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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆも


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3/8

第3話:砂嵐の、向こうの向こう

 その夜、花の頭の中にあったのは仕事のことではなかった。


 課長の声でも、打ち合わせのタイミングでも、確認漏れのデータでもなかった。


 もっと古いもの。二十年近く前にどこかに仕舞い込んでいたはずの記憶が、昨日の昼休みに、あのカフェの影の中からするりと出てきてしまった。


 花は布団の上で膝を抱えて目を閉じた。


 瞼の裏に、夏祭りの光が滲んだ。


-----


 あれは、小学二年生の夏だった。


 地元の神社の夏祭りは、毎年八月の第二土曜日に開かれた。参道に屋台が並んで、金魚すくいと綿菓子と焼きそばの匂いが混ざり合って、大人も子供も汗をかきながら浴衣を着て歩く、あの夜。花は母の手を握って、父の背中を追いかけながら、人混みの中を歩いていた。


 はぐれたのは、一瞬だった。


 綿菓子の屋台を振り返って、もう一度見たくて、ほんの少しだけ歩みを止めた。それだけで、人の波に飲まれた。母の手がなくなっていた。父の背中が見えなかった。


 花は声を上げようとして、声が出なかった。


 人が多すぎた。みんな、知らない人だった。提灯の赤い光が揺れていて、太鼓の音が響いていて、自分だけが透明になったみたいに、誰も花を見ていなかった。


 泣きながら歩いた。参道から外れて人の少ない方へ、暗い方へ。気づいたら神社の裏手に迷い込んでいた。


 石段の上に小さな社があった。その裏に、古い木が何本か立っていた。そこは提灯の光も届かない、暗い場所だった。夏なのに、木の根元だけ、ひんやりしていた。


 花はそこにしゃがみ込んで、声を殺して泣いた。


-----


 一人きりになったような感覚を、大人になってから何度か思い出したことがある。


 転校した先の教室で、誰の名前も知らない朝。入社して最初の一週間、エレベーターの中で誰とも目が合わない昼。


 でも、あの夜が一番最初だった。あの暗い木陰が、一番最初の「ひとりぼっち」だった。


 どのくらい泣いていたか、分からない。


「……うるさいなぁ」


 声がした。


 低くて、くぐもっていて、少しかすれた声だった。怒っているというより、ひどく面倒くさそうな声だった。


 花は泣くのをやめて、顔を上げた。


 暗くてよく見えなかった。木の根元の影の中に、何かいる気がした。光の加減で、目だけがぼんやり光っていた。


「迷子かよ。……ダルいなぁ」


 独り言のようだった。批判ではなく、ただそう思っているだけの声。でもその声は、花のことをちゃんと見ていた。


「……そっちじゃない。こっち来な」


 どこを指しているのか見えなかった。でも花は立ち上がって、声のした方へ一歩踏み出した。二歩。三歩。


 気づいたら、明るかった。


 神社の裏手からいつの間にか抜け出して、大通りの街灯の下に立っていた。参道の端が見えて、屋台の光が見えて、人の流れが見えた。


 足元を、何かがすり抜けた。


 サバトラの野良猫だった。振り返らずに暗い方へ歩いていった。


 花が「ありがとう」と言う前に、猫は夜に消えていた。


 その数分後、泣き顔の母に見つかった。


-----


 花は目を開けた。


 天井のしみが、暗がりの中でぼんやりしていた。


 二十年近く、ちゃんと思い出したことがなかった。夏祭りで迷子になったことは覚えていた。でも「暗い木陰」と「だるそうな声」と「足元をすり抜けた猫」の記憶は、いつの間にか、夢と現実の境界のあたりに溶けていた。


 昨日、カフェの影の中で何かが丸まっているのを見たとき、その記憶がするりと戻ってきた。


 あのときの声と、サボリの声が、よく似ていた。


 似ている、と思ったのは今夜が初めてではなかった。最初にラジオを聴いたときから、どこかに引っかかっていた。だるそうな低い声。面倒くさそうなのに、ちゃんと見ている目。


 花はしばらく天井を見ていた。それから、スマホを手に取った。


 メールのアプリを開く。いつもは短く書く。「今夜もできました」とか、「ありがとう」とか、それくらい。でも今夜は違った。


 花はゆっくりと、文字を打ち込んだ。


『ラジオネーム:眠れない会社員です。


サボリさん、唐突ですが、私は子供の頃、迷子になった神社の裏であなたに会った気がします。小学二年生の夏祭りの夜でした。暗い木陰で泣いていたら、だるそうな声が聞こえて、気づいたら大通りに出ていて、足元をサバトラの猫が歩いていきました。


あのとき、私を助けてくれたのは、あなたですか』


 送信ボタンを押して、防災ラジオのツマミを回した。


 ザー……ザザ……プツッ。


 心臓が少し速くなっていた。馬鹿みたいだ、と思った。猫のラジオDJに、二十年前の話を確認しようとしている。でも、送ってしまった。


「……フニャ。ハイどうも。午前一時四十分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです」


 いつもと同じ、だるい声。


「……あー。今夜は、なんか妙に必死なメールが届いてるんで、しょうがないから読みます。仕事なんで」


 花は膝を抱えた。


 サボリが、メールを読み上げた。花が書いた文章が、そのまま電波に乗って、自分の部屋に戻ってきた。サバトラの猫のこと。暗い木陰のこと。だるそうな声のこと。自分の声で書いたはずなのに、他人に読まれると、少し恥ずかしかった。


 読み終えたあと、深いため息が流れた。


「……知らんがな」


 花は、少し笑った。そう来ると思った。


「人間の子供なんて、どれも同じ顔に見えますよ。大体、猫の記憶力なんて三歩歩けばリセットされるんです。そんな大昔のこと、覚えてるわけないでしょう。……はい、この話終わり。今日はもう閉店。ダルいので寝ます」


 プツッ。


 砂嵐になった。


 花はラジオを膝の上に置いて、目を伏せた。


 やっぱり、そうか。勘違いだったのか。世の中にサバトラの猫は無数にいる。だるそうな声も、気のせいだったかもしれない。二十年前の記憶なんて、そもそも曖昧なものだ。


 花はため息をついて、ツマミに手をかけた。


 そのとき。


 砂嵐の向こうから、かすかに、声が漏れてきた。


 放送が終わったはずだった。電波が切れたはずだった。でも砂嵐の隙間に、独り言のような、本当に小さな呟きが混じっていた。


「……まあ、でも」


 花は手を止めた。


「あの神社の裏の木陰は、風が通って、昼寝には最高だったな。あの頃は近所の人間が、たまにいいもんくれてたし……銀色の缶に入った、まぐろのやつ。懐かしいな」


 クチャクチャと、口の周りを毛づくろいするような小さな音がして、それから、


「あー、ダル。寝よ」


 プツッ。


 今度こそ、本当に電波が切れた。


 花は、しばらく動けなかった。


 神社の裏の木陰、と言った。


 花はメールに「暗い木陰」とだけ書いた。神社の裏とは書いたが、風が通っていたとは書いていない。昼寝に最高だったとも書いていない。


 サボリはあの頃、あの神社の近くに住んでいたと言った。


 今は、ラジオDJとして異界にいる。


 その間に、何があったのか。


 花は防災ラジオを両手で持って、胸の前で抱えた。小さくて角が丸くて、埃をかぶっていた。電池が古くて、チューナーの目盛りがずれていて、普通の周波数はほとんど拾えない。でもこのラジオは、あの夜からずっとここにあった。一度も使わないまま、でも捨てなかった。


 サボリはずっと、いた。


 夏祭りの夜の木陰にも。深夜の砂嵐の向こうにも。だるそうに、面倒くさそうに、でも確かに、迷子の背中をほんの少しだけ押してきた。


「ありがとう、サボリ」


 花は、小さく言った。


 誰にも届かない声で、でも確かに言った。


 防災ラジオは砂嵐のままで、何も答えなかった。


 それでよかった。


 花はラジオをそっと床に置いて、布団に潜り込んだ。目を閉じると、暗い木陰の記憶が今度は怖くなかった。ちゃんと風が通っていた。夏の夜の木陰で、誰かがだるそうに、でも確かに、こちらを見ていた。


 眠れた。


 今夜は、ずいぶん早く、眠れた。

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