? 心音は!? ……ッ、つつ、」
後頭部の痛みに、蒼太は思わず顔をしかめる。同時に戻って来る、転倒した記憶。その後の記憶が無い。
「お兄様……お兄様、まずは、落ち着いてください」
愛香は蒼太を介抱する。彼女にも大分迷惑をかけてしまったに違いないと、兄は思った。
「え、っと――俺は、どれくらい寝てたの……?」
「今の時間は――ええと、6時間ほど、ですね。脳震盪だそうで、特に命に別状の無いものと言われましたが……」
「――心配かけてごめんね」
不安に揺れる愛香の眼差しを見て、蒼太は安心させようと頭を撫でてやる。そうしてから、続きを聞く。
「――わたくしが追いついた時には、既にお兄様は転倒していらっしゃいました。その後、少し経ってから、救急隊の方が来られたのです。彼らはLSRのココネさんから状況説明を聞きながら、そうしてお兄様をこちらへ搬送してくださいました」
「そっか……二人は一先ず無事なんだね。――ん? 警察は来なかったの……?」
おぼろげながら蒼太は、ココネに対して『通報してほしい』と言った事を覚えている。
自分一人で心音の事を止められるかどうかわからなかったし、あの時は何が何でも心音を止めねばと必死だった。
――咄嗟ではあったが、そこまではすべきではなかったかもと、蒼太は思う。
しかし愛香は、首を横に振る。
「いいえ、来られる様子はありませんでした。通報されたのですか?」
「ココネにそう言ったんだよ。でも、そっか……多分してないんだね」
結果としてよかったかもしれないと、蒼太は思う。もし心音が警察の厄介になってしまったらと思うと、やりきれない気持ちになっていただろう。
どうして彼女が警察に通報しなかったのかは分からないが、蒼太は少し安堵する。
「救急車には、わたくしとココネさん――LSRの方の彼女が同乗致しました。幼馴染みの心音さんは……拒否されたので、一先ずお兄様の部屋の戸締まりをして、あとはこの病院に」
「心音は……」
「――すみませんが、その後の彼女の事は分かりません。お兄様の事で、必死でしたから」
「そっか……本当にごめんね、心配かけて」
本当に、自分は何をやっているんだと、蒼太は思う。
ヒトを傷つけて。心配させて。昔から――昔からそうだった。
「――あなた。起きたのね」
蒼太が鬱屈した気持ちで俯いていると、ココネが病室に入ってきた。病室は6人が収容できる部屋で、蒼太の病床は入り口に近い二つの内の一つであったため、すぐに彼女の姿が見えた。
「ココネ……腕……」
蒼太は、ココネの姿を見て言葉を詰まらせる。
彼女自身は平然としているものの、その両腕には包帯が巻かれていた。破れたメイド服の袖の下に、痛々しく巻かれているそれ。人工細胞が破れたためか、それにも衣服にも、彼女の生体部分である血が滲んでいる。
「少しばかり不具合は起きているけれど、機能停止には陥っていないわ、安心して。今は応急処置だけど、修理に出して貰えれば完全な修復が可能になるわ」
「そっか……大事はない、ということでいいのかな。でも――ごめんね、俺のせいで」
「――? あなたのせい?」
「そう、俺のせいだよ……」
蒼太は、自分の罪を自覚する。
本来自分は、心音と“あまり距離を近づけるべきではなかった”のである。
にも関わらず。過去好きになった幼馴染みとの再会に気を緩めてしまったのか、対応がなあなあになり、挙句デートまでしてしまった。
全ては、自身の油断が原因である。己という存在の因果を忘却し、舞い上がっていたが故の末路。それを今更ながら自覚し、蒼太は自己嫌悪に陥る。
「――顔を上げてください、お兄様」
蒼太は、叱られる子供のように肩をびくりとさせる。しかし、愛香のその声も表情も、とても穏やかだった。
「――お兄様。仕方の無かった事、だと思います。今も、昔も」
「仕方の無かった……?」
蒼太は、足にかけられている布団を握りしめる。
「仕方の無かったで、済む話じゃない……! 済む話じゃないから! 母さんも、心音もおかしくなっちゃって……ッ! ココネも、襲われて……ッ!」
しかし、決して顔は上げない。上げられるわけが無い。
「愛香だって! 本当は恨んでるんだろ!? なのに、自分は大丈夫だ、自分は幸せだ、なんて顔をして!」
「――わたくしは、幸せですよ。お兄様」
「変に気を回さなくたっていいよッ! 俺のせいで小さい頃は友達もできなかったじゃないか! なのに本人を前にして、幸せだなんて! 何で気を遣うんだよ!」
叫ぶ度に、蒼太はどんどん身体を丸めていく。誰の方も見ようとしない。誰にも顔を向けられない。相手が、どう思っていたとしても。
誰の何も、聞くのが恐ろしかった。
「お兄様……」
「…………」
「――お兄様」
愛香の声は、優しい。しかし、だからこそそれが余計に、蒼太の心を締め付ける。
「少し、お手洗いへ行って参りますね?」
「…………」
愛香の申告にも、蒼太は返事をしない。できない。今、彼女がどんな顔をしていたとしても。それを受け止める事はできない気がした。
――反応がないため諦めたのか。蒼太の耳に、愛香がココネへと呼びかける声が聞こえる。
「すみませんココネさん。どこにあるか分からないので、案内してくださいませんか?」
「――? あなたはその場所を、分かっているのでは……?」
「お願いします」
「――分かったわ。あなた、構わないわよね?」
「…………。うん……」
その場から、去って行く足音。蒼太は一人取り残されたような気持ちになる。
それを、当たり前だと思う一方、身勝手にも孤独への苦しみを覚えた。そうあるべきであるのに、そうありたくない。そんな矛盾した気持ちが、また蒼太を苦しめる。
どこまでいっても、自分は愚かで学ばない人間なのだと。囁かれている気がした。




