1.
とある、曇天の日。中学校から帰った“蒼太”は、下校後、病院へと直行していた。
他の患者の居ない個室。白を基調としたその病室に入ると、ベッドの上で上体を起こして、そのヒトは待っている。
痩けた頬の、枯れ木を思わせるその女性。
そんな彼女を目にし。
水面下に孕んだ緊張を抑えながら。
蒼太はゆっくりと――彼女の名を、呼んだ。
「“愛美”」
「“蒼介”さん!」
すると、その女性は軋むような表情の変化と共に笑った。息子である蒼太を“蒼介”と呼び。熱に浮かされた眼差しを向ける。
蒼介。その名は――蒼太の父の名前だ。
「今日の調子はどう?」
「すこぶる元気よ! 何で病院に居るのか分からないくらい!」
彼女にとって、それは呼び間違えなどではない。だから、蒼太も訂正はしない。そればかりか、母の見ている光景に即した対応をする。
この個室の中において。正常であるか異常であるかは、愛美に全て依存している。ここは、僅か14㎡の世界。そこは、彼女の脳内に描かれた概念の元に支配された、夢の国だった。
「愛美、もう少しの辛抱だからね。もう少し辛抱すれば、その内退院できるから」
「もう、蒼介さんったら。いつもそればっかり。その内その内って、そう言われて結構経っている気がするわ」
「そうかな?」
「そうよ! でも、蒼介さんがこうやって来てくれるから私、我慢できるわ!」
「そっか。…………」
――母が蒼太のことを夫の名で呼び。対し、蒼太が父を演じ続けて。もう5年近く経つ。
ここは、精神病院内にある入院病棟の個室。今日も母・愛美は、蒼太の事を彼女の夫だった蒼介と勘違いしたまま、病床にある。
しかし、蒼太は彼女の誤認を正そうとしない。息子の存在も、娘の存在もその中から消え去った母に、この病室の中で偽物の夫として演じ続けている。
疲れ切り、ひび割れた蒼太の心。そんな状況をただただ、乾いた風がなでつけるかのように受け流していく。この先、どれだけ続くかも分からないこの光景。それを乗り切るには、もはや一切の感情を排す以外に術はなかった。
――蒼太は、この地獄から逃げられなかった。これは、何より彼が招いてしまった状況に他ならなかったからだ。
「蒼介さん、散歩に行きましょうよ」
「散歩?」
「どこにも一緒に行けないんだもの。せめて、それくらいはしたいわ。いいでしょう?」
見舞いに訪れると、偶に蒼太は母にこう乞われる。
自分を夫と勘違いしている母と外に出るのは、正直心情的に厳しいものがある。しかし、それを断る権利を彼は持たない。
断る資格など、持っていない。自分が母を、このようにしてしまったのだから。
だが――その時だった。
「(……――っ!? なんっ……)」
左腕に付けているホログが、着信音を発した。
それは、あり得ないことだった。見舞いの際、自分はいつも“必ず”ホログの電源をオフにしている。“あれから”一度も確認を怠ったことはない。
着信音を聞いた母が、どのような行動をしたのかを知っているから。それを知っているから、絶対に鳴らすまいと細心の注意を払っていた筈だ。
だが何故か、鳴った。蒼太は慌てて、母の様子をうかがった。
虚のように目を見開いた母と、眼が合った。
慌ててホログの電源を切ろうとする。切れない。何度も何度も、電源ボタンの長押しを試みるが、OFFにならない。切れないまま、着信音だけが鳴り続ける。
「ダレ?」
ぽっかりと空いた、吸い込まれるような空洞が、こちらを見続けている。
「え、え、ええと、あい……会社じゃないかな?」
「ウソ」
母は、虚を見開いたまま、ベッドから身を乗り出した。
空を切る手。バランスを失った彼女は、床に転落する。その際、キャスター付きのテーブルを巻き込んで倒し、室内にけたたましい音が響き渡る。
「ダレ? ダレ? ダレ? ダレ? ソレハ――――――………………ダレ??」
「…………――ッッ!!」
演技も忘れ、歪んだ世界に対し恐怖を浮かべる蒼太。母は、まるで焦熱に焼かれた人間のように、呪わしく身体を引きずって這い寄ってくる。
蒼太は後ずさるも、すぐに行き止まる。後ろは壁。逃げ道は――……無い。
「イカナイデ。イカナイデ。イカナイデ。イカナイデ。イカナイデ。イカナイデ――……」
目から墨をこぼしながら、それは迫ってくる。
蒼太は逃げ道を探す。そしてすぐ傍に部屋の引き戸が目に入った。急いでその取っ手に手をかける。
――開かなかった。それはまるで、石でできているかのように、びくともしなかった。
「やめっ、母さ――ッ、来ないで……! 来るなッ! やめろッ!」
脱出に手間取っている間にも、母の皮を被った化け物は這い寄ってくる。そして――とうとう、その川に浮く薄汚れたゴミ袋のような腕が、蒼太の足に纏わり付く。
「イカナイデイカナイデイカナイデイカナイデイカナイデイカナイデイカナイデ――……」
「や、め――ッ! 俺は、父さんじゃ、無……ッ」
身体を這い上り、肩に掛かる腕。生臭い息と共に眼前まで迫る亡霊。
蒼太は、だんだんと飲み込まれていくのを感じた。藻掻けども足掻けども。決して逃れる事はなく、底なし沼のように沈んでいく。
地獄とは、罪人が罰せられるところなのだと言う。
であるならば、これは確かに“地獄”そのものであるように、蒼太は思えた。




