↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真夜中の迷い猫ラジオ  作者: もも
第一章 砂嵐の向こう側

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/34

第5話:赤い首輪

 部屋も心も、少し片付いた。


 花はそのことを、日記に書くわけでもなく、ただ自分の中で静かに、確かめるように噛み締めていた。


 エアコンのフィルターは綺麗になった。本と雑誌の山は、読むものと捨てるものに分けた。朝、ちゃんと起きられる日が増えた。


 何かが劇的に変わったわけではない。


 仕事は相変わらずだし、あの気難しい課長の声だって、たまに頭の中で嫌なリフレインを起こす。


 けれど、夜になって防災ラジオのツマミを回し、砂嵐の向こうから聞こえるあの気怠い声を聴くと、「まあ、いいか」と思える。


 それだけのことが、今の花にはひどく大きな盾になっていた。


 今夜も花は布団の上でラジオを抱え、サボリの声を待っていた。


「……あー。今夜も始まっちゃいました。眠いです。一秒でも早く終わりたい」


 いつものお約束に、花は口元を緩める。


「メール読みます。……あー、今夜は……」


 ガサリ、と紙をめくる音がした。


 そして、それきりスピーカーの向こうが水を打ったように静まり返った。


 いつもなら流れるはずの、だるそうな鼻歌も、爪を整えるカチカチという音もない。


 サボリが、完全に黙り込んでいた。


「……」


 トツ、と静かなノイズが響く。


 マイクの前で身を乗り出したような、あるいは立ち上がろうとして肉球が机を強く叩いたような、切迫した気配。


 電波の向こうの空気が、凍りつくように変わるのを花は肌で感じた。


「……チッ」


 ひどく苦い、重い舌打ちがスピーカーを震わせた。花は思わず毛布を強く握りしめる。


「……しょうがない。読みます。ラジオネーム、『赤い首輪』。……付喪神、ですかね。拝読します」


 声が、いつもと違った。だるさも覇気のなさもない。


 ただ平坦で、細い氷の針のような、硬い声だった。


「『遠いところへ行ってしまったあなたへ。私のこと、もう忘れちゃいましたか。私はまだ、あの場所であなたの帰りを待っています』」


 読み終えて、ぞっとするような沈黙が流れた。


 今夜一番の、長い沈黙。


 砂嵐の雑音すらどこかへ消え、完全な無音の闇が六畳間を支配する。花は息をすることさえ忘れていた。


「……チッ。どこのどいつが、余計なもん拾ってきやがった」


 サボリの声は、地を這うように低かった。


 ひどく怒っているようでもあり、同時に、何かを必死で堪えているようでもあった。


「おい、人間。それ、お前のアパートの植え込みにある。今すぐ拾って、どっかの神社にでも放り込んどけ。……じゃ、終わり」


 プツン。


 砂嵐すら戻らなかった。


 容赦のない無音が、花の耳を痛いほどに圧迫した。


 花はラジオを抱えたまま、しばらく動けなかった。


 あのサボリが。どんなメールにも「知らんがな」「ダルい」と鼻で笑っていたあの猫が、あんなに声を荒らげるなんて。


 胸が騒いで仕方がなかった。花は布団を蹴り飛ばし、パーカーを引っ掴んで部屋を飛び出した。


 エントランスを出ると、秋の冷たい夜風が容赦なく顔を叩く。


 駐輪場の脇、黒々とした葉を茂らせるツツジの根元へ走り込み、スマホのライトで地べたを照らした。


 湿った落ち葉と泥にまみれて、それはあった。


 小さな鈴のついた、古びた赤い首輪。


 鈴は茶色く錆びつき、革はボロボロに擦り切れている。


 花がそれを指先で拾い上げた、その瞬間だった。


 脳を直接殴られたような、強烈な目眩がした。冷たい夜の匂いが、一瞬で「別の匂い」に上書きされる。



 お線香の煙の匂い。古い畳。そして、じりじりと肌を焼く、秋のひなたの匂い。


 花が立っているはずの駐輪場に、縁側のある古い木造の一軒家が、陽炎のように重なって見えた。庭の大きな柿の木から、まぶしい午後の光が斜めに差し込んでいる。


 そこには、小さな座布団が置いてあった。まだ新しくて、鮮やかな赤色をした首輪の鈴が、お日様を浴びてキラキラと輝いている。


「おいで」


 優しく、かすれた声がした。


 白髪を丁寧にまとめた、背の小さな、優しそうな老婦人が縁側に座っていた。彼女は愛おしそうに縁側の床を、手のひらでとんとんと叩いている。


 縁側の下の暗がりから、ふらりとサバトラの猫が現れた。毛並みが良く、今よりずっと丸々と太った、どこにでもいるような猫。


 猫は「ナァ」と甘えた声で鳴いて縁側に飛び乗ると、お婆さんの皺だらけの膝に、何度も何度も頭を押し付けた。お婆さんが、顔中の皺を深くして笑う。


「今日もサボってたの、サボリ」


 猫が、ゴロゴロと誇らしげに喉を鳴らす。お婆さんがペースト状のまぐろのおやつをそっと差し出すと、猫は目を細めて、夢中でそれを舐めとった。


 突如、視界がぐにゃりと歪み、激しい雨の音が鼓膜を刺した。


 同じ家の、薄暗い玄関先。冷たい雨の匂いがあたりを支配している。


 お婆さんが、古びたビニール傘を持ったまま、戸口にぽつんと立っていた。傘を差そうともせず、ただ呆然と、激しく打ちつける雨の向こうを見つめている。


「……どこ行ったの。ご飯だよ、サボリ」


 その声は、泣き出しそうなほどに、震えていた。


「っ……」


 はっと我に返ったとき、花は冷たいアスファルトの上にしゃがみ込んだまま、激しく涙を流していた。


 自分の涙なのに、どうしてこんなに胸が引き裂かれそうに痛いのか分からなかった。いや、分かっていた。これは、あの雨の日の玄関で、帰らない猫を待ち続けた人の、執念とも言える切ない記憶だ。


 ペースト状の、まぐろ味の。懐かしいな。

 いつかの夜、サボリがラジオの向こうで漏らしたあの言葉が、痛々しいほどの形を持って胸に突き刺さる。


 サボリは、迷子になったのだ。


 かつて神社の裏で花の背中を押してくれたあの猫は、いつの間にか自分自身が異界の境界線を越えてしまい、二度と、あのあたたかい縁側へ戻れなくなってしまったのだ。


 そして残された首輪は、何年も、何年もあの場所で待ち続けるうちに想いを孕み、付喪神となって、境界線の向こうのサボリへ届く唯一の電波を見つけ出した。


「サボリ……」


 花は泥のついた首輪を、壊れ物を扱うように両手でそっと包み込んだ。ポケットに仕舞い、震える足で部屋へと戻る。


 スマホを開き、メールアプリの『サボリ』の画面を出した。打ち込む文字が、涙で何度も滲んだ。


『ラジオネーム:よく眠れる会社員です。

サボリさん。首輪、ちゃんと預かりました。明日、一番居心地の良そうな綺麗な神社に連れていきます。……ちゃんと、預かりましたから』


 それ以上は、何も書けなかった。「事情を知っている」なんて、あのプライドの高い猫に言えるはずがなかった。


 送信ボタンを押し、祈るような気持ちで防災ラジオのツマミを回した。


 ─────ザー……ザザザー……。


 流れてくるのは、冷たく乾いた砂嵐の音だけだった。


 今夜はもう、あのだるそうな声が戻ってくることはなかった。


 花はラジオの電源を落とし、ベッドに入って毛布を被った。


 そのとき。静まり返った部屋の机の上から、


 ──チリン。


 微かに、けれど驚くほど澄んだ音が響いた。


 窓は閉まっている。風もない。泥を拭き取って机に置いたあの首輪の鈴が、一度だけ、優しく鳴ったのだ。


 それが、サボリの言った「長く一緒にいたもんには話しかけてやれば喜びますよ」という言葉への、首輪からの返事だったのか。


 それとも、電波の向こうのサボリの気配だったのかは分からない。


 花は静かに目を閉じ、胸の前でそっと両手を重ねた。


 あの陽だまりの縁側のような、切ないほどにあたたかい温度が、花の小さなワンルームをそっと包み込んでいた。 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。