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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆもニャ
第一章 砂嵐の向こう側

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第6話:3回忌

 朝、目が覚めたとき、部屋が白く明るかった。


 カーテンの隙間から差し込む秋の光が、天井を真っ直ぐに照らしている。


 三つのしみ。眠れない夜、いつも呪いのように数えてきた、あの黒い斑点。


 けれど今朝は、それを数える前に、花は布団を跳ね除けて起き上がった。


 テーブルの上には、昨夜と変わらず、あの赤い首輪が静かに鎮座していた。


 夢ではなかった。


 茶色く錆びついた鈴、擦り切れた革。


 夜の植え込みで拾い上げた、あの強烈な記憶の塊が、朝の光の中にさらされている。


 床に置かれた防災ラジオは静まり返ったままで、砂嵐の音すらない。


 花は首輪を、上着のポケットに滑り込ませた。


 出かける支度をしながら、ふと床のラジオに目が止まる。


 いつもは触るだけのプラスチックの筐体を、今朝は両手で持ち上げ、タオルで埃を払ってから、カバンの奥へ押し込んだ。


 なんとなく、今日は片時も離したくなかった。


 土曜日の朝の住宅街は、驚くほど静かだった。


 電線が少なくて、空が広い。


 どこかの家から漂う朝食の匂いに混じって、乾いた落ち葉の、少し焦げたような匂いが鼻をくすぐる。


 東京に来てから、季節の匂いを肌で感じたことなんて、一度もなかった気がした。


 住宅街の突き当たりに、神社の古い鳥居が見えた。


 石畳の参道を歩く。隙間にびっしりと生えた苔を踏み締めながら進む。


 不思議と、怖くはなかった。


 あの夏の夜、提灯の光が届かない暗がりのなかで、世界のすべてから見放されたような気がした場所。


 今は木々の隙間から爽やかな秋の日差しがこぼれ、ただ静謐な空気が満ちている。


 同じ場所が、時間によってこんなにも違う顔を見せるのだ。


 社の裏手へ回る。


 鬱蒼とそびえ立つ巨木の根元は、湿った土の匂いがした。

 

 頭上をさらさらと冷たい風が通り抜けていく。


 社の大きな屋根が日陰を作り、雨も直接は当たらない、ぽっかりと空いた秘密基地のような空間。


『あの神社の裏の木陰は、風が抜けて昼寝には最高だったなぁ』


 サボリの声が、耳の奥で鮮烈に蘇る。


 花は木々の間にしゃがみ込み、社の壁の際に、そっと赤い首輪を置いた。


 ──チリン。


 かすかに、鈴が鳴った。風は止んでいた。


 花はハッとして顔を上げた。巨木の根元、深い影のなかで、何かが不意に動いた気がした。けれど、目を凝らしても、そこには歪な木陰があるだけだった。


 ただ、もう一度、冷たい風が花の頬を撫でて通り過ぎた。


「……ちゃんと、届けたよ」


 花はそれだけを、影に向かって呟いた。


 参道へ戻ろうとしたとき、社務所の脇にある古い木製の掲示板が、なんとなく目に留まった。


 地域の回覧板や、お祭りの案内。その隅にピンで留められた、一枚の手書きの張り紙。


 花は、一歩も動けなくなった。


『地域猫 三回忌供養祭 十月十五日 於 当社』


 心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


 指先から血の気がすうっと引いていく。


 三回忌。


 それは、その猫が、三年も前にこの世を去っているという意味だ。


 じゃあ、私が毎晩ラジオの向こうで聴いている、あの声は。


「眠い」「ダルい」と文句を言いながら、前足で毛を舐め、まぐろの缶詰を懐かしがっていた、あの生々しい体温を持ったサボリは、一体、何なのだろう。


 幽霊? それとも、死者が流し続けている電波の残骸?


 いや、違う。あのぶっきらぼうな、ちょっと太くて不機嫌な声が、死者のものだなんてどうしても思えなかった。


 けれど、目の前の張り紙の文字は、冷徹な現実として十月の光に照らされている。


 今日が十四日だから、供養祭は、明日だ。


 頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、鳥居をくぐり、帰り道の商店街へ逃げるように歩いた。買い物客の賑やかな声が、今の花には遠い異国の雑音のように聞こえた。


 サボリがもういないなら、あの首輪は誰を待っていたのか。サボリがいつも口にする「契約」って、一体。


 そのときだった。


 腕に抱えたカバンの奥から、耳を突き刺すような、激しい砂嵐の音が響いた。


 ──ザザッ……ザーーーーー……ッ。


「……帰るには早いだろ」


 低い、いつも通りの、ひどく面倒くさそうな声だった。


 花は悲鳴を上げそうになりながら立ち止まった。


 周囲の人間が不審そうに花を見る。


 構わずカバンを開け、奥からラジオを引っ張り出した。


 けれど、液晶は消えている。


 ツマミは「切」の位置にカチリと収まったままだ。


 完全に沈黙したプラスチックの箱。


 しかし、その静まり返ったカバンの底から、今度は、


 ──チリン……。


 あの、錆びついた鈴と同じ音が、鼓膜の奥で確かに鳴った。


「サボリ……?」


 人混みの中で、声が震えた。当然、返事はない。


 帰るには早い。


 それは、どういう意味だ。アパートへ帰るなということか。それとも、まだ、あっちの世界へ行くには早いという意味なのか。


 花は騒がしい商店街の真ん中で、激しい目眩に耐えるように、ラジオを胸に強く抱きしめた。ぞわぞわとした、けれどどこかあたたかい不気味さが、背中を駆け上がっていく。


 アパートへ戻り、すぐにコーヒーを淹れた。


 こたつに座り、スマホの画面を睨みつける。メールアプリの宛先には、『サボリ』の三文字。


 けれど、指が動かなかった。


「供養祭の張り紙を見ました」と打とうとして、消した。


「あなたは死んでいるんですか」なんて、もっと書けなかった。


 何を聞いても、あの猫は「知らんがな」と鼻で笑うに決まっている。


 花はしばらく画面を見つめたあと、震える指で、一行だけを打ち込んだ。


『明日、また神社に行こうと思っています』

 送信ボタンを押し、すぐにラジオのツマミを回してみた。


 ─────ザーーーーー……。


 乾いた砂嵐だけが、虚しく六畳間に響く。サボリの声は、来ない。


 花は机の上のマグカップを手に取った。一口すする。お湯を沸かして淹れたばかりのはずなのに、なぜか、ひどく冷たく感じられた。


 窓の外で、ゴーッと激しく風が木々を揺らす音がする。


 サボリが生きているのか、死んでいるのか、今の花にはもう何も分からない。


 けれど、あの声に救われた夜がある。あの温度に、ボロボロだった心を温めてもらった日々がある。それだけは、この世界で絶対に揺らがない、唯一の本当のことだ。


 ずっと、背中を押されてばかりだった。


 夜を明かすのが怖くて、部屋の隅で泣いていた自分を、あのだるそうな声がここまで連れてきてくれたのだ。


 だったら、今度は。


「……帰るには早い、んでしょ」


 花は小さく呟いて、残りのコーヒーを喉の奥へ流し込んだ。


 胃の腑に落ちた苦味は、今度はじんわりと熱を持っていた。


 明日、あの砂嵐の向こう側を、確かめに行く。

 窓の外で、秋の風がさらに強く、世界を揺らすように吹き荒れていた。

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