第25話:肝試しの代償
深夜に蓮から電話が来たのは、花がラジオのツマミを回す少し前だった。
画面に「蓮」と表示されて、花はすぐに出た。
「花さん、起きてますか」
蓮の声が、いつもと違った。
低くて、緊張していた。
「起きてます。どうしたんですか」
「……ちょっと、まずいことになったかもしれなくて」
蓮の声は、低く、細かく震えていた。
「話してください」
花は毛布を跳ね除け、ベッドの上に飛び起きた。
蓮が少し息を整えてから話し始めた内容は、最悪の続報だった。
ネットの投稿を消した後も、蓮のサブアカウントのDMにはいくつか反応が残っていたという。
その大半はただの体験談だったが、その中に「HNカイト」という大学生からのメッセージがあった。
『俺もこないだ駅で途方に暮れてた時にあなたの声が聞こえました。助かりました』
蓮はすぐに『もう絶対に探したり、あそこへ行ったりしないでください』と厳しく返信し、それで終わったはずだった。
しかし今夜、そのカイトから、あり得ないメッセージが届いたという。
「……内容を、そのまま読みます」と蓮は言った。
『アカウント名カイトです。本名は渡辺海斗と言います。突然すみません。今夜、彼女の佐藤璃子と一緒に、噂になってる神社に肝試しに来たんですが、変なところに迷い込みました。スマホのGPSが動かないし、電波も一本も入らないのに、なぜか蓮さんへのDMだけが送信できます。参道みたいな古い道があって、奥に小さな社があって、でも空気が全然違います。他に人はいません。どうすればいいですか』……以上です」
花は、思わず息を呑んだ。
「今も、その人と連絡は取れますか」
「取れてます。さっきも返信が来て、まだ同じ場所から動けないみたいで……」
「蓮さんに向けたメッセージだけが届くのは、繋がりができているからです」
花は確信を持って言った。
「投稿を読んで、DMを送り合って、言葉のルートができてしまった。その執着が、境界を越えても届く糸になっているんだと思います」
「……俺のせいですか。また、俺が引きずり込んだ群れが」
「警告を無視して踏み込んだのは彼ら自身です。蓮さんだけのせいじゃない」
花は強い声で、蓮の言葉を遮った。
「悔やむのは後です。今はそれより、動きましょう。サボリに繋ぎます。少し待っていてください」
電話を保留にし、花は机の上の防災ラジオのツマミを勢いよく回した。
ザーーーッ! ザザッ!
いつもより重く、濁った砂嵐が激しくスピーカーを揺らす。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……あー、お前の部屋の電波が、一瞬で真っ黒に濁りましたね。受話器の向こうの連れが、また碌でもない『呼び声』を拾ってきたようですが」
「サボリ、聞いてください」
花はラジオにすがりつくように言った。
「神社で二人、引き込まれました。蓮さんのDMを通じて、まだ向こう側とラインが繋がっています。今、古い参道のような場所にいるみたいです」
ラジオの奥で、明確な沈黙が横たわった。
「……チッ」
これまでで一番深く、苦い舌打ちが電波に乗って弾けた。
「あの男が一度ばら撒いた悪因が、まだ尾を引いているわけですか。……ですが、境界のすぐ近くで足が止まっているなら、今夜が最初で最後の勝負です。深い異界へ完全に滑り落ちる前に首根っこを掴めれば、まだ現世へ引き戻せる可能性がある。……お前たち、今すぐ動けますね」
「動きます」花は即答した。
「ならば、その連れに場所を絞らせなさい。古くて、手入れが行き届いておらず、鳥居が複数重なっている神社だ。現世の歪みが溜まり、境界がもっとも薄くなりやすい。あいつらが踏み外したのはそこです」
「分かりました」
「それから」
と、サボリの声が一際低くなった。
「今夜はみやびにも協力してもらいなさい。座敷童子は『家』と『土地』の境界に最も敏感な怪異だ。薄くなった現世の壁を、内側から補強するくらいの手伝いはできるはずです」
部屋の隅、影の中から、みやびが静かに歩み出て力強く頷いた。
「みやび、大丈夫?」
花が振り返ると、みやびは着物の上から薄い羽織を重ねながら、小さく微笑んだ。
「大丈夫です。私、こういうことのために、三百四十二年も生きてきた気がしますから」
「頼りにしています」
「はい」
「……今夜は、番組を閉店しません」
サボリの、重々しい声が響いた。
「何かあれば、すぐにツマミを回しなさい。電波は、繋いだままにしておきます」
プツン、という切断音は来なかった。
ザー……という、極めて静かな、けれど確かにそこにサボリがいると分かる微かな呼吸のような砂嵐の音が、ずっとスピーカーから流れ続けている。
花はすぐに蓮の電話を戻した。
「サボリに話しました。今夜中に動かないと間に合いません。蓮さんのエリアの近くで、古くて、鳥居がいくつも重なっている、手入れのされていない神社の心当たりはありますか」
受話器の向こうで、蓮が必死に記憶を漁る気配がした。
「……一箇所、あります。担当エリアの端、再開発の区域から綺麗に取り残された古い社があるんです。鳥居が三つ並んでいて、氏子さんも高齢化して、参道が荒れ放題だって苦情が出ていた場所が」
「そこです。今から行きます。迎えに来てください」
「五分で回します!」
電話を切り、花はコートを掴んだ。
カバンにあの防災ラジオを放り込む。スピーカーからは、今もかすかに現世と異界を繋ぐ砂嵐の音が、頼もしい心音のように漏れ聞こえていた。
玄関のドアを開けると、冬の容赦ない冷気が吹き込んできた。
エントランスの前には、すでに蓮の車がヘッドライトを光らせて滑り込んできていた。
車から飛び出してきた蓮は、真剣そのものの表情で「行きましょう」と言った。
「はい!」
助手席に乗り込み、車が夜の闇を切り裂くように走り出す。
蓮から渡されたスマホで、花は必死にメッセージを打ち込んだ。蓮と、異界の大学生たちを繋ぐ唯一の糸だ。
『今から向かいます。その場所から一歩も動かないでください。電車には絶対に乗らないこと。社の中には入らないこと。二人で、手を繋いでいてください』
すぐに、悲痛な返信が画面に跳ね返ってきた。
『分かりました。怖いです、周りが真っ暗で、変な音が聞こえます。早く来てください』
彼女の璃子からもメッセージが来る。
『お願いします、助けてください。海斗がずっと震えてて……本当に怖いです』
花は親指を震わせながら、二人に同じ言葉を送った。
『もうすぐ着きます。大丈夫です。私たちが必ず見つけます』
大丈夫。そう打ちながら、花は自分自身に言い聞かせていた。カバンの中のラジオにそっと手を触れる。微かな砂嵐の温かさが、手のひらを伝って花の心臓を強く叩いた。
街灯が消え、道が急激に細くなる。
フロントガラスの向こう、住宅街の突き当たりに、闇に沈む三つの不気味な鳥居の影が見えてきた。
「……あそこです」と、蓮は言った。
花は、カバンの中のラジオにそっと手を添えた。
繋がったままの砂嵐を乗せて、プラスチックの筐体が、まるで小さな生き物のようにじんわりと温かかった。




