第4話:フィルターの話
最近、よく眠れる。
花は布団の中でそのことを、ぼんやりと自覚した。
確認というより、ふとした「発見」に近かった。
いつから眠れるようになったのか、正確な境界線は分からない。
ただ、朝アラームが鳴ったときに「あ、夜中に一度も起きなかったな」と気づく日が増えた。
頭の中で止まらなかった、あの嫌な独り言の音量も、いつの間にか下がっている。
変わったのは、枕元の古い防災ラジオだった。
砂嵐の向こうから聞こえる、あの低くてだるそうな声を聴いていると、日中にあった嫌なことが、どうでもよくなるのだ。
今夜も、サボリの声を子守唄代わりに、花はうとうとと意識を沈めかけていた。
「……あー。今夜は、異界からのメールは特にないですね。皆さん元気なんですかね。元気なら結構です。私も早く寝たい。目がしょぼしょぼする」
そうだな、と花は思った。
今夜はもう寝よう。ツマミを戻そうと、半分眠った手を伸ばしかけた。
「……あ、チッ。もう一通あったわ。めんどくさ」
手が、ピタリと止まる。
「……なんだこれ。……おい、眠れない人間。これ、お前の部屋のやつからだぞ」
花はガバッと目を開けた。
「ラジオネーム、『フィルター』。……ほう、付喪神の類ですかね。はいはい、拝読します」
爪が机をカチカチと引っかく音がして、サボリが読み始めた。
「『サボリさん、こんばんは。最近、私の部屋の人間が早く寝てしまうので、夜が静かで少し寂しいです。以前は、午前三時になっても部屋の電気が消えなくて、ため息ばかり聞こえていたので心配でした。クタクタになって帰ってきた日は、なるべく早く部屋が暖まるように、私なりに強風で頑張っていたつもりです。最近は寝顔が穏やかになって、本当に安心しました。気づいてほしいわけじゃないけれど、いつも、今日も部屋を快適にしておいたよ、という気持ちを伝えるにはどうしたらいいでしょうか』……以上です」
重い沈黙。
「……知らんがな」
サボリが吐き捨てた。
いつものお約束だ。
でも今夜は、そのあとに少しだけ長い沈黙があった。
「冷えは万病の元ですからね。ちゃんと労ってやれよ、お前。せめてフィルターの掃除くらいしてやりなさい。……あと、これは契約外のただの独り言ですけど。付喪神になるくらい長く一緒にいてくれた古いもんには、たまに声かけてやれば喜びますよ。……知らんけど。はい、閉店」
プツッ。
砂嵐になった。
花は布団の中で、天井を見上げた。
視線の先にあるのは、壁に設置された、ごく普通のエアコンだ。
この賃貸アパートに引っ越してきたときからそこにあって、一度もまともに意識したことのなかった家電。
当然、掃除なんてしたことはない。
仕事のストレスで、部屋を足の踏み場もないほど荒らし、床で倒れるように寝ていた時期も。
深夜に泣きながらラジオをいじっていた夜も。
あいつは文句ひとつ言わず、ずっと高いところから、花のために温かい風を送り続けてくれていたのだ。
「……ごめん」
暗闇に向かって、ぽつりと言ってみた。
エアコンは何も答えない。
ただ、かすかに駆動音を響かせながら、ぬるい風を静かに吹き出し続けていた。
翌朝、花はいつもよりずっと早く目が覚めた。
土曜日の朝に自発的に起きるなんて、いつぶりだろう。
いつもなら、泥のように昼過ぎまで眠って、起きた瞬間に「一日を無駄にした」と自己嫌悪に陥るのがお決まりだった。
けれど今日は、起きる理由があった。
クローゼットの奥から、埃をかぶった掃除機を引っ張り出す。
スマホで「エアコン フィルター 掃除」と検索した。動画を見ながら、おそるおそるエアコンのフロントパネルを開ける。
「うわ……すご」
思わず声が出た。
フィルターには、フェルト生地のようにつみ重なった灰色の埃がびっしりと張り付いていた。こんなになるまで放っておいた自分に呆れながら、慎重に格子を外す。
掃除機で大まかに埃を吸い取り、お風呂場へ持っていった。
シャワーの裏側から水をかけると、細かい汚れがみるみる落ちていく。
使い古した歯ブラシで網目を優しくなぞり、水気を切って、ベランダの物干し竿に立てかけた。
ベランダから部屋を振り返ったとき、花はハッとした。
乾いていない洗濯物の山、読みかけのまま床に散らばった雑誌、出しっぱなしのマグカップ。
フィルターを綺麗にしたら、急に「部屋の汚れ」が視界に飛び込んできたのだ。
いつもなら「また今度でいいや」と見ないふりをするのに、なぜか今日は、身体がすっと動いた。
音楽をかけるわけでもなく、ただ黙々とゴミを袋に詰め、服を畳んでクローゼットへ押し込み、床に掃除機をかけた。
一箇所が綺麗になると、不思議と次の汚れが気になってくる。
一時間後。すっかり乾いたプラスチックのフィルターを、元の場所へとパチリとハメ込んだ。フロントパネルを閉じて、一歩下がってエアコンを見上げる。外見は何一つ変わっていない。
花は少し恥ずかしくなりながらも、誰もいないワンルームで、その白い機械に向かって呟いた。
「……いつも、ありがとう。お待たせ」
その瞬間、自分の胸のつかえが、すうっと取れていくのが分かった。
その夜、花はエアコンのスイッチを入れた。
ピピッという電子音の後、ゆっくりとフラップが開く。
……あ。
気のせいかもしれない。
でも、いつもよりずっと駆動音が静かで、吹き出してくる風が、どこか柔らかい気がした。匂いも、心なしかお日様の匂いがする。
花はベッドの上に寝転がり、スマホでメールを開いた。
『ラジオネーム:よく眠れる会社員です。
サボリさん、今日、お部屋の掃除をしました。フィルターも洗ってピカピカです。空気があたたかくて、なんだかエアコンも嬉しそうに回っています。ちゃんと、声もかけてみました』
送信ボタンを押し、すぐにラジオのツマミを回す。
ザザ……プツッ。
「……あー。部屋を掃除したとかいう、無駄に健康的な報告が届いてますね。フィルター洗ったと。……ふん、まあ、これで少しはマシな酸素が吸えるんじゃないですか。よかったですね」
サボリのだるそうな声。けれど、そのあとに少しだけ間があって、
「エアコンに話しかけた、ですか。……バカみたいですね。……まぁ、バカみたいですけど、そういうバカな人間、嫌いじゃないですよ。……じゃ、今夜は閉店」
ゴロゴロゴロ……と、マイクの極至近距離で、喉を鳴らすような低くて不器用な音が微かに響き、
プツン。
電波が切れた。
花は、静かになったラジオを見つめて、ベッドの中でくすくすと笑った。
サボリのやつ、絶対に今、前足で顔を洗っている。
ツマミを戻して、毛布を被る。
エアコンが、低く心地いい音を立てている。部屋の空気はどこまでもあたたかく、優しかった。
花はエアコンに背を向けて目を閉じた。背中にあたる風が、まるで「おやすみ」と頭を撫でてくれているようだった。




