第29話:みやびの話
その夜は、珍しくラジオからお悩みメールがなかった。
サボリが「今夜は何も来ていないですね。異界も平和なんですかね、たまには」と言って、いつもより早く閉店した。
花はラジオを棚に置いて、こたつに入った。
そらと、のあと、うにが、毛布の上で重なって眠っていた。
うにだけ、みやびのいるロフトの方をときどき見上げた。
みやびが、ロフトから下りてきた。
いつもなら上がったままなのに、今夜は下りてきて、花の向かいに座った。
「眠れないんですか」と花は聞いた。
「少し、話したいことがあって」と、みやびは言った。
花は、こたつから足を抜いて、みやびの向かいにきちんと座り直した。
「聞きます」
みやびが、少し間を置いた。
着物の袖を、静かに整えた。
三百四十二歳が、言葉を選んでいる時間だった。
「私が座敷童子になったのは」と、みやびは言った。
「もともと、人間だったからです」
花は、少し息を止めた。
「……人間、だったんですか」
「はい」と、みやびは言った。
「江戸の終わりごろ、私は京都の商家の子供でした。七歳で、病で死にました」
静かな声だった。感情を乗せていない、でも確かに自分のことを話している声だった。
「死んだあと、どうなったか、正確には分かりません。ただ、気づいたら、あの家の座敷にいました。家族がいて、賑やかで、私はそこで見ていました。誰にも見えていなかったけれど、そこにいました」
「見えなかったんですか、ご家族に」と花は聞いた。
「見えなかったです」と、みやびは言った。
「でも、たまに、小さい子供だけ、見えているようでした。家の子供たちが、私に話しかけてくることがあって。『雅な子が来た』と言って」
「みやび、という名前の由来ですか」
「はい」と、みやびは言った。
「子供たちにそう呼ばれるうちに、私はみやびになりました。名前をもらうと、居場所ができる気がしました」
花は、あの夜のことを思い出した。
サボリが言っていた。――昔の記憶と繋がった名前は、その子の中に根っこを作る、と。
「それから、どうなったんですか」と花は聞いた。
「その家を出たり入ったりしながら、長い時間が経いました」と、みやびは言った。
「家族が変わって、建物が変わって、時代が変わっていきました。その間に、私はいつの間にか座敷童子と呼ばれるようになっていました。人間ではなくなっていました。いつそうなったのか、分からないんですけど」
「人間じゃなくなっていくことが、怖くなかったですか」と花は聞いた。
みやびが、少し考えた。
「怖い、とは少し違いました」と、みやびは言った。
「ただ、寂しかったです。時代が変わるたびに、知っている人がいなくなって、新しい人が来て。私は変わらずそこにいるのに、周りだけが変わっていく。それが、長く続くと、だんだん、自分がここにいていいのか分からなくなってきました」
「だから、行く家がなくなったとき」と花は言った。
「困ったんですね」
「はい」と、みやびは言った。
「行く家がなくなったとき、初めて、私には自分の場所がないということが分かりました。ずっと、誰かの家にいさせてもらっていただけで、私の場所は、どこにもなかったんだと」
花は、みやびを見た。
三百四十二歳の、小さな座敷童子。子供の頃に死んで、名前をもらって、時代を渡り歩いて、行く家がなくなって、駅の待合室のベンチに座っていた子。
「今は、どうですか」と花は聞いた。
みやびが、花を見た。
「今は、ここが、私の場所だと思っています」
「良かったです」と花は言った。
「花さんが、そう言ってくれたから」と、みやびは言った。
「就職先が見つかるまでじゃなくてもいいと言ってくれたとき、初めて、ここにいていいんだと思いました」
花は少し黙った。
「みやびは、これからどうしたいですか」と花は聞いた。
「ずっと、一緒にいますか」
みやびが、静かに頷いた。
「花さんが嫌でなければ、ずっといたいです。花さんが死ぬまで、そばにいたいです」
花さんが死ぬまで、という言葉が、重くなかった。みやびがそう言うと、ただ静かな約束のように聞こえた。
「嫌じゃないです」と花は言った。
「いてほしいです。ずっと」
みやびが、ゆっくりと目を閉じた。それから、少し間があって、また開けた。
「花さん」と、みやびは言った。
「なんですか」
「いつか、和室のある家に住みたいです」と、みやびは言った。
「純和風の部屋が、私の部屋として、あったら、嬉しいです」
「作りましょう」と花は言った。
「いつか、広い家に引っ越したら、みやびの部屋を作ります。純和風の」
みやびが、少しだけ、口の端を上げた。三百四十二歳の笑い方だった。
「……ありがとうございます」
しばらく、二人でこたつに入って、静かにしていた。
うにが、みやびの膝に乗ってきた。みやびがそっと、うにの背中を撫でた。
「うにには見えているんですね」と花は言った。
「猫は見えるみたいです」と、みやびは言った。
「それに、この子は最初から、私のそばに来ていましたから」
「うにがみやびを選んだんですね」と花は言った。
「そうかもしれないです」と、みやびは言った。うにを見ながら。
「私も、この子が好きです」
うにが、ごろごろと喉を鳴らした。
花は、そらとのあを見た。毛布の上で、二匹が重なって眠っていた。
「みやびは、猫と暮らしたことはありますか」と花は聞いた。
「ありました」と、みやびは言った。
「住んでいた家に、よくいました。昔の家は、猫が出入りするのが普通でしたから。でも、こんなに近くにいたことはなかったです」
「どうですか」
「嬉しいです」と、みやびは言った。
「温かいです」
うにが、みやびの膝の上で丸まった。
もう少し経って、花が「そろそろ寝ます」と言った。
みやびが立ち上がろうとして、花に言った。
「花さん、一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんですか」
「サボリのことです」と、みやびは言った。
「私が境界のそばに立ったとき、感じた気配のことです。あの夜に話しましたが、あの、ずっと待っている古い気配」
「はい」
「あれは、サボリだと思います」と、みやびは言った。
「正確には、サボリがいた場所、と言った方が正しいかもしれない。サボリは今、異界にいますが、あの気配は、サボリが元いた場所に残っているものです。長く一緒にいると、そういうものが残るんです」
「残る、というのは」
「その場所が、サボリを覚えているということです」と、みやびは言った。
「サボリが帰るべき場所が、サボリを呼んでいる、という感覚に近いです」
花は少し黙った。
「サボリは、帰れますか」
「分からないです」と、みやびは言った。
「ただ、呼んでいる場所があるということは、帰る場所があるということだと思います。あとは、どうやって帰るか、ですが」
「それが分からない」
「はい」と、みやびは言った。
「私には分かりません。でも、花さんが考えていることは知っています。だから、話しておきたかった」
花はみやびを見た。
「ありがとうございます」と花は言った。
みやびが、ロフトに上がった。
うにが、みやびの後を追うようにはしごの下まで来て、上がれないので諦めて戻ってきた。
花は布団に入った。
サボリが帰るべき場所が、サボリを呼んでいる。
帰る場所がある。
あとは、どうやって帰るか。
花は目を閉じた。
そらとのあとうにが、花の布団の周りで丸まった。
温かかった。
眠れた。




