AIは少女と校庭を見る
校庭に、乾いた音が響いた。
それは一度きりの音だったはずなのに、まるで何度も何度も繰り返されたかのように、遅れて響き、反響し、残り続けた。
叩かれたセレスの頬が、ゆっくりと揺れる。
この一瞬で、それまでざわめいていた全校生徒の声が、嘘のように消えた。
誰も、声を出さない。
誰も、動かない。
ただ校庭を見つめていた。
「甘えるのはおよしなさい」
ジュノーは、慌てているのでもない、怒っているのでもない――極めて冷静な口調で言った。
声は決して大きくない。
だが、その言葉は、静かな学校中に響いた。
「……ジュノー、様……?」
セレスが、一瞬正気に戻ったような顔になって言った。
その声はかすれ、随分とたどたどしかった。
先ほどまで、あれほど流暢に、途切れることなく語っていたのに。
まるで別人のようであった。
「あなたの言ったことは聞かせてもらいました」
「私が? あっ……」
今しがた自分が自分がしたことをやっと理解したと思われるセレスだった。
「あなたの主張は聞かせてもらいました。まったく、あなたらしく、優しい、人々の幸せを願う善人の……私が大好きなセレスそのものでしたわ。最後は、何を言いたいのか良くわかりませんでしたが、あなたが何か信じるものを見つけたのでしょう。でもですわ……」
ジュノーは、一切の迷いなく言い切った。
「でも、それが正しいのか、正しくないのかなんてどうでも良いのですわ」
その言葉には、判断も、評価も、含まれていなかった。
ただ切り捨てるように、余計なものを削ぎ落とすようにジュノーは言った。
「あなたが何を見たかも、何を思ったかも、否定はしません。この世界が歪んでいることも、腐っていることも、私は知っています」
ジュノーの同意を得たと思ったのか、セレスの瞳に僅かに喜色がのる。
「バカな貴族が民を食い物にしていることも、悪徳商人が搾取していることも――すべて」
その言葉は、淡々と、事実だけを並べているような冷たさがあった。
ただし、確実にジュノー自身が、この残酷で理不尽な世界を良しとしてはいないということはわかった。
なので、セレスは、
「……ならば……! 私と共に! 共に、この世を……」
セレスの声が、急に強くなる。
「笑止――」
ジュノーがセレスの言葉を遮る。
「あなたは、その責任から逃げているのですわ」
議論をしたいのではなかった。言葉は、ただ一つの必然として提示された。
「逃げて……?」
セレスは意外そうな顔で言った。
「ええ」
ジュノーは一歩、前に出る。
距離を詰める。
彼女の問いから逃げられない距離まで。
「変えるというのは、逃げることではありません」
「背負うことです」
「あなたが見たものを、あなたが引き受けることです」
一つ一つの言葉が、重ねられる。
逃げ場を塞ぐように。
積み上げられるように。
「民を救うことすら投げ出して、世界を救うなどと言うのは――」
ほんのわずか、間を置く。
「ただの放棄です」
セレスの呼吸が止まる。
完全に。
一瞬、時間が止まったかのように。
「ちが……う……」
かすれた声。
「わたくしは……」
セレスの次の言葉が出てこない。
出そうとしているのに、形にならない。
頭の中で、何かがぶつかり合っている。
強く、激しく、音を立てて。
「私は……良くあろうと……あろうと……私は」
セレスは逡巡して、途切れ途切れとなった言葉を続ける。
「……そうですわ。あなたはわかっておりますわ」
ジュノーの声が、わずかに柔らぐ。
「あなたは、父君の、子爵殿から、どう仰いましたか?」
セレスの瞳が揺れる。
過去が、浮かび上がる。
記憶が、呼び起こされる。
声が、蘇る。
「……全身全霊で……自分にできることを……民のために……」
「ええ、グラティア卿ならば、そうおっしゃるでしょう……でも……」
ジュノーは続けていう。
「あなたは今、それをしていますか?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
何も言えない。言えるはずがない。
その問いに、答えられる行動をしていない自覚がセレスにはあった。
望んでいない。
民は、あのスラムの民でも、彼女がやろうとしていることは望んでいない……
セレスの身体が、わずかに震え始める。
足元が不安定になる。
支えを失う。
膝が、崩れる。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
地面へと落ちていく。
「わたくしは……」
震える声。
涙が滲む。
「わたくしは……自分から……逃げて……」
セレスは、膝をつき地面を見つめながら嗚咽した。
ジュノーが、手を差し伸べあがら言った。
「立ちなさい、セレス」
彼女の声には、揺ぎない強さがあった。
セレスを救い上げるに足るものであった。
「あなたは、強い人です。このくらいでダメになる人では……」
あと少し。
本当にあと少しで届く距離まで手が伸びた。
セレスの手が、わずかに動く。
指先が震える。
その先にあるものを、掴もうとする。
――その瞬間。
空気が、歪んだ。
音が消えた。
風が止まった。
「……!」
ジュノーの身体が、不自然に揺れる。
見えない何かに押されたように。
次の瞬間。
膝から、崩れ落ちる。
「ジュノー様?」
伸ばしたセレスの手が空を切る。
ジュノーは地面に倒れたまま動かない。
立ち上がれない。
見えない何かに、押さえつけられている。
「これは、いけませんね……ここまで来て邪魔されては困ります」
穏やかな声が、静かに響いた。
全員気づく。
セレスの隣に、いつの間にか、アムアが立っていたのだった。
いつもの笑顔。
いつもの柔らかな表情で。
「これでは世界は救われないじゃないですか。せっかくの祝福なのですよ? ありがたくいただきましょうよ。邪魔をされては困ります」
そして、彼はセレスの肩に手を置いて言う。
「あなたは、正しいですよ」
優しく囁く。
「迷う必要はありません」
その言葉が届いた瞬間。
セレスの目から、迷いが消えた。
ジュノーに言われて生じた逡巡が。
苦しみが。
――すべて消えた。
「……はい」
迷いのない声でセレスは言った。
ジュノーへ伸びかけていた手は途中で止まり、
「仰せのままに、アムア様……」
立ち上がり笑顔になり言うのであった。




