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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆもニャ
第二章 居場所のないもの

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第34話:おやすみ、サボリ

 翌朝、花はいつもより早く目が覚めた。


 パチリと目が覚めて、しばらくの間、ただ静かに天井を見つめていた。


 昨夜のあの神社の裏手での出来事が、決して夢ではなかったと確かめるように、そっと視線を横に向ける。部屋の隅の棚を見ると、やはり、あの古い防災ラジオの姿はなかった。


 布団の周りでは、そらと、のあと、うにが、お互いの体温を分け合うように丸くなって眠っている。ロフトの奥からは、みやびの神聖で穏やかな気配が微かに漂っていた。


 すべては、本当に起きたことだったのだ。


 朝ごはんのトーストを食べながら、花はスマートフォンの画面を開いた。


 蓮からメッセージが届いていた。


『昨夜はお疲れ様でした。なんだか今朝は、頭がぼんやりしています。花さんは大丈夫ですか』


 花はマグカップを置き、片手で文字を打ち込んで返した。


『大丈夫です。私も、なんだかずっとぼんやりしています』 


『そうですよね。……ラジオ、本当になくなっちゃいましたね』


『なくなりましたね』


『寂しいですね』


『寂しいです。でも、本当に良かったです』


『そうですね。本当に、良かったです』


 それだけの、他愛のない短いやり取りだった。けれど、今の二人にとっては、それで十分すぎるほど十分だった。


 パタパタと小気味よい音を立てて、みやびがロフトのはしごを下りてきた。


 すかさず新入りのうにがみやびの足元へと駆け寄り、嬉しそうに尻尾を立てる。みやびが小さな両手でうにを愛おしそうに抱き上げると、うにはゴロゴロと体全体を震わせて喉を鳴らした。


「おはようございます、花さん」


「おはよう、みやび。ゆっくり眠れましたか」


「はい、よく眠れました」


 みやびは微笑んだ。


「昨夜は少し、全力を出しすぎて疲れましたけれど、今朝はもうすっかり大丈夫です」


「良かった」


 みやびはうにを腕に抱いたまま、ふと棚のほうへ視線を向けた。古いラジオが長年鎮座していた、今はぽっかりと空いてしまったあの場所を、じっと愛おしそうに見つめている。


「みやびも、やっぱり寂しいですか」


 花が優しく訊ねた。


「寂しいです」


 みやびは素直に頷いた。


「でも、サボリは……コテツは、自分が一番帰るべき場所へ、大好きな人の元へ帰りました。それが、あの子にとって一番幸せなことだと思いますから」


「そうだね」


 花も微笑んだ。


 しばらくの間、二人は言葉を交わさず、静かな朝の時間を共有した。


 ふと見ると、茶トラのそらが棚の前までのそのそと歩いていき、ラジオのあった空間の匂いをくんくんと名残惜しそうに嗅いでいた。それから、不思議そうな顔をして花を振り返る。


「そらも、サボリがいなくなったの、分かるのかな」


「猫ですからね」


 みやびはそらを優しく見つめた。


「目には見えなくても、ちゃんと魂の気配で分かっていると思いますよ」


 昼過ぎになって、蓮が「お邪魔します」と花の部屋を訪れた。


 その手には、お馴染みの洋菓子店の紙袋が握られていた。


「これ、差し入れです」


 蓮が嬉しそうに笑いながら、こたつの上に大きなシュークリームを三つ取り出した。


「もちろん、みやびさんの分もありますよ」


「まあ! ありがとうございます」


 みやびの目がきらきらと輝く。


 三人でこたつに仲良く足を入れ、甘いシュークリームを頬張った。


 その周りを、猫たちがにぎやかにうろちょろと動き回る。蓮の引っ越しまで花が預かっているラテとモカとルウも含めて、部屋には今、六匹の猫たちが全員揃っていた。


 蓮がふと、クリームを口の端につけたまま棚を見上げた。


「ラジオ、やっぱり本当にないんですね」


「ないですね」


 花は小さく笑った。


「なんだか……あのラジオがないだけで、棚の上が妙に広く見えますね」


「そうなんですよ。私も朝、全く同じことを思いました」


 蓮はシュークリームをもう一口食べ、少し真面目な顔をして言った。


「サボリがいなくなっちゃって、これからどうなるんでしょうね。あの不思議なお悩みメールとか、もう届かないんですか」


「来ないと思います」


 花は首を横に振った。


「ラジオそのものがこちらの世界から消えて、異界との『経路』が完全に閉じましたから」


「そっか……。じゃあ、俺と花さんの『怪異お悩み解決バディ』も、これでめでたく解散ですかね」


 少し寂しそうに笑う蓮を見て、花は少しだけ考え、それから真っ直ぐに蓮を見つめた。


「ラジオがなくなったとしても」


 花は言った。


「みやびは今もここにいます。私には姿が見えるし、最近は蓮さんもみやびだけは見えてる。その事実は、何一つ変わらないですよね」


「……ええ、変わらないです」


「それに、たとえあちら側から定期的にお悩みが届かなくなったとしても……どうせ蓮さんの仕事柄、いわく付きの物件とか、新しい怪異とかが向こうから勝手についてくる日々は、これからも続くでしょうし」


「あはは、確かに。俺、そういうの引き寄せがちですからね」


 蓮が頭を掻きながら笑う。


「だから」


 花は悪戯っぽく微笑んだ。


「バディはこれからも継続、です」


「はい! ぜひ継続でお願いします」


 蓮が嬉しそうに顔を綻ばせる。


 こたつの向こうで、みやびがそんな二人を嬉しそうに眺めながら、静かに、優しく笑っていた。


 夕方、蓮が帰った後、花は一人でふらりと散歩に出かけることにした。


 猫たちの留守番をみやびに任せ、薄手の上着を羽織って外に出る。


 通りに一歩踏み出すと、秋の夕暮れの風が、心なしか少し冷たく頬を撫でた。


 色づき始めた住宅街の坂道をゆっくりと歩きながら、花は自然と、あの神社の方向へと足を向けていた。特に何かを考えていたわけではない。ただ、導かれるように身体がそちらへ向かったのだ。


 静まり返った鳥居をくぐり、どこか懐かしい参道を歩く。西に傾いた夕方の柔らかな光が、鬱蒼とした木々の隙間から、幾筋もの黄金色の斜光となって差し込んでいた。


 拝殿の裏手に回り、昨夜のあの場所へと向かう。


 大きな古木たちが、変わらずそこに何本も佇み、風を通してさらさらと葉を鳴らしていた。


 昨夜置いてきた場所に、あの古い防災ラジオは、もうなかった。おばあちゃんが持って帰ったわけではない。役割を終え、付喪神の力を失ったあの器は、コテツの魂と共に綺麗にあちらの世界へと消え去ったのだろう。


 代わりに、湿った枯れ葉の絨毯の上に、ぽつんと小さな猫の足跡が残されていた。


 花は木陰にしゃがみ込み、その足跡をじっと見つめた。サバトラの猫が、確かに現世のこの地面を力強く踏みしめ、そして歩き去っていった、愛おしい爪の跡。


 花は、自分の指先で、その小さな足跡をそっとなぞった。


「……お疲れさまでした」


 誰もいない静かな境内で、花はぽつりと呟いた。誰に届くわけでもなかったけれど、どうしても、その一言を口にしたかったのだ。


「ちゃんと、大好きな人のところに帰れたんだね。……本当に、良かったです」


 一陣の強い風が吹き抜け、地面の枯れ葉がふわっと宙に舞った。


 サバトラの足跡は、風に消されるようにして、少しだけ、優しく乱れた。


 花はゆっくりと立ち上がった。


 見上げた空には、どこまでも、どこまでも広大な夕焼けが広がっていた。


 燃えるようなオレンジ色の、深い、深い夕焼け。それは、あの日サボリとラジオの向こうで話した、あの実家の庭にある柿の木の色と、まったく同じ、温かい色をしていた。


 その夜。花はいつものようにこたつに入って、お気に入りの本を開いた。


 膝の上にはそらが陣取り、すぐ隣ではのあがすやすやと寝息を立てている。うにはロフトのはしごの下にちょこんと座り、大好きなみやびが下りてくるのを健気に待っていた。


 ラジオのない夜の部屋は、ひどく静かだった。


 ザザザーという激しい砂嵐の音も、あの少し鼻にかかった、やる気のなさそうな声も、もう聞こえない。


「フニャ」


 という間の抜けた挨拶も。


「知らんがな」


 というぶっきらぼうな口癖も。


「じゃ、閉店」


 という、夜の終わりを告げるいつもの合図も、ここにはない。


 本当に、静かだった。


 けれど――あの最初の頃の、凍りつくような静けさとは、まったく違っていた。


 一人暮らしを始めたばかりの頃の静けさは、世界に自分一人だけが取り残されたような、孤独な静けさだった。


 眠れない頭の中に、明日への不安や、昼間の仕事の反省、課長の小言といった「自分の独り言」がずっと鳴り響いている、ひどくうるさくて冷たい静けさだった。


 けれど、今夜の静けさは、驚くほど温かく、満ち足りていた。


 ロフトには、大切な神様のみやびがいる。

 足元には、命の温もりを伝えてくれる猫たちがいる。


 スマートフォンには、さっき蓮から届いた『明日の物件、ちょっと気になる噂があるんです』という賑やかなメッセージが残っている。


 棚の上にラジオはなくなってしまったけれど、あのラジオが運んできてくれた温かい「縁」のすべてが、今、この部屋の中に確かに溢れていた。


 花はそっと本を閉じた。


 何気なくスマートフォンを手に取り、メールのアプリを開いてみる。


 新規作成の画面で、宛先欄をタップしてみる。

 ……けれど、そこに入力すべきアドレスは、もう何も浮かばなかった。


 当たり前だった。もう、あの深夜限定のラジオ番組は、どこにも存在しないのだから。


 花は自嘲気味に、少しだけ小さく笑った。


 それから、何も書かれていない真っ白な画面のまま、そっとアプリを閉じた。


 もう、言葉を送る相手がいなくても、今夜の花は、ちっとも寂しくなかった。


 電気を消して布団に入り、そっと目を閉じる。


 ふと、毎晩どうしても眠れなくて、ただ苦しんでいた頃のことを思い出していた。


 暗闇の中で、ただぼんやりと天井のしみを数え続けていた夜。


 頭の中の独り言がどうしても止まらなくて、明日提出する会議の資料や、昼間に言われた課長の声、そして「私はこのままで、本当にいいのかな」という終わりのない不安が、頭の中でぐるぐると渦巻いていた、あの苦しかった夜。


 そんなある夜、縋るような気持ちで古いラジオのツマミを回したら、砂嵐の向こうから「フニャ」という気の抜けた声が降ってきた。


 あの夜から、すべての奇跡が始まったのだ。


 幽霊が遺したスマホのパスワードを一緒に解除した。


 影を失った妖怪に、自分の影を貸してあげた。


 神社の木陰の、あたたかい記憶の糸を一緒に手繰り寄せた。


 エアコンのフィルターを綺麗に掃除した。


 赤い首輪を頼りに、蜃気楼のような不思議な家を探し出した。


 座敷童子にこの部屋の住所を貸してあげて、河童のSNSのアカウントをフォローして、ろくろ首さんのオンライン会議の悩みを解決した。


 みやびがこの部屋にやってきて、ラジオに可愛い付喪神が移って、蓮さんと出会って、雨の日に小さな子猫たちを六匹も保護して……。


 気づけば私たちは、異界の怪異たちのお悩みを、全部で五十五件も解決してきた。


 そのすべてのきっかけは、あの、大木の根元に置いてきた古いラジオだった。


 あのだるそうな、愛おしい声が、「おい、そこの夜中に眠れない人間。お前のことだぞ」と、孤独だった花の心を見つけて呼びかけてくれた、あの瞬間から始まったのだ。


 花は一度目を開けて、暗い天井を見つめた。


 照明を落とした静かな部屋には、薄いカーテン越しに、外の街灯の柔らかな光がほんのりと染み込んでいた。


 今夜の花は、かつてしみを数えながら眠れなかったあの苦しい夜のことを、どこか愛おしく、懐かしく思い出していた。


 あの眠れない夜があったからこそ、今の、こんなに温かい夜がある。


 布団の上で、そらがのそりと身を動かした。

 そのまま花の首元のすぐ隣まで潜り込んできて、丸くなる。その身体は、驚くほどぽかぽかと温かかった。


 花はもう一度、静かに目を閉じた。

 頭の中は、驚くほどしんと静まり返っていた。

 明日提出する会議の資料も、嫌な課長の声も、「これでいいのかな」というあのしつこい不安も、もうどこにも見当たらなかった。


 代わりに。

 あのだるそうな、少しぶっきらぼうな声が、一度だけ耳の奥で優しく囁いた気がした。


『まあ、お前と過ごした夜も、悪くなかったですよ』


 花は、暗闇の中で少しだけ笑った。


 そして、吸い込まれるように、穏やかに眠りへと落ちていった。






       *






「プルルル、プルルル」


 翌朝、枕元で鳴り響くスマートフォンの着信音で、花は目を覚ました。


 画面を見ると、見知らぬ固定電話の番号が表示されている。不思議に思いながらも通話ボタンを押して耳に当てると、受話器の向こうから、聞き覚えのある上品で優しい声が聞こえてきた。


 あの神社の社務所が、緊急の連絡用として、おばあちゃんに花の番号を教えてくれたのだろう。


『もしもし、花さん? 昨夜は、本当にありがとうねえ』


 おばあちゃんの声は、弾むように明るかった。


『コテツね、今朝もちゃんと、そこにいてくれたわよ。昔みたいに、縁側の特等席で、気持ち良さそうに朝寝坊してるの』


「……っ、良かったです!」


 花は胸が詰まるほどの安堵を感じながら答えた。


『あの子ね』


 おばあちゃんはくすくすと嬉しそうに笑った。


『昨夜、お家に帰ってきたときにね、ペースト状の猫用のおやつをあげたら、ものすごい勢いで夢中になって食べたのよ。まぐろ味。ふふ、三年の月日が経っても、相変わらずあの味が一番好きなのねえ』


 花は、堪えきれずに吹き出すように笑ってしまった。


「ふふ、相変わらずですね、本当に」


『またいつでも、お家に遊びに来てね』


 おばあちゃんが愛おしそうに言った。


『コテツもきっと、あなたのことに会いたがると思うから』


「はい、行きます」


 花は窓の外の青空を見上げながら、強く頷いた。


「必ず、会いに行きます」


 電話を切り、花はスマートフォンをこたつの上にそっと置いた。


 いつの間にか、みやびがロフトからひょっこりと顔を出して、花の様子を覗き込んでいた。


「今の電話、あのおばあちゃんからですか?」


「うん、そうだよ」


花は満面の笑みを向けた。


「コテツね、今朝もちゃんと縁側で寝てたって。おばあちゃんのご飯、たくさん食べたって言ってた」


 みやびの大きな瞳が嬉しそうに細められ、静かに、深く微笑んだ。


「……本当に、良かったですね、花さん」


「うん。本当に、良かった」


 そらがこたつの上に飛び乗ってきて、花の手のひらに頭を擦りつける。のあが花の足元で甘えたように短く鳴き、うにが嬉しそうにロフトのみやびを見上げていた。


 朝の光が差し込む花の部屋は、どこまでもぽかぽかとあたたかかった。


 もう、あの夜中の砂嵐の音は聞こえない朝だ。

 けれど、今の花には、これで十分だった。

 

 むしろ、これ以上の幸せはないと思えるくらいに、十分すぎるほど、あたたかい朝だった。



完結しました。

今までお付き合いいただきありがとうございました。


最初は思いつくまま手探りで書いていたのですが、サボリや花、そして猫たちの行く末を最後まで描き切ることができて、ホッとしています。


10日から再び

あと、3、4話の短い番外編を投稿する予定なので、それまで、この『真夜中の迷い猫ラジオ』にお付き合いいただければ幸いです。


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