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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも


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第5話:赤い首輪

 部屋も心も少し片付いた。


 花はそのことを、誰かに報告したわけでもなく、日記に書いたわけでもなく、ただ自分の中で静かに確認していた。


 エアコンのフィルターは綺麗になった。本と雑誌の山は、読むものと捨てるものに分けた。朝、ちゃんと起きられる日が増えた。


 何かが劇的に変わったわけではない。

 仕事は相変わらずだし、課長の声は相変わらず頭の中で再生される。


 でも夜になると防災ラジオのツマミを回すようになって、砂嵐の向こうのだるそうな声を聴くと眠れるようになった。


 それだけのことが、思ったより大きかった。


 今夜も花は布団の上でラジオを抱えて、サボリの声を聴いていた。ありがとう、という気持ちが、いつからか当たり前のようにそこにある。


 言葉にしたことはない。でも、ツマミを回すたびに、その気持ちが出てくる。


「……あー。今夜も始まっちゃいました。眠いです。早く終わりたい」


 花は少し笑った。


「メール読みます。……あー、今夜は、なんか妙なのが混じってるな」


 ガサリ、と紙をめくる音がして、それきりスピーカーの向こうが静まり返った。


 いつもなら流れるはずの、だるそうな鼻歌も、爪を整える音もない。


 サボリが、完全に黙り込んでいた。


「……」


 トツ、と静かなノイズが響いた。


 マイクの前で身を乗り出したような、あるいは立ち上がろうとして踏みとどまったような、そんな気配だった。電波の向こうの空気が、一瞬で変わるのを花は肌で感じた。


「……チッ」


 苦い舌打ちが、電波に乗った。


 花は毛布を強く握りしめた。


「……しょうがない。読みます。ラジオネーム、『赤い首輪』。……付喪神、ですかね。拝読します」


 声が、いつもと違った。平坦で、感情を抜いたような、静かな声だった。


「『遠いところへ行ってしまったあなたへ。私のこと、もう忘れちゃいましたか。私はまだ、あの場所であなたの帰りを待っています』」


 読み終えて、重苦しい沈黙があった。


 今夜いちばん長い沈黙だった。砂嵐も流れない。BGMもない。花は息を止めた。


「……チッ。余計なものを拾ってきやがって」


 声が低かった。ひどく怒っているようでもあり、同時に、何かをぎりぎりで堪えているようでもあった。


「おい、人間。それお前のマンションの植え込みにある。今すぐ拾って、どっかの神社にでも納めとけ。……じゃ、終わり」


 プツッ。


 砂嵐すら、来なかった。完全な無音だった。


-----


 花はラジオを持ったまま、しばらく動けなかった。


 あのサボリが。「知らんがな」と「ダルい」しか言わない、いつも余裕ぶっている猫が、あんなに声を荒らげるなんて。


 ラジオの向こうで、何かが決定的に揺れていた。


 布団を蹴って、上着を引っ掴んだ。


 エントランスを出ると、秋の冷たい夜風が顔を叩いた。駐輪場の脇、黒々とした葉を茂らせるツツジの根元を、スマホのライトで照らす。


 あった。


 湿った落ち葉の隙間に、小さな鈴のついた古びた赤い首輪が落ちていた。


 鈴は茶色く錆び、泥に汚れている。


 花がそれを拾い上げた瞬間だった。


 じわり、と手のひらから熱が広がり、目の前の景色に別の輪郭が重なった。


-----


 花が立っているアパートの駐輪場に、どこか懐かしい別の場所が、陽炎のように透けて見えた。


 縁側のある古い木造の一軒家だった。


 少し焦げたようなお線香の匂いと、古い畳の匂い、そして秋のひなたの香りが鼻腔をくすぐる。


 庭に大きな柿の木が一本あって、まぶしい午後の光が縁側に斜めに差し込んでいた。


 そこには、小さな座布団が置いてある。まだ新しくて、鮮やかな赤色をした首輪の鈴が、お日様の光を浴びてキラキラと輝いていた。


 縁側に、老いた女性が座っていた。


 白髪を丁寧にまとめた、背の小さな人だった。膝の上に風呂敷をたたんで置いて、愛おしそうに縁側の端を、指でとんとんと叩いていた。


「おいで」


 女性が、言った。


 縁側の下の暗がりから、ふらりとサバトラの猫が現れた。毛並みが良く、少し太めの、どこにでもいるような猫。猫は小さく鳴いて縁側に飛び乗ると、女性の皺だらけの膝に、何度も何度も頭を押しつけた。女性が、顔中の皺を深くして笑った。


「今日もサボってたの」


 猫が、ゴロゴロと幸せそうに喉を鳴らした。


 それから、女性がペースト状のおやつをそっと差し出した。猫は迷わず、夢中でなめた。


 場面が、切り替わった。


 同じ家の薄暗い玄関先。激しい雨が降っていた。冷たい雨の匂いがあたりを支配している。


 女性が、古びたビニール傘を持ったまま、戸口に立っていた。傘を差そうともせず、ただ呆然と、激しく打ちつける雨の向こうを見つめていた。


「……どこ行ったの。ご飯だよ」


 声が、痛いほど震えていた。


-----


 はっと我に返ったとき、花は冷たいアスファルトの上にしゃがみ込んだまま、激しく涙を流していた。


 今のは、この首輪の記憶だ。


 何年も、あの雨の日の玄関で、帰らない猫を待ち続けた誰かの、執念とも言える切ない想い。


 花は小さく呟いた。


「……サボリ」


 あの縁側の猫が、サボリだとすぐに分かった。


 サボリが以前、ラジオで漏らしていた言葉が頭の中で繋がる。


 ペースト状の、まぐろ味の。懐かしいな。


 あのとき花は、ただの食べ物の記憶だと思っていた。でも違った。あれは縁側の記憶で、女性の膝の記憶で、帰るべき場所の記憶だった。


 サボリは何かの拍子に境界を越えて、異界に迷い込んで戻れなくなった。


 そして残された首輪は、待ち続けるうちに付喪神となり、サボリを追ってこのラジオにメールを送ってきたのだ。


 花はゆっくりと立ち上がり、首輪をポケットに仕舞って部屋に戻った。


 スマホを開き、メールの宛先をタップした。


『サボリさん。首輪、ちゃんと預かりました。明日、近くの神社に届けておきます。あなたが今も、あの縁側で待たれていること、私は知っています』


 送信ボタンを押す。


 試しにラジオのツマミを回してみたが、聞こえるのはザーザーという冷たい砂嵐だけだった。


 今夜はもう、あのだるそうな声が戻ってくることはなかった。


 ベッドに入り、目を閉じる。


 そのとき、静まり返った部屋に、チリン、と澄んだ音が響いた。


 窓は閉まっている。風もない。テーブルの上の首輪が、一度だけ鳴ったのだ。


 それがサボリからの返事なのか、首輪自身の「ありがとう」なのかは分からない。


 花は目を開けず、胸の前でそっと両手を重ねた。

 あの縁側のようなあたたかさが、布団の中にゆっくりと満ちていくのを感じながら、花は静かに瞼を閉じた。

 

 

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