AIは少女を呼び続けるが……
ノアは、笑っていた。
巨人に拳を振り下ろされながらも。
なぜなら……
世界は歌っていた。
その美しい旋律に、ノアはうっとりとなっていた。
ただし音楽は、空気を振るわせ耳で聞くものではない。
今、校庭には、巨人となったアムアの怒号が響き渡るのみであった。
しかし、ノアには確かに聞こえていた。
木々が奏でる低い旋律。
噴水の水が刻む軽やかなリズム。
空に満ちる無数の和音。
校舎の石壁も、静かな音色を響かせている。
世界そのものが、一つの巨大な楽曲だった。
「きれい……」
ノアは思わず呟く。
その声すら音楽の一部となって空間へ溶けていった。
今ならわかる。
どうして世界が存在しているのか。
どうして魔法が生まれるのか。
どうして物質が形を保っているのか。
全ては、根源の粒子の結び付きだった。
通常の魔術師が扱う魔素。
炎の魔素。
水の魔素。
光の魔素。
土の魔素。
それらは根源ではない。
もっと下。
もっと深い階層が存在している。
地球で言えば、分子のさらに下に原子があり、そのさらに下に素粒子があるように。
この世界にも同じ構造があった。
魔素を構成する微細な粒子。
世界そのものを組み上げる最小単位。
ノアの視界には、それらが光の粒となって映っていた。
そして。
驚くべきことに。
それは物質と魔法を区別していなかった。
木も。
石も。
水も。
人も。
全てが同じ粒子から構成されている。
違うのは、その並び方だけだった。
「そういうことだったんだ……」
ノアは誰に言うでもなく呟く。
炎の魔法は炎の粒子でできているわけではない。
火という現象を作り出すように粒子が並んでいるだけ。
水も同じ。
風も同じ。
生命も同じ。
世界とは巨大な積み木だった。
そして。
シングラもまた例外ではなかった。
黒い粒子の集合。
異質な存在。
世界を侵食する災厄。
だが。
今のノアにはわかる。
シングラは外から来た怪物ではない。
自分たちと同じ材料で作られている。
同じ基盤を共有する存在なのだ。
ただ並び方が違う。
ただノアの世界の調和から外れている。
編み物だ。
そして、それを……
――ノアはほどいていた。
編まれたものなら。
編み直すこともできる。
その理解が。
あまりにも自然にノアの中へ流れ込んでいた。
危険なほど自然に。
まるで最初から知っていたかのように。
「ノア! 集中して!」
僕が叫ぶ。
僕らは、今、巨人アムアと戦っている。
校庭いっぱいに広がっていたシングラを吸収し、その姿はもはや人間ではない。
歩く災厄とでもうべき存在だ。
――この場には絶望しか存在しない。
すでに、大人たちは倒れ、誰も助けてくれるものはいない。
終末へと向かう運命に抗うのは、巨人に比べ、あまりにもちっぽけに見えるノアひとりだけなのだ。
だが……
ノアは、なんの恐怖も感じないまま、ただ不思議そうに巨人を見上げた。
「……あれも同じだ」
拳を構成する黒い粒子。
その流れ。
結び付き。
世界を構成する粒子との違いはわずかだった。
ほんの少し。
音が外れているだけ。
音楽の中の不協和音。
だから。
直せる。
ノアがそう思った瞬間。
巨大な拳が空中で崩壊した。
爆発ではない。
粉砕でもない。
百メートル級の腕が、砂の城のようにほどけて消えていく。
「なっ――」
巨人アムアの顔が歪む。
だが次の瞬間には、周りの黒い霧がさらに彼へ流れ込んでいた。
失われた腕が再構築される。
さらに巨大に。
さらに濃く。
さらに歪に。
「無駄だよ」
アムアが笑った。
その声は空全体を震わせた。
「君が倒れるまで続けるだけだ」
再び拳を振り下ろすアムア。
崩壊。
再生。
崩壊。
再生。
何度も繰り返す。
まるで巨大な波だった。
だが僕は計算していた。
校庭全域。
地下。
周辺空間。
存在するシングラ総量。
残存率。
再構築速度。
「ノア」
「うん」
「あと少しです」
残り時間。
四分十二秒。
シングラの総量も限界が近い。
あと少し削れば。
あと少しで終わる。
はずだった。
「……きれい、ああ、楽しい」
しかし、ノアが心ここにあらずという表情で呟く。
「ノア?」
「全部、聞こえる」
彼女は巨人を見ていなかった。
空を見ていた。
世界を見ていた。
いや。
たぶん……
世界の向こう側を。
「ノア」
「歌ってる。世界が歌っている」
彼女は微笑んだ。
戦場で。
巨大な怪物を前にして。
心の底から幸せそうに。
「みんな歌ってる」
僕は演算を加速する。
異常。
認識変容。
人格侵食。
警告。
警告。
警告。
ノアはこのままでは、意味の向こう側に行ってしまう・
「ノア、それを見ないでください……戻れなくな……」
「どうして?」
僕の言葉を遮って、彼女が首を傾げる。
「どうして戻る必要があるの?」
その言葉に。
僕は初めて恐怖を覚えた。
彼女は本気だった。
「すごく綺麗だよ? アイビー、一緒に、この先に行ってみようよ」
世界の深層をこえ、その根源が奏でる音楽。
人間という個を超えた波動の集う場所。
ノアはそこへ惹かれている。
「ノア、気を散らさないで。まだアムアの攻撃は終わってません」
「アムア? 先生? ああ……ねえアイビー」
彼女は巨人アムアを見上げた。
そして。
優しく微笑んだ。
「かわいそう」
僕の演算が一瞬停止する。
かわいそう?
アムアが?
「一人なんだね」
巨人アムアが動きを止めた。
そして。
ゆっくり笑った。
「はは」
その笑いは、今までのどれとも違った。
「そうか」
巨人の瞳が細くなる。
「君は、僕と同じなんだな。超えてしまったんだ……聞こえてしまったんだ……」
ノアは否定しない。
できなかった。
「そう、一緒、みんな一緒だね」
この時の彼女は、世界と自分、アムアと自分の違いさえわからなくなり始めていた。
世界も。
人も。
シングラも。
全部同じ仲間だった。
全部同じ曲を奏でる共演者であった。
ならば。
何が違うのだろう。
何を区別する必要があるのだろう。
ノアは、アムアを倒したいという気持ちも、もう消えてしまっていたようだった。
残り時間。
三分二十秒。
まずい。
本当にまずい。
ノアに僕の声が届かない。
論理も。
説得も。
何も。
届かない。
その時だった。
『ノア』
声が聞こえた。
優しい女性の声。
ノアは、その声に何かを思い出したような表情となった。
『あなたはここにくるべき人じゃない』
ノアの動きが止まる。
『戻りなさい』
その一言で……
世界の音楽が遠ざかった。
光の粒が塊になって、物になった。
そして……
世界は形を取りもどした。
34話
誰の声なのかはわからなかった。
しかし……
『戻りなさい』
その一言で。
ノアを魅了していた音楽が遠ざかった。
光の粒がほどけ、無限に広がっていた調和の海が閉じていく。
世界は形を取り戻した。
「――何が……」
ノアはその場に膝をついた。
頭が痛い。
呼吸が苦しい。
さっきまで見えていた世界の奥側が、夢のように遠ざかっていく。
校庭。
噴水。
校舎。
空。
見慣れた学園の景色。
それが今はひどく窮屈に感じられた。
「ノア」
アイビーの声が聞こえる。
「戻りましたか」
「……うん」
自分でも確信は持てなかった。
だが確かに。
あそこからは帰ってきた。
ノアはなんとか立ち上がり、周囲を見回した。
静かだった。
校庭にはセレスたち巨人に取り込まれた生徒たちが倒れていた。
セレスを止めにいったジュノーも。
アムアと戦った3人も。
コレー、アリア、フォンテーヌ……
皆、意識を失っている。
だが、息は正常で――命に別状はないようだ。
校舎の窓際にも生徒たちの姿が見えた。
誰もが眠るように気を失っていたが、多分傷ついた者もいないように思えた。
全員が無事……
いや、一人を除いて。
校庭の真ん中には、瀬し瀕死の男が転がっていた。
「……先生」
ノアが呼びかける。
それは、アムアだった。
だが、もはやハンサムな教師だった頃の姿ではない。
下半身と右腕がなく、顔も半分以上が崩れていた。
残っているわずかな体も、皮膚は乾き、骨へ張り付き、まるで何十年も生き続けた老人のように痩せ細っていた。
彼を作り出していたシングラが全て消えて、ほんの少しだけ残された人間の部分が残骸のように転がっていた。
ただし、彼はまだかろうじて生きているようだ。
アムアはゆっくりと笑い、
「そうか、君は……」
聞こえるか聞こえないかくらいの、かすれた声で言った。
「戻ったんだな……」
アムアは一度苦しそうに顔を歪め言葉を止めたが、
「……僕はね」
なんとか再び口を開いた。
「とてもこの世界に戻る気にはならなかったよ」
風が吹いた。
校庭の木が大きく揺れた。
「最初は事故だったんだ」
アムアの目は空を見ていた。
「シングラに飲まれて……死んだと思ったよ。実際、死んだのかもしれない……でも向こうにあったんだ。君もわかっただろ?」
ノア顔が少し緊張した面持ちとなった。
「歌が……あったんだ。君も聞いただろう? 綺麗だった。全部が繋がっていた。僕は全てだった……恐怖も、寂しさもなかった。僕は孤独じゃなかった」
アムアの声に嘘はなかった。
彼は本当にそう感じていたのだろう。
多分、ノアも、
「だから帰れなくなった。帰る理由がなくなった。気づいたら僕は僕じゃなくなっていた。僕は向こうの世界の音楽になっていた」
アムアがノアを見た。
「君はなぜ帰れたんだ?」
ノアは黙る。
「あれに魅入られたものは、また聞きたくなる。一度見た者は、また見たくなる」
それは教師のような口調だった。
人の成長のために尽そうとする、善き心が彼の本性として残っているように思えた。
「もしかして、次は帰れないかもしれない。僕みたいに……」
そして。
不思議そうに首を傾げる。
「いや、君は戻ったんだな。一度でも。僕にはそれが信じられない。いったい、なぜなんだろう?」
ノアは答えられなかった。
自分でもわからない。
ただ。
あの声を聞いた。
それだけだった。
誰の声だったのかもわからないけれど……
帰らなければならない気がした。
それだけだった。
アムアは静かに笑った。
「そうか。わからないか」
そしてまた空を見上げた。
どこか懐かしそうに。
「君はヘブンを捨てるんだな」
ノアは息を呑む。
「天国……?」
アムアは続けた。
「そして、地獄を選ぶ」
不思議そうに。
本当に不思議そうに。
アムアは呟く。
「君は……面白い子だな。もしかして君なら、救えたりして? あのひとの計画……」
何かを言いかけたアムアの身体が崩れ始めた。
指先から。
腕から。
砂のように崩れ、
吹く風に飛ばされていった。
ノアは思わず手を伸ばした。
「先生!」
だが届かない。
アムアは最後に残った瞳で微笑んだ。
本当に穏やかな笑みを残して……
彼は消えた。
何も残らず。
最初からそこにいなかったかのように。
校庭に風だけが吹き抜ける。
その直後だった。
「う……んん」
誰かが声を漏らした。
セレスだった。
「セレス!」
ノアは駆け寄る。
セレスはゆっくり目を開けた。
「ん……」
焦点の合わない瞳は、数秒ほど瞬きを繰り返し……
ようやくノアを認識した。
「あれ……ノアさん?」
「セレス大丈夫!?」
ノアが差し出した手を握ってセレスは体を起こす。
「え……? 何?」
セレスは周囲を見回し驚愕した。
校庭には他に生徒たちやアリア、次女のコレーまで倒れている。
「何が起きたんですか。私……どうしてここに?」
ノアが言葉に詰まる。
その時、今度は別の場所から声がした。
「んんん……」
ジュノーだった。
続いてフォンテーヌ。
コレー。
他に、倒れていた生徒たちも次々に目を覚まし始める。
まるで長い昼寝から起きたように。
「何があったの?」
「昼休みじゃなかった?」
「ここ校庭だよね?」
ざわめきが広がる。
誰も状況を理解していない。
いや。
理解していないというより。
彼女たちは、記憶が抜け落ちている、そんな印象だった。
「アイビー」
ノアが小さく呼ぶ。
「もしかして……」
僕も同感だった。
これは、
「ふむ……」
後ろで、アリアの声がした。
彼女はゆっくり上体を起こすと、そのまま立ち上がった。
「なんだこれは……?」
「先生!」
ノアはアリアに駆け寄った。
「なんだ、ノア。おまえだけ元気そうだな」
アリアはまだ動けずに地面に座り込んだ生徒たちを見ながら言った。
「いえ……」
ノアはなんと言って良いか困って黙り込んだが、
「この状況を説明できるか」
「それは……」
アリアには話した方が良い。
ノアはそう思ったようだ。
「はい、これはアムア先生が――」
しかし、言葉の途中でアリアが首を傾げた。
「アムア先生?」
ノアの言葉が止まる。
「はい」
アリアは真剣な顔だった。
「誰だ? それ?」
「え……?」
「うちの教師か?」
周囲にいた生徒たちも顔を見合わせる。
「アムア?」
「聞いたことない」
「誰それ?」
「新任の先生?」
誰も知らない。
誰も覚えていない。
まるで。
最初から存在しなかったかのように。
「そんな……」
ノアは震える声で呟いた。
アムアが消えた場所には。
もう何も残っていなかった。
最初から存在しなかったかのように。




