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真夜中の迷い猫ラジオ  作者: ゆもニャ
第二章 居場所のないもの

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第26話:鳥居の向こう側

 神社の前に到着したのは、深夜の二時を少し過ぎた頃だった。


 車を鳥居から少し離れた暗がりに止め、三人で外に出る。冬の鋭い夜気があっという間に肺を刺した。


 神社は、想像を絶するほど古びていた。


 再開発から取り残されたように佇む敷地は、高いマンションと無機質な駐車場に挟まれている。それなのに、一歩鳥居をくぐった参道の奥だけは木々が異様なほど鬱蒼と茂り、街灯の光を完全に拒絶していた。


 闇の奥へと続く、三つの石の鳥居。


 一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居。


 どれも苔に塗れ、現世の重力に耐えかねたように、わずかに傾いている。


「……境界、本当に薄いです」


 ぽつりと呟いたみやびの目は、いつもと違っていた。


 遠くを見据えるような、それでいて皮膚のすぐ傍にある何かを確かめるような、冷たく澄んだ神様の目だ。


「感じますか」花が小声で訊ねる。


「はい。一の鳥居と二の鳥居の間が、特に酷く綻んでいる。あそこでふたつの世界が重なっています」


「あの二人は、どこにいるの?」


「こちら側ではありません」


 みやびは参道の奥の闇を見つめた。


「でも、遠くはない。薄皮一枚、すぐ向こう側に張り付いている感じです」


 蓮が凍える指でスマホの画面を叩いた。


「海斗からまたメッセージが来ました。『まだ社の近くにいる、璃子の体調が本格的に悪くなってきた』って……」


「長居は禁物ですね」


 花はカバンから古い防災ラジオを取り出し、ツマミを回した。


 ザザ……ッ。今夜は砂嵐を挟む間もなく、すぐにサボリの気配がスピーカーに満ちた。


「……状況はどうですか」


「着きました」


 花は早口で伝えた。


「みやびの見立てでは、一の鳥居と二の鳥居の間に境界の重なりがあるそうです。あの二人は薄皮一枚向こう側にいるって」


「そこが接触点コンタクトです」


 サボリの、いつになく鋭い声が響く。


「その場所で声を重ねれば、向こうの空間に穴を開けられる。前回と同じです。二人で声を揃えなさい」


「前回より、届きやすいですか」


「今夜はみやびがついています。座敷童子に境界の歪みを内側から押さえ込んでもらえば、お前たちの声は現世の『くさび』になる。……迷うな、行きなさい」


 みやびが静かに頷き、小さな手で参道を示した。


「位置を教えます。私の言う場所に立ってください」


 みやびに導かれ、花と蓮は一の鳥居と二の鳥居の間に並んで立った。


 参道の石畳は苔でぬめり、足元からじわじわと冷えが上がってくる。


 けれどなぜか、頭上を覆う不自然な木々の根元だけが、生き物の吐息のように妙に生温かかった。


 みやびが二人の少し後ろに立ち、小さく息を吐き出す。


「始めてください。私が境界を固定します。薄い氷の壁に、声をぶつけてひび割れを作るイメージです」


「分かりました」


 花は隣の蓮を見た。


「いきますか」


「……いきます」


 蓮が短く息を呑む。


 花が「三、二、一」と合図を送った。


「海斗さん、璃子さん、聞こえますか!」


 二人の声が完全に重なり、静まり返った参道に吸い込まれていく。


 後ろでみやびが衣を揺らす気配がした。


 音はない。


 けれど、肌を刺す空気が一瞬でぐにゃりと歪んだ。


 風もないのに、頭上の枝葉がざわざわと激しく波打つ。


「電車には乗らないで! 社には入らないでください! 今、こちら側からあなたたちを呼んでいます!」


 声を張り上げ、現世の壁へとぶつける。


 数秒の静寂。蓮が弾かれたようにスマホを確認した。


「……メッセージ、来ました!」


 蓮の声が、驚きと興奮で上ずりを見せる。


「『声が聞こえた。どこにいるんですか』って……!」


「届いた……!」


「届きました」


 みやびが後ろで、少しだけ肩を揺らして息を乱していた。


「壁にヒビが入りました。もう少しです。声を止めないで」


「みやび、大丈夫?」


「大丈夫、です。続けてください!」


 蓮が猛然とメッセージを打ち返す。


『聞こえましたか! 今、神社の参道にいます。あなたたちが迷い込んだ神社の、ちょうど真裏(こちら側)です。電車には絶対に乗らないで、社にも入らないで、その場を動かないでください!』


 間髪入れずに返信が跳ね返る。


『聞こえた、声が二人分聞こえた。璃子も聞こえたって言ってる! どうすれば帰れますか!?』


 花はすかさずラジオを口元に寄せた。


「サボリ、声が通じました。二人ともこちらの声を確認しています。次はどうすればいい?」


「よくやりました」


 サボリの声に、珍しく明確な安堵が混じった。


「帰り方を伝えなさい。境界にヒビが入っている今なら、来た道を逆行すればいい。向こう側にも同じ鳥居が見えるか確認を」


 蓮のメッセージへの答えは『あります、こっちにも三つ並んでる』だった。


「三つあるそうです」


「なら話は早い」サボリが言った。


「一の鳥居から迷い込んだのなら、一の鳥居に向かって歩かせなさい。向こうの鳥居を逆から通り抜ければ、こちら側の一の鳥居へと繋がる。ただし、絶対に一人ずつ通らせては駄目です。必ず二人で並び、手を繋いで同時にくぐらせなさい。魂の重さを二倍にして、現世の引力を強くするんです」


 花が頷く。蓮の指が画面を走った。


『一の鳥居に向かって、二人で絶対に手を繋いで、逆から通り抜けてください。一人で通ると離れ離れになります。必ず二人同時に!』


 そこから、返信が途絶えた。


 重苦しい沈黙の中、みやびが背後で必死に世界の綻びを押さえ続けている。


 花はカバンの中のラジオを握りしめ、ひたすら暗闇の先を見つめた。


 やがて、画面が光る。


『一の鳥居に向かって走ってます。璃子の手を離してない。鳥居が、目の前に――』


 その瞬間だった。


 しんと静まり返った一の鳥居の空間に、突如として激しいノイズのような「気配」が爆発した。


 生きた人間の、強烈な汗と涙の匂い。


 花が一歩、前に踏み出す。蓮も同時に駆け寄った。


 暗闇を切り裂くようにして、傾いた一の鳥居の向こう側から、もつれ合うようにして二人の男女が転がり出てきた。


 男は背が高く、コートの襟を狂ったように掴んでいる。女はその男の腕にすがりつき、顔を押し当てて激しく肩を震わせていた。


 青白い顔、恐怖に据わった目。


 けれどその身体は間違いなく、こちらの世界の街灯の影を地面に落としていた。


「……渡辺海斗さん、佐藤璃子さん、ですか」


 花の声に、男が弾かれたように顔を上げた。


「……藤井、さん? 香山さんの、友達の……?」


「そうです」


 花は深く息を吐き出し、微笑んだ。


「無事に出てこられましたね」


 海斗の唇がわななき、隣で璃子がついに声を上げて泣き崩れた。


 蓮が二人の肩をそっと叩き、低い、けれど包み込むような声で言った。


「とりあえず、ここから離れましょう。車を回してあります」


 車内には、四人と、一人の神様がいた。


 後部座席に疲れ果てた海斗と璃子を乗せ、助手席に花、そして後部座席の端にみやびが音もなく座っている。


 海斗たちは完全に擦り切れていて、車内の奇妙な冷気やみやびの存在に気づく余裕すらないようだった。


 しばらくの間、タイヤがアスファルトを削る音だけが響いていた。やがて、璃子が小さく口を開いた。


「……助けていただいて、本当に、ありがとうございました……」


「よかったです、本当に」花が振り返って微笑む。


 海斗は窓の外を見つめたまま、拳を握りしめていた。


「……行くな、絶対に探すなって言われてたのに、調子に乗って行きました。本当に、すみませんでした」


「謝罪はいいです」


 蓮はハンドルを握ったまま、バックミラー越しに、静かだが酷く冷徹な声を投げた。


「その代わり、もう二度と近づかないでください。あなたたちを現世に戻すために、今夜、どれだけの存在が動いたか分からないでしょう。……次はありませんよ」


 海斗がびくりと肩をすくめ、「……はい」と小さく消え入るような声を出す。璃子もそれに続いた。


 車が住宅街の細い道を抜け、大きな通りへと出る。見慣れたオレンジ色の街灯の光がフロントガラスを次々と流れていく。


 赤信号。車が静かに停止した。


 蓮が、ふう、と張り詰めていた息を深く吐き出し、ハンドルから左手を離した。


 その手が、迷うように少しだけ宙を彷徨ってから、助手席のシートに置かれていた花の手の上に、そっと重ねられた。


 手袋を外した蓮の剥き出しの肌は、凍えるような冬の夜だというのに、驚くほど熱かった。


「……花さん」


 蓮が横を向く。


 後ろの二人に投げた厳しいトーンとはまるで違う、少し情けないような、甘えるような、掠れた声だった。


「俺、さっき、めちゃくちゃ偉そうなこと言っちゃいました。……内心、本当に怖くて、心臓バクバクだったんですけど」


 後ろに聞こえないよう、蚊の鳴くような囁き声。


 花は、自分の手の甲を覆う大きな手のひらの、ドクドクと脈打つ確かな体温をじっと見つめた。


「……すごく、格好良かったですよ。香山さん」


「……それ、からかってます?」


「からかってないです。本当です」


 蓮が、花の手袋の隙間に滑り込ませるようにして、自分の指を深く絡めてきた。ぎゅっと、痛いくらいに握りしめられる。


「……良かったです。花さんの前で、少しは良いところ、見せられたなら」


 信号が青に変わる。蓮は酷く名残惜しそうに手を離し、再び両手でハンドルを握った。


 離れた皮膚の表面が、いつまでもじりじりと熱を持ったまま燻っていた。


 花はカバンの中にそっと手を入れ、あの防災ラジオに触れた。


「サボリ。二人、無事に出てこれました」


「確認しました」


 スピーカーから流れるサボリの声は、いつもの気怠さの中に、どこか微かな軽やかさを孕んでいた。


「みやびは大丈夫ですか」


「大丈夫です」


 後部座席の端から、みやびが静かに、けれど誇らしげに声を返した。


「少し疲れましたが、どこも痛くありません」


「無理をさせましたね」


 サボリがポツリと言った。みやびは嬉しそうに首を横に振る。


「いいえ。お役に立てて、良かったです」 


 電波の向こうで、サボリが少しだけ言葉を詰まらせたような、短い間があった。


「……じゃ、今夜の放送はこれにて閉店。……お疲れ様でした」


 プツン。


 今夜始まって以来、初めて鮮烈な砂嵐の音がスピーカーを優しく満たした。


 花はこっそり、小さく笑った。


 サボリが「お疲れ様でした」なんて言った。


「知らんがな」でもなく、いつもの意地悪でもなく。


 ただそれだけの一言が、冷え切った夜を走り続ける車内を、どうしようもないほど温かく満たしていく気がした。



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