第8話:座敷童子の履歴書
その夜は、珍しくサボリの声が早めに繋がった。
花がツマミを回すと、いつものじりじりとした砂嵐がほとんどなく、すぐにあの気怠い声が滑り込んできた。
「……フニャ。ハイどうも。時刻は午前一時十二分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです。今夜は……あー、なんか、やたらと文字の詰まった妙なメールが来てます。読みます」
カサリ、と紙を乱暴にめくる音。
「ラジオネーム『座敷童子・見習い』。……は? 座敷童子? 年齢……三百四十二歳。……見習い期間、長すぎだろ。はい、拝読します」
「『サボリさん、はじめてメールします。私は座敷童子なのですが、最近、行く場所がなくて困っています。私が福をもたらすはずだった老舗の旅館が、去年廃業してしまいました。その前に住んでいた古民家も、おととし取り壊されました。その前の一軒家は、十五年前に住人が引っ越して空き家になってしまいました。今は駅の待合室の隅のベンチに座っています。座敷がないのに座敷童子と名乗っていいのか、最近分からなくなってきました。どうしたらいいでしょうか』……以上です」
短い沈黙。
「……知らんがな」
布団の中で、花は思わずくすりと笑った。
「座敷がなくなったら座敷童子じゃないのか、っていう哲学的な問いについては、私には答える義務がないので省きます。……ただ、駅の待合室はまずいですね。あそこ、終電後は容赦なくシャッター閉まりますよ。締め出されて警備員に職質されますよ、妖怪のくせに」
爪が机をトントンと小刻みに叩く音が聞こえる。
「おい、眠れない会社員。お前のことだ。明日、ちょっとその見習いの話聞いてやれ。駅の待合室、改札寄りのベンチの一番端、柱の陰。ちんまり座ってるから。……あと、一応言っておきますけど、座敷童子を家に入れると福が来るらしいですよ。契約上、うちでは効果の保証はしませんけどね。じゃ、閉店」
プツッ。
砂嵐になった。
花はラジオを胸の上に置いたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
自分の部屋に座敷童子を、と一瞬想像して、すぐに「あ、うち、座敷ないや」と思い至った。
どこをどう見回しても、六畳間のただのフローリングだ。
翌日の夕方、花はいつもより一駅手前で電車を降りて、件の駅の待合室に寄ってみた。
改札寄りのベンチの一番端。柱の影。
……いた。
七歳くらいの子供に見えた。おかっぱ頭に、少し色あせた赤い着物を着て、ちんまりとベンチに腰掛けている。
小さな足をぶらぶらと揺らしながら、手元にある何かを、穴が開くほど見つめていた。周囲の乗客は、誰もその子供に視線を向けない。
花が少し距離を置いて隣に腰を下ろすと、その子はびくっと肩を揺らし、ちらりとこちらを見た。
「……あの、人間の方、ですか」
「そうです」と花は声を落として言った。
「サボリに聞いて来ました。待合室は終電で閉まるよ、って」
子供の目が、まん丸になった。
それから、小さな両手で大事そうに持っていた紙を、花へ差し出してきた。
……履歴書だった。
市販の履歴書に、ひどく不器用な、でも驚くほど丁寧な楷書で文字が埋められている。
氏名欄には「座敷童子(見習い)」、住所欄には「現在、駅の待合室ベンチ」。そして資格・特技の欄には『ちょっとした幸運(茶柱が立つ、落とし物が見つかる等)』と書かれていた。
「就職活動を、しようと思いまして」
座敷童子はしょんぼりと頭を垂れた。
「でも、住所がないと書類選考すら通らないと、隣のベンチのサラリーマンが電話で怒られていまして。……私、住所がないのです」
花はしばらく、その「現在、駅の待合室」と書かれた履歴書を見つめた。
「就職って、どういうところを……?」
「古民家カフェとか、老舗の旅館とか。でも、最近は古民家カフェもたくさんあって、すでに実績のあるベテランの座敷童子先輩が入っているところが多くて……。私、見習いなので、もたらす福の量がまだ少なくて。面接に行っても、『うちとしては即戦力の方が欲しい』と断られてしまって」
即戦力の妖怪。花は胸の奥が少しちくっと痛んだ。
座敷童子はもう一枚、小さく折り畳まれた紙を広げた。
それは、手書きの「これまで行った仕事」のリストだった。
『明治四十三年 田中家 長男誕生(健康)』
『昭和二十二年 山本旅館 三夜連続満室』
『平成八年 古民家カフェさくら 雑誌掲載』
「でも……」
座敷童子は泣きそうな声で呟いた。
「全部、もう取り壊されて、存在しない場所なのです。私がここで頑張ったって、誰も証明してくれないのです」
存在しない場所の、証明できない実績。
花は、カバンの中にある防災ラジオの重みを思った。
三年に死んでしまった、だるそうなサバトラの地域猫。誰も証明できないけれど、毎晩ラジオの向こうから聞こえるあの声は、確かに今も花を救い続けている。
「住所、うちので良ければ、履歴書に書いていいですよ」
花が言うと、座敷童子がガバッと顔を上げた。
「あ、でも、実際に住むのは無しです。うち、ただのフローリングですし。……でも、履歴書の住所欄が空欄なのは困るでしょ。そこが埋まれば、面接官も話を聞いてくれるはずです」
「……座敷じゃなくても、いいのですか」
「いいんじゃないですか。今の時代、座敷のある家の方が少ないですし。それに……」
花は手書きのリストを指先でそっと撫でた。
「このリスト、すごくかっこいいです。明治から平成まで、あなたが誰かをちゃんと幸せにしてきた証拠じゃないですか。たとえその建物がなくなっても、あなたがそこで頑張ったことは、絶対に嘘にはならないです」
座敷童子の大きな目に、みるみるうちに涙が溜まり、ぽろぽろと着物の袖にこぼれ落ちた。
「泣かないでください、ほら」
花は慌ててポケットからティッシュを出した。
「面接、応援してますから」
『ラジオネーム:よく眠れる会社員です。
サボリさん、座敷童子に会ってきました。とりあえず、履歴書用の住所だけ貸しておきました。うちには畳も座敷もないフローリングですが、履歴書さえ通れば、あのコの三百年の頑張りを誰かがちゃんと見てくれる気がしたからです。……誰にも証明できなくても、やってきたことは本当のこと。そう言ったら泣かれました。なんだか、自分自身に言い聞かせているみたいでした』
送信ボタンを押し、すぐにツマミを回す。
─────ザー……ザザッ。
「……フニャ。住所を貸したとかいう、お人好しな報告が届いてます。……まあ、お前の部屋、フローリングでも隅っこくらいは空いてるんじゃないですか。最近の妖怪はハイブリッドなんで、床暖房とか喜ぶと思いますよ。知らんけど」
サボリのぶっきらぼうな声。
けれど、そのあとに少しだけ長い間があって、
「……まあ、最後の一行。自分に言い聞かせてる、ですか。……いいんじゃないですか、それで。人間も妖怪も、そうやって自分に嘘つかないように言い聞かせながら、すれすれで生きてるもんですからね。……じゃ、閉店」
ゴロゴロゴロ……と、マイクのすぐ近くで、小さく喉を鳴らす音がして、
プツン。電波が切れた。
花は静かになったラジオを床に置き、自分の部屋を見回した。
相変わらずの狭いワンルーム。本棚と、こたつと、防災ラジオ。
福が来るかはわからない。
でも、明日もまた、この部屋から仕事に行こう、と思えた。
花はクローゼットから毛布をもう一枚引っ張り出すと、部屋の隅のフローリングに、ちんまりと小さく畳んで敷いておいた。
もしあの見習いが、面接に疲れてサボりたくなったとき、いつでも座れるように。
「おやすみ」
誰にともなく呟いて電気を消すと、驚くほど滑らかな、温かい眠りが花を包み込んでいった。




