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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: もも
第一章 砂嵐の向こう側

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第7話:柿の木のある家

 十月十五日の朝は、雲ひとつなく晴れ渡っていた。


 花はいつもより早く家を出た。


 供養祭が何時から始まるのか、あの小さな掲示板には書かれていなかった。


 けれど、朝のうちに行かなければいけない気がした。


「何が分かるのか」と自分に問いかけても、明確な答えは出ない。


 ただ上着を羽織り、カギを掴んで、導かれるように外へ出た。


 住宅街の木々は、昨日よりも確実に秋の色を深めていた。


 神社の鳥居が近づくにつれ、かすかな人の気配と、お線香の匂いが風に乗って漂ってきた。


 供養祭、といっても、身内だけのささやかなもののようだった。


 社務所の前に実用の折り畳みテーブルがひとつ置かれ、近所の人らしきお年寄りが数人、静かに談笑している。


 細く立ち上る青い煙が、高い秋空に吸い込まれて消えていく。


 テーブルの中央に、小さな写真立てがあった。


 サバトラの猫だった。


 少し丸みのある体つき、艶のいい毛並み、そしてカメラを心底「ダルそう」に見つめる、眠たげな細い目。


 花は、足が完全に止まった。


 写真の猫は、サボリに酷似していた。


 いや、似ているなんて生ぬるいものではない。


 あいつだ。間違いなく、毎晩ラジオの向こうでため息をついている、あのサボリだった。


「お参り、来てくれたの。ありがとうねえ」

 不意に横から声をかけられ、花はハッとして顔を上げた。


 白髪を几帳面にまとめた、背の小さな老婦人が立っていた。


 深く刻まれた目尻の皺と、穏やかな眼差し。


 花は、心臓を直接掴まれたように息が詰まった。


 あの日、首輪から流れ込んできた記憶の中で、ひなたの縁側に座って笑っていた、あの人だった。


 お婆さんは、花を近所の住人か何かだと思ったのだろう。


 柔らかく微笑みながら、写真の前に供えられた小さな白皿を愛おしそうに見つめた。


 そこには、ペースト状のまぐろのおやつが綺麗に絞り出されていた。


「この子ね、これが大好きで。まぐろ味じゃなきゃ、絶対に舐めなかったのよ。本当に、わがままな子でねえ」


 お婆さんの声は、少しだけ寂しそうで、けれどそれ以上に、温かい愛着に満ちていた。


 花は、何も言えなかった。


 喉の奥がカチカチに凍りついたように、言葉が何一つ出てこない。


「私、サボリさんを知っています」と言いたかった。


 毎晩、あのコの声を聴いているんです、と。でも、どう説明すればいい? 


 深夜の防災ラジオから死んだ猫の声が聞こえるなんて、この優しそうなお婆さんに言えるはずがなかった。


 それは、この人が三年間かけて受け入れた「お別れ」を、土足で踏みにじる行為のようにも思えた。


「でも、よく食べてよく寝て、本当に気ままに生きた子だったわ。いい子だったわよ、本当にねえ」


 お婆さんはもう一度、花に向けて小さく頭を下げた。


 ちょうどそこへ、近所の男性が「寒くなりますから、中で温かいお茶でも」と声をかけにきた。


 お婆さんは「いつもすまないねえ」と応じ、ゆっくりとした足取りで社務所の中へと消えていった。


 花は、その小さくなっていく背中を、ただ黙って見つめ続けていた。


 何も伝えられなかった。


 けれど、花の胸の奥をずっと締め付けていた硬い結び目が、ふわりと解けていくのが分かった。


 お婆さんは、もう泣いていなかった。


 あの激しい雨の日の玄関で、震える声でサボリを呼んでいたお婆さんは、もうどこにもいなかった。


 サボリはちゃんと愛されて、今もこうして、あたたかい記憶の中で生きている。


 花は写真のサバトラ猫に向かって、胸の中で「ちゃんと、首輪は届けたからね」と告げ、境内を後にした。


 それから、どれくらい歩いただろう。


 サボリの残像を追いかけるように、花は住宅街の入り組んだ路地を、あてもなく歩き回っていた。


 気づけば、頭上から降り注いでいた鋭い光は黄色く平らになり、アスファルトに伸びる影がぐんぐんと長くなり始めていた。


 路地の向こうに、強烈な違和感を覚えたのは、その時だった。


 空気が、そこだけ陽炎のように不自然にゆらゆらと歪んでいる。その歪みの向こう側に、透き通った別の景色が重なっていた。


 縁側のある、古い木造の家。


 庭にぽつんと立つ、大きな柿の木。


 二十年前にタイムスリップしたかのような、濃密な秋の陽だまりの気配が、そこにあった。


 花は、息を呑んで足を踏み出した。一歩、また一歩。


 けれど、近づけば近づくほど、その輪郭は霧のように薄れていく。

 

 完全にその場所に到達したとき、空間の歪みは消え去っていた。


 そこにあったのは、ただの現実だった。アスファルトの駐車場、グレーの新しいマンション、コンビニの無機質な駐輪場。


 縁側のある家なんて、どこにもない。


 花はその場に立ち尽くし、何度も周囲を見回した。


 風が吹いて、乾いた茶色い葉が一枚、足元をカラカラと音を立てて滑っていった。


 やっぱり、見つからなかった。


 けれど、花はカバンの中のラジオに、そっと手を当てた。布越しに伝わる、ゴツゴツとした古いプラスチックの冷たい感触。


「……またね」


 誰にともなく、小さく呟いた。


 もちろん、返事はない。砂嵐の音さえ聞こえない。


 でも、花は前を向いて歩き始めた。


 いつかまた、あのノイズの向こうから、世界で一番面倒くさそうな声が聞こえてくる。


そんな根拠のない確信が、今の花の身体をしっかりと支えていた。


 アパートへ向かう帰り道、視界が急に、鮮烈なオレンジ色に染まった。


 見上げると、住宅街の押し潰されそうな空いっぱいに、熟しきった果実のような、燃えるような夕焼けが、どこまでも、どこまでも広がっていった。


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