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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆもニャ
第二章 居場所のないもの

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第31話:契約の正体

「何かが動いている」


 サボリが残したその一言が、どうしても花の頭から離れなかった。


 翌日、花はすぐに蓮を呼び出し、事の顛末を話した。


 二人は駅近くの落ち着いたカフェに入り、温かいコーヒーを飲みながら、テーブルの上にいつもの手帳を広げた。


 そこには、これまで紡いできた「解決済み」のチェックマークが整然と並んでいる。二人は一件一件、あの夜の出来事を愛おしく思い出しながら、改めて数を数えていった。


「サボリが最初から、こういう仕組みの元で動いていたとしたら」


 花はコーヒーカップを両手で包みながら言った。


「私たちが怪異のお悩みを解決するたびに、あちらの世界で何かのカウントが進んでいた、ということですよね」


「そう考えるのが自然ですね」蓮は手帳の数字を見つめた。「ただ、サボリ自身はそのルールについて詳しく話そうとしない。いや、知らないのか、それとも言えないのか……」


「サボリ、よく『契約』という言葉を使いますよね」


 花はふと思い当たって顔を上げた。


「契約上これ以上は言えない、契約があるから自分から直接は動けない、って。もし、その契約の内容そのものが、この『お悩みの解決件数』なのだとしたら」


「だとしたら、あともう少し……下手をすれば、あと一件というところで、何かが起きるかもしれない」


 蓮の言葉に、二人はしばらくの間、言葉を失って黙り込んだ。


「……調べましょう」


 蓮が意を決したように顔を上げた。


「神社や神事に詳しい人に、直接話を聞いてみます。異界の契約とか、現世との境界の仕組みとか、そういうオカルトの根本的なルールを知っていそうな人に」


「心当たり、あるんですか」


「一か所だけ」


 蓮は頷いた。


「俺の不動産の担当エリアに、すごく古い神社があって。そこの宮司さんが、ちょっと変わった人なんです。以前、いわく付きの物件のことで相談に乗ってもらったとき、なんとなく、こういう見えない世界のことに妙に詳しそうだと思って頭に残っていたんです」


 翌週末、花と蓮は二人でその神社を訪れた。


 迎えてくれた宮司は七十代の男性で、針のように細くて背が高く、その奥にある目はすべてを見透かすように鋭かった。けれど、語り口は非常に穏やかで、蓮の突拍子もない話を遮ることなく、じっと黙って最後まで聞いてくれた。


 深夜にだけ繋がる防災ラジオのこと。


 異界の怪異たちからお悩みを聞き届けて、現世で解決してきたこと。


 そして、その件数が積み上がるにつれて、ラジオの向こうの様子が変わり始めていること。


 宮司は長い白髭に手を当て、しばらくの間、静かに黙考していた。


 それから、「そのラジオは、今もお持ちですか」と静かに言った。


 花は肩にかけたカバンから、いつもの古い防災ラジオをそっと取り出した。


 宮司は両手でそれを受け取ると、しばらくの間、食い入るように見つめた。骨張った指先でレトロな金属の表面をそっとなぞり、ツマミのあたりに耳を近づけて、微かな気配を聴き取るように目を閉じる。


 やがて、深く得心のいったように頷くと、ラジオを花へと丁寧に返した。


「これは、一種の『依代よりしろ』ですね」宮司は言った。


「依代、というのは……?」


「魂をこの世に留め置くための、頑丈な器のことです。この古いラジオに、何らかの強力な魂が強く結びついている。そして、この器を通じて、現世と異界の間で厳格な『契約』が結ばれている状態です」


 花は、返されたラジオを壊れ物を扱うように両手で強く抱きしめた。


「その契約の詳しい内容までは、分かりますか」


 蓮が身を乗り出して聞いた。


「そこまでは、私のような部外者には分かりません」


 宮司は静かに首を横に振った。


「ただ一つ言えるのは、このラジオが現世に存在する限り、その魂は異界の狭間に留まり続けるということ。そして、あらかじめ決められた『ある条件』が満たされたとき、その契約は強制的に解除される仕組みになっている。その条件が具体的に何であるかは、契約を結んだ当事者だけが知っています」


「サボリ……、いえ、そのラジオのDJが、ということですか」


 花が呟いた。


「本人が認識しているなら、そういうことになりますね」


 宮司は穏やかに目を細めた。


「ただ、たとえ本人がその条件を知っていたとしても、他人に口にできない場合もあります。誓約とは、そういうものですから」


 花は手の中のラジオを見つめた。

 依代。サボリの魂を、ずっと異界に縛りつけている器。


「その契約を解除して、彼をこちら側に引き戻すには、どうすればいいんでしょうか」


 花は切実に訊ねた。


「まずは、その条件を完全に満たすこと」


 宮司は人差し指を立てた。


「そして、もう一つ。その依代を、その魂が『元いた場所』へと持ち帰ることです。彼がかつて生きていた思い出の場所、魂のふるさと。その場所で条件が満たされれば、縛っていた契約は自然に解けるはずです」


「元いた場所……」蓮が呟いた。


「それが分かれば……」


「そのラジオの元の持ち主に、何か心当たりはありませんか」宮司が静かに問いかける。「依代というのは、その魂に深い縁のある人間の元へと自然に流れ着くものです。このラジオが今、あなたの手元にあるのは、決して偶然ではないと思いますよ」


 花は、少しの間、考えを巡らせた。


 このラジオは、母から「持っていきなさい」と半ば押しつけられるようにもらった防災ラジオだ。大学に入学して一人暮らしを始めるときに実家から持ってきて、ずっと棚の奥で使わないまま、けれどなぜか、一度も捨てようとは合わなかった。


 ――捨てられなかったんじゃない。捨てさせてもらえなかったんだ。


 今になって、その理由が点と点で繋がっていくような気がした。


 神社を後にし、二人は最寄り駅へと歩きながら言葉を交わした。


「サボリが元いた場所、心当たりはありますか」


 蓮が横を歩きながら聞いた。


「あります」


 花は真っ直ぐ前を向いて頷いた。


「あの神社の裏手にある、大きな木陰。サボリが昔、よく昼寝をしていた場所です。風が通り抜けて、あそこは気持ちがいいんだって、ラジオで嬉しそうに言っていました」


「あの、猫の供養祭があった神社ですね」


「そうです。それと……サボリを連れ戻す前に、もう一人、どうしても会いに行かないといけない人がいます」


 蓮が足を止め、花を見た。


「……あのおばあちゃん、ですか」


「はい」


 花は小さく息を吸い込んだ。


「サボリが帰るべき場所に、今も自分を待っている人がいるということを、サボリ自身にちゃんと知ってほしいんです。でも、私がサボリにそれを直接伝える前に、おばあちゃんに、どうしても確認しておきたいことがあって」


「何を確認するんですか」


 花は少し考え、言葉を噛み締めるように言った。

「コテツのことを、今でも本当に待っているかどうか。……あれから三年が経っても、まだ、あの子を愛してくれているかどうかです」


 翌日の昼下がり、花は一人であの神社へと向かった。


 おばあちゃんが今日も来ているかどうかは分からなかった。けれど、不思議とあの人にはここでまた会えるような、強い確信があった。


 長い参道を静かに歩いていると、前方の木漏れ日の下に、小さな人影が見えた。


 白髪をいつも通り丁寧に一つにまとめた、背の小さな、上品なおばあちゃんだった。花は少し早足でその背中に近づいた。


「あの……すみません」


 花は声をかけた。


 女性がゆっくりと振り返り、花の顔を見て、すぐに嬉しそうに目を細めた。


「あら。あなた、また会ったわねえ」

「はい、また会いに来ました」


 花は一礼した。


「少しだけ、お話を聞いてもいいですか」


 二人は境内の端にある、古びた木製のベンチに並んで座った。


「……コテツくんのことを、今でも、まだ待っていますか」


 花は真っ直ぐに訊ねた。

 女性は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに優しい、けれど芯のある眼差しで遠くの空を見つめた。


「待ってるわよ」


 女性は穏やかに、しかし断固とした口調で言った。


「三年経っても、一日だって忘れたことはないわ。あの子はね、きっと今も世界のどこかにちゃんといるって、私には分かるの」


「どこかに、というのは……」


「死んでお別れしちゃったとは、どうしても思えないのよ」


 女性は微笑んだ。


「ただ、ちょっと遠いところに迷い込んで、いなくなっちゃっただけ。だから、いつか必ず私の元に戻ってくると信じているの。おかしな、往生際が悪いおばあちゃんだって笑うかしら」


「変じゃないです。全然、変じゃないです」


 花の声が少し震えた。

 変なわけがない。それは、世界の誰よりも「正しい」確信だった。


「もし」


 花はおばあちゃんの手をそっと見つめた。


「もしもコテツくんが戻ってきたとしたら……どんな形であっても、また受け入れてもらえますか」


 女性は花をじっと見つめ返した。その瞳には、一点の曇りもなかった。


「戻ってきてくれるなら、どんな形だって構わないわよ。……たとえね、見た目が全然違う別の猫になっていたとしても、私が『コテツ』って名前を呼べば、あの子はきっと私のところに真っ直ぐ走ってきてくれる。お互いの魂で分かるって、そう信じているの」


 花は、胸に詰まっていた塊が溶けていくのを感じながら、深く息を吐き出した。


「……ありがとうございます」

「あなた、もしかしてコテツのことで、何か知っているの?」


 女性がそっと花の顔を覗き込む。

 花は少し迷ったが、嘘はつきたくなかった。


「少しだけ、です」


 花は言った。


「まだ、はっきりとしたことはお話しできないんですけど。でも、近いうちに……本当に近いうちに、何かが分かるかもしれないです」


 女性は花をじっと見つめ、それから慈しむように静かに笑った。


「……信じるわ。あなたの言うことなら、なぜだか真っ直ぐ信じられる気がするから」


 その夜、花は祈るような気持ちでラジオのツマミを回した。


 ザザ……ザー……と、今夜はいつもより砂嵐の音が長く、重く響いた。


 電波の嵐をかき分けるようにしてようやく回線が繋がったとき、聞き慣れたあの声がスピーカーから滑り出してきた。


「……フニャ。ハイどうも。サボリです。今夜は……」


「サボリ」 


 花は遮るように、スピーカーに呼びかけた。


「……なんですか、改まって」

「少し、聞いてもいいですか」


 ラジオの向こうで、短い沈黙が流れた。


「……まあ、どうぞ」

「サボリがその異界にいるのって、やっぱり『契約』があるからですよね」


 花は手の中にラジオの重みを感じながら言った。


「その契約が解ける条件、私に教えてもらえますか」


 長い、長い沈黙があった。

 今夜、最も深い静寂が、ラジオの向こう側から伝わってくる。


「……なぜ、そう思うんですか」


 サボリの声は、いつもより低かった。


「神社の宮司さんに話を聞いてきたの。このラジオが、サボリの魂を留めている『依代』だってことも、全部」


 また、重い沈黙がスピーカーを支配する。


「……そうですか」


 やがて届いたサボリの声は、驚くほど平坦で、どこか諦めたような響きを含んでいた。


「……バレましたか」

「バレました」


 花は言った。


「件数、だよね。私たちがお悩みを解決した件数が、契約を解除するための条件になってる」


 サボリが、ふう、と低く息を吐き出す音がノイズに混ざった。


「……まあ、そうです」


 サボリはぶっきらぼうに言った。


「ただ、今まで言えなかったのは、お前たちに無理をさせたくなかったからです。残りの『件数』のために義務感で動いてほしくなかった。数字のために動き出したら、本当に困って泣いている怪異たちに、ちゃんと向き合えなくなるだろ。だから、黙っていました」


 花は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。どこまでも意地悪な口調の裏にある、サボリの優しさが愛おしかった。


「それで、あと何件なの?」


 三度目の沈黙。サボリはぽつりと、その数字を口にした。


「……一件」


 サボリは言った。


「あと一件で、条件がすべて満たされます」


 花は、思わず息を呑んだ。


「……あと、一件」


「ただ」


 サボリは言葉を続けた。その声のトーンが、すっと緊迫したものに変わる。


「あと一件で満たされるとシステムが感知した瞬間から、こっちの様子が明らかに変わりました。何かが、俺たちの契約満了を邪魔しようと蠢いている気配がします。最後の一件は、そう簡単にはやらせてもらえないかもしれない。……現に今も、お前の部屋のすぐ外まで、異界の『底』の淀みが這い寄ってきている。ラジオのノイズが、いつもよりうるさいだろ」


 サボリに言われて耳を澄ますと、確かにザザという砂嵐の裏で、地鳴りのような、あるいは何百もの何かが蠢くような低い音が、かすかに混ざり始めていた。


「分かりました」


 花はラジオの筐体を強く握りしめた。


「どんと来い、です」

「……花」


 サボリが言った。


「なんですか」

「なぜ、そこまでして件数を調べようと思ったんですか」


 花は少し考え、あの優しいおばあちゃんの笑顔を思い浮かべながら言った。


「サボリに、ちゃんと帰ってほしいから。あなたをずっと待っている、帰るべき場所があるって知っているから」

「……ふん。なら、頼みますよ。相棒」


 サボリが、暗闇の中でフッと鼻で笑った気配がした。


「じゃ、閉店」


 プツッ。


 花はラジオをそっと棚の上に置いた。


 茶トラの「そら」が、心配そうにラジオの横で身を縮めて丸まっていた。

 ロフトからは、みやびが静かに顔をのぞかせていた。


「サボリに、お話ししましたか」

「話しました」


 花はみやびを見上げた。


「あと一件、です」


 みやびは、その小さな頭を静かに縦に振った。


「分かりました」


 みやびの目が、怪異の神様としての鋭い光を帯びる。


「私も、全力で準備をします」


 花は布団に入り、電気を消した。


 あと、たったの一件。

 その最後のお悩みが一体どんなものになるのか、部屋の外に迫る不気味な地鳴りが何を意味しているのか、まだ何も分からない。


 けれど、サボリに「帰るべき場所がある」と、その心の底に少しでも届いたのなら、もう恐れるものは何もない。


 花はそっと目を閉じた。


 布団を囲む猫たちの体温を感じながら、来たるべき最後の一夜に向けて、深く、深く眠りへと落ちていった。


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