第33話:コテツ、おいで
――ザザッ……。
おばあちゃんの呼び声が壁を穿ち、狂暴だった砂嵐が一瞬だけ、しんと静まり返った。
その奇跡のような一瞬の静寂の中に、ひどくかすかな、掠れた声が混じった。
「……今の、声は……」
サボリだった。
途切れ途切れで、気の遠くなるほど遠くて、けれど確かに、あの聞き慣れたサボリの声だった。
「聞こえますか!」
花はスピーカーに向かって必死に叫んだ。
「ここにいます! 神社の裏手、あの大きな木の根元にラジオを持ってきました!」
「……聞こえます、花……。……ただ、向こうの圧力が……強すぎる。経路が……またすぐに塞がれそうだ……」
大木の根元で地面に手を当てていたみやびが、目を閉じたまま、痛ましそうに小さく眉を寄せた。
「強くなっています……。異界の管理者が、本格的にこちらの境界を叩き潰しにかかってきました」
「みやびさん、どのくらい持ちそうなんだ!?」
蓮が焦りを含んだ声で叫ぶ。
「分からないです……!」
みやびは歯を食いしばった。
「でも、絶対に押し返します……っ!」
蓮がすかさず花の隣に一歩踏み出し、大木に向かって鋭い視線を向けた。
「俺も何かします。花さん、前みたいに、俺たちの認識の声を重ねればいいですか」
「うん!」
花は頷いた。
「みやびが作ってくれている細い経路に、私たちの声を重ねて。それで強引に、サボリとの繋がりを保つの!」
「了解です、やります!」
花はラジオを両手でしっかりと抱きかかえ、暗闇の奥に向かって叫んだ。
「サボリ、聞いて! あと一件でお悩みの件数が満たされるの! でも今、管理者の妨害のせいで、最後の一件のメールがそっちのポストに届かない状態になってる!」
「……知っています。奴らが……異界の門を封鎖している……」
「その封鎖を解く方法は、本当にないの!?」
短い沈黙。スピーカーの向こうで、地鳴りのような砂嵐が再び激しさを増していく。
みやびが「くっ……」と短く息を詰めた。
「……あります」
サボリの声が響く。
「ただ、それをするには……私が、この場所に向かって……『名前』を捨てなければならない」
花は、思わず息を呑んだ。
「名前を、捨てる……?」
「……サボリという名前を……手放すということです。この名は……異界のシステムに組み込まれ、働くための……契約の名前だ。これを破棄すれば……縛りが消えて向こうの封鎖は解ける。でも同時に……このラジオへの経路も……一時的に完全に切断される」
「一時的にって……じゃあ、その後はどうなるの!?」
「……別の名前で……こちら側から繋ぎ直せれば……あるいは現世に戻れるかもしれない。でも……それが成功するかどうかは……私にも分からない」
花は、振り返っておばあちゃんを見た。
おばあちゃんは、懐中電灯を持ったまま、じっと静かにそのラジオを見つめていた。戸惑う風でもなく、ただその愛おしい声を一言も聞き漏らさないように。
「別の名前……」
花は確信を込めて、スピーカーに問いかけた。
「『コテツ』、ですか」
今夜、一番長い沈黙が流れた。
「……そうです」
サボリは、寂しそうに、けれどどこか愛おしそうに呟いた。
「でも、その名を……心から呼んでくれる人間が、現世に直接いてくれないと……こちらの世界に魂を繋ぎ直せない。私のような野良に……いまさらその名前を持つ資格が……あるかどうか……」
花は、おばあちゃんを見た。
おばあちゃんもまた、花をじっと見つめ返した。
花は何も言わなかった。言う必要がなかった。
おばあちゃんは、ゆっくりとラジオの前にもう一度膝をついた。持っていた懐中電灯をそっと地面に置くと、骨張った、皺の刻まれた両手で、温めるようにラジオの筐体を優しく包み込んだ。
「コテツ」
おばあちゃんは言った。
その声は、驚くほど穏やかだった。
突然いなくなったことを怒るでもなく、三年間の孤独を悲しむでもなかった。
ただ、呼んでいた。
あの頃、毎日毎夕、縁側やこの木陰で、愛しい我が子を呼んでいたのとまったく同じ、世界で一番温かい声だった。
「コテツ。あなたがどこに遠回りをしていても、どんな姿になっていても、私はずっとコテツを待っていたわよ。だから、もうおよしなさい。帰っておいで」
ゴォォォッ、と風もないのに頭上の木の葉が激しく狂ったように揺れた。
異界の管理者が抵抗している。契約の破棄を阻もうと、封鎖の力を何倍にも強めていく。ラジオのスピーカーから、割れんばかりの激しいノイズが火花のように散った。
みやびが、小さな両手をしっかりと神社の地面に突き立てた。
「花さん、蓮さん! 声を出してください……今です!!」
花と蓮は、同時に声を重ねて叫んだ。
「サボリ! 聞こえますか!」
「コテツ! 聞こえますか!」
二つの呼び名が、現世の確固たる形となって、夜の木陰に美しく重なり響いた。
みやびが地面にぐっと力を込める。三百四十二年もの間、境界の神様として生きてきた彼女の全存在の感覚が、その一点に集束していた。
砂嵐の音が、限界の頂点に達した。ラジオの本体が悲鳴を上げるように激しく振動する。
そして――。
ぷつん、と。
すべての電波が、切れた。
静かになった。
狂ったように揺れていた木の葉が、ぴたりと動きを止めた。
ラジオは冷たい沈黙を守っている。
誰も、呼吸をすることすら忘れたように喋らなかった。
みやびが、ゆっくりと泥に汚れた手を地面から離した。肩が小さく上下し、息がひどく乱れている。
「みやび……」
花が駆け寄る。
「大丈夫です……」
みやびは弱々しく微笑んだ。
「ただ、少し……疲れました」
蓮がすかさずみやびの隣にしゃがみ込み、その小さな背中にそっと温かい手を当てて支えた。
おばあちゃんは、ラジオを両手で包んだまま、じっと動かずに待っていた。
深い、深い沈黙が続いた。
一分。二分。
花は、息を詰めてラジオを見つめた。砂嵐の音すら来ない、完全な、絶対的な無音。
サボリという名前を手放した。異界の経路は完全に切れた。
あとは――新しい名前で、本当に繋ぎ直せるかどうか。
花は祈りを込めて、ラジオのツマミを、もう一度だけゆっくりと回した。
ザザ……ザー……。
砂嵐が、戻ってきた。
けれど、今度の砂嵐は、先ほどまでの刺すような冷たさとは違っていた。ひどく軽やかで、向こう側から押し返してくるような禍々しい抵抗が、嘘のように消え失せている。
封鎖が、解けたのだ。
「……聞こえますか」
花は震える声で話しかけた。
砂嵐の向こう側で、何かがのそのそと動いたような気配がした。
それから。
「……フニャ」
声が、届いた。
確かにサボリの声だった。けれど、いつもより少しだけ、現世の耳に近い場所から響いているような気がした。
「……聞こえます」
「サボリ!」
花は思わず叫んだ。
「……サボリ、という店主は……もう、たった今閉店しました」
と、スピーカーの向こうの声は少し照れくさそうに、けれど穏やかに言った。
花の胸の奥が、ぎゅっと切なく締め付けられる。
「……じゃあ、あなたは」
「……コテツです」
と、その声は告げた。
「今夜だけ、名前が変わりました」
おばあちゃんが、ラジオを見つめた。その瞳に、月明かりを反射した大粒の涙がじんわりと潤んでいく。
「コテツ」
おばあちゃんは呼びかけた。
「……はい」
声が、優しく応じる。
「……お久しぶりです。おばあちゃん」
おばあちゃんは、ラジオを愛おしそうに胸に抱きしめた。地面に置かれた懐中電灯がコロンと転がり、二人の手元を優しく照らす。
「どこに行ってたの……」
おばあちゃんの声は、子供のように震えていた。
「……少し、遠いところに迷い込んでいました」
声は、しみじみと言った。
「暗くて出られなくて、なかなか帰れなくなっちゃって。でも……帰りたかったです。ずっと、ずっと、おばあちゃんのところに」
「帰っておいで」
おばあちゃんは何度も頷いた。
「あなたの好きなご飯、ちゃんとあるからね」
スピーカーの向こうで、少しだけ愛おしそうな間が置かれた。
「……はい」
最後の一件のお悩みメールが届いたのは、そのすぐ後のことだった。
ラジオのスピーカーから、これが最後となる、静かでだるそうな、でも心地よい声が流れる。
「ラジオネーム、『迷い猫』。……猫の霊、ですね。拝読します」
コテツの声が、最後のお悩みを読み上げた。
「『ずっと、大好きな家に帰りたかった。でも、帰り道がどうしても分からなかった。誰かに、帰り道を教えてほしい』……以上です」
花は、ラジオを真っ直ぐに見つめて微笑んだ。
「帰り道なら、もう分かっているはずです。あなたをずっと愛して、呼んでくれる人の声を、ただ真っ直ぐに辿っていけばいいだけだから」
「……そうですか」と、コテツは言った。
「そうです」
花は深く頷いた。
「もう、その声はちゃんと聞こえていますよね」
静かな、温かい間が流れた。
「……聞こえています」
コテツの声が、優しく微笑んだ。
「ずっと聞こえていました。……最初から、ずっと」
「じゃあ、行けますね」
「……はい。……花、蓮、みやび。ありがとよ」
おばあちゃんが、胸のラジオに向かって、もう一度だけ「おいで」と両手を広げた。
それを合図に、ラジオの砂嵐が、ゆっくりと、ゆっくりと凪いでいく。
ザー……ザザ……ザ……。
その瞬間、花はカバンの中に入れたあの手帳が、かすかに生き物のように熱を持った気がした。
見なくても分かった。最後の、五十件目の欄に、静かに、そして誇らしくチェックマークが書き込まれたのだ。
そして――完全な、美しい沈黙が訪れた。
ラジオは完全に沈黙し、その役目を終えた。
チリン。
大木の根元で、微かに小さな鈴の音が響いた。
花がハッとして足元を見ると、幾重にも重なった枯れ葉の上に、いつの間にか「それ」がいた。
サバトラの、美しい縞模様を持つ猫だった。
少しだけお腹が太めで、毛並みが驚くほど艶やかで、眠たそうな、でも最高に愛くるしい目をしている。
おばあちゃんはラジオをそっと地面に置き、その猫を見つめた。
サバトラの猫もまた、じっとおばあちゃんを見つめ返した。
おばあちゃんが、震える両手をそっと差し出す。
猫は、のそのそと、愛おしそうに歩み寄ると、おばあちゃんの膝の上にすとんと飛び乗り、その手のひらにぐりぐりと自分の頭を押し付けた。
おばあちゃんは、泣いていた。
声は一つも出していなかった。
ただ、大粒の涙が、サバトラの柔らかな毛並みの上にポロポロと落ちていた。
猫の頭を何度も、何度も愛おしそうに撫でながら、ただ静かに涙を流し続けていた。
「……ただいま」
猫が、甘えるように、小さく短く鳴いた。
花は、蓮と肩を並べて、少し離れたところからその光景を見守っていた。
みやびも、いつの間にか花の足元にそっと寄り添っている。
三人で、月明かりの下で抱き合うおばあちゃんと猫を、ただ静かに見つめていた。
蓮が、視線を落としたまま、掠れた小さな声で言った。
「……本当に、良かったですね」
「うん。本当に、良かったです」
花は微笑み、目元をそっと拭った。
みやびは何も言わなかった。でも、その大きな瞳が、月光を受けて優しく、きらきらと光っていた。
木々の間を、夜風が優しく通り抜けていく。
どこまでも穏やかで、全てを祝福するような、秋の夜の風だった。
花はカバンに手を入れ、あの古い防災ラジオを拾い上げようとして、ふと動きを止めた。
ラジオは、大木の根元、地面の上にそっと置かれたまま、静かに佇んでいる。
おばあちゃんが、猫を愛おしそうに腕に抱いたまま、花の方を振り返った。
「……ありがとう。本当に、ありがとうねえ」
「こちらこそ。信じて来てくださって、本当にありがとうございました」
花は深く頭を下げた。
「コテツがね、皆さんにお世話になったみたいで」
おばあちゃんは猫の耳を撫でながら微笑んだ。
「この子、あちらの世界で、ラジオのDJなんて大層なことをしていたの?」
「はい、していましたよ」
花は笑った。
「だるそうで、面倒くさそうで、口を開けば『知らんがな』って言うような店主でしたけど……でも、誰よりも優しくて、ちゃんとお仕事をやり遂げる最高のDJでした」
おばあちゃんは腕の中のサバトラの顔を見て、くすくすと嬉しそうに笑った。
「ふふ、そうでしょうねえ。この子、昔からそういう子だったから。いつもサボってばかりいるのに、私が本当に困っているときには、必ず一番に隣にいてくれる子だったから」
サバトラの猫は、おばあちゃんの腕の中で、ゴロゴロと幸せそうに、深く喉を鳴らした。
帰り道、三人で蓮の車に乗り込んだ。
車内にはしばらくの間、誰も何も言わず、心地よい静寂だけが満ちていた。
やがて、静かな住宅街に入ったあたりで、蓮が前を向いたままぽつりと言った。
「花さん、あのラジオ……置いてきましたね」
「うん」
花は助手席から窓の外を見つめながら答えた。
「あそこに、あの木の根元にあった方が、いい気がしたから」
「そうですね」蓮は優しく微笑んだ。
「あそこが、一番落ち着く場所でしょうからね」
後部座席から、みやびが静かに声を響かせた。
「あのラジオの付喪神さんは、どうなったと思いますか」
花は少し考え、それから温かい気持ちで答えた。
「コテツと一緒に、おばあちゃんの家に帰ったんじゃないかな。ずっとサボリの声を現世に運んできてくれたラジオだから……最後まで、あの子と一緒に行ったんだと思う」
「はい」
みやびは嬉しそうに頷いた。
「それが一番いいですね」
マンションの前に到着し、蓮は「またすぐ、手帳の件で連絡しますね」といつものように爽やかに笑って、車を走らせていった。
花とみやびは、静まり返った部屋へと入る。
ドアを開けると、そら、のあ、うにの三匹の猫たちが、眠たそうな顔でトコトコと出迎えてくれた。
新入りのうにがみやびの足元へ真っ先に駆け寄り、くんくんと匂いを嗅いで甘える。
花はコートを脱ぎ、部屋の隅にある棚へ視線を向けた。
そこには、もうあの古い防災ラジオはない。
置いてきたのだから、当たり前だった。
けれど、ずっとそこにあって、毎夜ノイズを響かせていた機械がないだけで、棚の上が驚くほど広く、少しだけ寂しく見えた。
花がしばらくその棚を見つめていると、みやびがそっと花の隣に並んだ。
「……寂しいですか」
「少しね」
花は微笑んだ。
「寂しいけれど……でも、本当に良かった」
「はい。本当に、良かったです」
みやびも並んで棚を見つめ、優しく微笑んだ。
花はこたつに足を滑り込ませた。
すぐに茶トラのそらが膝の上に乗り、黒猫ののあがぴったりと隣で丸くなる。三毛猫のうには、相変わらずみやびの膝の上を陣取って満足そうだ。
部屋は、ひどく静かだった。
耳をすましても、もうあの激しい砂嵐の音は聞こえない。サボリの気だるげな声も届かない。
「フニャ」
という抜けた挨拶も。
「知らんがな」
という突き放すような笑い声も。
「じゃ、閉店」
という、毎夜の合図も、もう二度と聞こえることはない。
けれど。
花の部屋には、今も神様のみやびがいる。
寄り添ってくれる、愛おしい猫たちがいる。
そして何より、今夜、コテツはあの大好きな大家族の元へと、無事に帰り着いたのだ。
花はゆっくりと、満ち足りた気持ちで目を閉じた。
心地よい静寂と猫たちの確かな体温に包まれながら、花は今夜も、穏やかに、深く眠りへと落ちていった。




