第2話:影の貸し方
その夜も、花は眠れなかった。
布団の中で目を閉じると、今日一日の出来事が勝手に再生される。午後の打ち合わせで発言しようとして、タイミングを逃したこと。
先輩の「藤井さんって、いつも静かだよね」という言葉が、褒めているのかどうか、今もよくわからないこと。
静かなのではなく、声の出し方がわからないのだ、と思ったけれど、それも言えなかった。
花は布団を頭まで引き上げて、それから蹴飛ばして、仰向けになった。
防災ラジオに手を伸ばす。
もう迷わなかった。
昨日の夜からそう決めていた。チューナーをゆっくり回して、砂嵐の中を探る。ザー、ザザ、プツッ。あの周波数は毎晩ここにあるのかどうかも分からないけれど。
──────ザー……プツッ。
「…………フニャ」
あった。
花は息を吐いた。
「ハイどうも。時刻は午前一時四十八分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです。今夜は……あー、眠い。特に言うことないです。さっさとメール読みます」
紙の束をめくる音。引っかくような爪の音。いつもと同じだ、と花は思った。
同じだ、と思えるくらいには、聴いている。
「ラジオネーム『定位置を奪われた』さん。商店街の端っこに二百年住んでる……あー、妖怪の類ですね。拝読します」
「『サボリさん聞いてください。私が百年以上、昼寝の定位置にしていた純喫茶が、先週リニューアルして、コワーキング・オーガニック・カフェとかいう名前になってしまいました。壁は真っ白、照明はまぶしく、人間たちがアグリーだのコミットだの謎の呪文を唱えながらパソコンを高速で叩いていて、薄暗い影がどこにもありません。落ち着かなくて干からびそうです』……以上です」
沈黙。
「……知らんがな。時代の波に乗って、あんたもマックブックでも買いなさい」
花は毛布の中で、思わず小さく笑った。
それから、少し間があった。
「……はぁー。でもあそこの純喫茶のマスターがくれる端切れのハムは美味しかったんですよね。改装されてから意識の高いスムージーしか置いてなくて、私も困ってます。……なんなら昔のほうがよかった、なんて思ってる場合じゃないんですけどね。仕事なんで」
最後の一言が、少し違う温度で混じった気がした。花は毛布を顎まで引き上げた。
「おい、眠れない会社員。お前のことだ」
花の笑いが、止まった。
「明日の昼休みに、そのカフェに行きなさい。駅前の商店街、突き当たりの、前は『純喫茶フジ』だったとこ。今は横文字の名前になってる。で、一番奥の、観葉植物の陰になってる席に座って、そいつに自分の影を貸してやって。座ってるだけでいい。契約上、私が直接何かするのは難しいので。よろしく」
プツッ。
砂嵐になった。
花はラジオを胸の上に置いて、天井を見た。
影を貸す、という意味が、よくわからなかった。
でも昨日だって、意味がわからないままやって、なんとかなった。
目を閉じた。
今夜は、わりと早く、眠れた。
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翌日の昼休み、花は駅前の商店街を歩いていた。
サンドイッチを買って会社のデスクで食べるのがいつもの日課で、外に出るだけで少しハードルが上がる。でも今日は最初からそのつもりで来たので、迷っている時間はなかった。
商店街は昼食を求める人の波で、花は人の隙間を縫うように歩いた。
突き当たりに、それはあった。
真っ白い看板に、細いフォントで横文字が並んでいる。ガラス張りの店内が、道路から丸見えだった。清潔で広くて、隅々まで光が届いていた。窓際のカウンター席では、三人が三人ともノートパソコンを開いていた。
花はこういう場所が苦手で、入り口の前で少し止まった。
苦手というより、自分がいていい場所なのかどうか、入る前から分からなくなる。
ああいう場所にいる人たちは、みんな何かをちゃんとやっていて、ちゃんとした目的があって、珈琲一杯で何時間も粘る後ろめたさなんて感じていないように見える。
花は特に何もちゃんとやっていないし、今日の昼休みの目的は「妖怪に影を貸す」という、説明のしようがないものだった。
でも、と思った。
サボリに言われたから、来た。それだけでいい。
花はドアを押した。
入った瞬間、音が変わった。
外の喧騒が遮断されて、代わりにキーボードの音と、かすかなBGMと、コーヒーミルの低い唸りが満ちていた。カウンターに立つスタッフが、笑顔で「いらっしゃいませ」と言った。花は「一人です」と言って、一番奥を指差した。
一番奥に、大きな鉢植えがあった。
モンステラだった。葉に大きな切れ込みの入った、濃い緑の植物。鉢植えの横に、二人掛けのテーブルがひとつ。照明の光がモンステラの葉に遮られて、そこだけほんの少し、影になっていた。
花はその席に、滑り込んだ。
メニューを開いて、一番安いものを探した。アイスコーヒー、七百円。チェーン店の倍近い値段だったが仕方がない。注文して、スマホを取り出して、でも特に見るものもなくて、テーブルの木目を眺めた。
店内の音が、遠かった。
アグリー、と誰かが言った。コミットが、と誰かが答えた。タイパが、リスケが、スケーラビリティが、と言葉が飛び交っていたが、花には呪文の羅列にしか聞こえなかった。
自分はこの場所に、いていいのだろうか。
そういう気持ちが、じわじわと滲んできた。
アイスコーヒーが来た。
花はストローで一口飲んで、小さくため息をついた。
そのとき、足元に何かを感じた。
気配というより、温度だった。足首のあたりに、ほんのわずか暖かさが集まるような。
花はそっと、テーブルの下を覗き込んだ。
影があった。
花自身の影が照明を受けて床に伸びている。その影の中に何かいた。形というほどの形はない。煤のような、毛玉のような、小さな揺らぎ。息をしているのか、ただそこにあるのか、境界が曖昧だった。でも確かに、花の影の中で、丸まっていた。
さっきまで干からびそうだった何かが、ここに来て、ほっとしている。
花にはなぜか、そう分かった。
テーブルの下から顔を上げて、背中を少し丸めた。
意図したわけではない。ただ、そうしたら影が少し大きくなる気がした。
背を丸めるとテーブルの下の影がほんのわずか広がった。
こういう姿勢をとるとき、花はいつも「また縮こまってる」と自分を責めるのに、今日は違った。
誰かの、役に立っていた。
アイスコーヒーを、ゆっくり飲んだ。
スマホもメニューも何も見なかった。キーボードの音も横文字の呪文も少し遠くなった。モンステラの葉が、照明を受けて輪郭だけ光っていた。
居場所がない、と思っていた。
でも今、この席には、二つの「居場所のないもの」がいた。まぶしすぎる場所で影を探して小さくなっているもの同士。
花と、名前も知らない何かと。
それで十分な気が、した。
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昼休みの終わりを、スマホのアラームが告げた。
花はアイスコーヒーを飲み干して、財布を出して、席を立った。
立ち上がった瞬間、足元がほんの少しだけ温かかった。気のせいかもしれない。でも花は確認しなかった。確認しなくていいと思った。
カフェを出ると商店街の昼の光が眩しくて、思わず目を細めた。
午後もたぶん打ち合わせがある。発言のタイミングを、また逃すかもしれない。先輩にまた、静かだねと言われるかもしれない。課長に、確認したの、と言われるかもしれない。
でも、と花は思った。
目立たなくていい。ちゃんとしていなくていい。
ただ、なんとか、生きていけばいい。
そう思ったとき、背中がさっきより少しだけ伸びていた。
商店街の端の、リニューアルしたカフェの窓の向こうで、モンステラの葉が、静かに揺れていた。
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その夜、防災ラジオの前に座った花は、昼間のことを思い出しながらメールを書いた。
『昼休みに行ってきました。ちゃんと座ってきました。影の中の何かが、あたたかかったです』
宛先には『サボリ』の文字。送信ボタンを押すと、スマホの画面が淡く光って、すぐに消えた。
ツマミを回すと、すぐに繋がった。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……あー、報告メールが届いてますね」
『影の中の何かがあたたかかった』とのことで。……そうですか」
短い沈黙。
「まあ、二百年も薄暗い場所で昼寝してきたやつにとっては、死活問題ですからね。助かったと思いますよ。感謝はしないでしょうけど。妖怪なんで」
爪が机を叩く音がした。
「……お前も、あの席で少しくらいはゆっくりできましたか。できてたなら、まあ、良し。……じゃ、閉店」
プツッ。
花はラジオを床に置いて、布団に潜った。
お前も、という言葉が、耳の奥に残っていた。
妖怪のことだけでなく、花のことも、ちゃんと聞いていた。
そういう言い方をする猫だった。
眠れた。




