第24話:開かずの間の住人
その夜のサボリは、いつもより少しだけ元気がなかった。
元気がない、というよりも、どこか上の空のように、電波の向こうの気配が遠い。
砂嵐が繋がって、いつもの「フニャ」が来て、「ハイどうも」が来て、でもその後の「眠いです」とか「早く終わりたい」といった、いつものだるそうな軽口がなかった。
花は毛布の中でラジオを両手で抱え、じっと次の言葉を待った。
「……時刻は、午前一時二十二分。『真夜中の迷い猫ラジオ』、サボリです」
それだけ言って、また長い間があった。
「……あー。今夜はね、珍しく現世の面倒な怪異案件じゃなく、こちら側に届いた普通のメール(ハガキ)が来ています。読みますよ」
紙をパサリとめくる音。
「ラジオネーム『開かずの間』。……幽霊、ですね。御年、百四十歳。拝読します。
『サボリさん、はじめてメールします。私は明治生まれの幽霊で、ある洋館の開かずの間に百年ほど住んでいます。去年、その洋館にリノベーション会社が入って、若い夫婦が引っ越してきました。最初は驚かせようと思って、夜中に壁を叩いたり、ラップ音を出したり、廊下を歩いたりしたのですが、二人とも全然気づいてくれません。よく見たら、二人とも耳に白い小さな機械を詰め込んでいて、それをつけたまま寝ています。外そうとしても手が通り抜けてしまいます。怖がってほしいわけではないのですが、百年ひとりでいたので、存在に気づいてほしいのです。どうしたらいいでしょうか』……以上」
短い沈黙。
「……知らんがな」
花は毛布の中で、思わずふっと笑ってしまった。
やっぱりこれが来た。
でも、どこか安心する。
「ワイヤレスイヤホンですか、それ。最近の人間は、寝るときまで耳に白いプラスチックの豆みたいなものを詰め込んで、自分の殻に閉じこもるらしいですね。ノイズキャンセリングという機能があって、外の音を完全に遮断するのだとか。現代の、自ら進んで孤独になろうとする人間に、百年前の幽霊のクラシックな脅かしが勝てるわけありませんよ」
ツメが机を小刻みに叩いた。
「ただね、存在に気づいてほしいということなら、音以外の方法もありますよ。電気系統に干渉する幽霊は多いですが、あなたはどうですか。電球をチカチカさせるとか、テレビを勝手につけるとかね。……まあ、お前のことだ、眠れない会社員。もしその百四十歳の幽霊から続報のハガキがこちらに届いたら、電気系統への干渉方法でも試してみたらどうかと、そっちのスマホからでも念を送ってやりなさい。幽霊がメールを送れるかどうかは、まあ、私のラジオに繋がっている時点で何とかなるでしょう。今夜はお前を現場に行かせるような案件じゃありませんから、情報提供で十分です」
サボリはそこで一度言葉を切り、再び紙をパサリとめくった。
「……あー、おっと。今夜は珍しく、もう一通ありますね。ラジオネーム『開かずの間』、同じ方から追伸が来ています。拝読します。
『追伸です。先ほどのメールを送った後、試しに洗面台の電球をチカチカさせてみたら、奥さんの方が耳の機械を外して「あら、電球が切れかけてる」と言いました。旦那さんに話しかけていて、少し会話が生まれました。二人が喋っているのを聞いたら、なんだか嬉しくなりました。電球の件、ありがとうございました』……以上です」
花は、布団の中で少し黙った。
メールを送って、もう試して、もう結果が出ている。
百四十歳の幽霊は、思ったよりもずっと行動力があった。
サボリの言う通り、百年もひとりでいたら、誰だってそうなってしまうのかもしれない。
「……早いですね、行動力が」
花が呟いた小さな声は、もちろんラジオの向こうには届かない。
けれどサボリは、花の心をなぞるように冷ややかに、でもどこか優しく続けた。
「行動が早い。結構なことです。それに、この幽霊は最初から誰も怖がらせたいわけじゃなかったんでしょう。ただ、気づいてほしかっただけで。……まあ、電球を切れかけさせると現世の人間はすぐに交換してしまうので、悪戯はほどほどにするよう、そのうち心の中で伝えておきなさい」
そこで、サボリの声のトーンが、ふっと静かに、低いところへ落ちた。
「……二人が喋っているのを聞いたら嬉しくなった、と書いてありますね。……開かずの間に百年もいると、そういうものですよ。誰かの、生きている気配があるだけで、そこはもう冷たいだけの暗闇ではなくなる。……じゃ、閉店」
プツン。
砂嵐すら残さず、電波は完全に切れた。
花はラジオを棚の上に置いて、しばらく天井を見つめた。
誰かの気配があるだけで、全然違う。
サボリが、自分自身のことを言っていたのか、それともおばあちゃんのことを言っていたのかは分からなかった。
でも花には、その気持ちが痛いほど分かる気がした。
自分が眠れない夜、砂嵐の向こうからあの声が届くだけで、夜の冷たさは全然違った。
みやびが部屋の隅にいるだけで、静かすぎない夜になった。
蓮が「花さん、ずっといてくれたんですか」と言ったとき、あの寒々しいホームの蛍光灯が、少しだけ温かく見えた。
気配、というのは、そういうものだ。
ロフトから、みやびが音もなく顔を出した。リビングの真ん中でぽつんと佇み、花をじっと見つめている。
「電球の幽霊、うまくいったんですね」
「うん、うまくいったみたい」
花はこたつの中から微笑みかけた。
「百年ひとりでいたら、そうなっちゃうんだって」
「座敷童子も、行く家がなくなって彷徨っていた頃は、そういう気持ちでした」
みやびは、少しだけ遠い目をしてポツリと言った。
「誰かの生きている気配が、ご飯の匂いが、たまらなく恋しくて」
花は、みやびの小さな身体を見つめた。
「今は、どう?」
「今は」
みやびはロフトのはしごに手をかけ、少しだけはにかむように微笑んだ。
「ちっとも、恋しくないです。このお部屋は、いつも誰かの気配でいっぱいですから」
花は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「おやすみ、みやび」
「おやすみなさいませ、花さん」
みやびがロフトへ上がっていき、部屋にはいつもの静寂が戻った。
けれど、もう寂しいだけの暗闇ではない。棚の上にはラジオが、ロフトの上にはみやびが、そしてスマホの向こうには蓮がいる。
花は目を閉じた。
部屋は、とてもあたたかかった。
今夜も、すぐに、穏やかな眠りが訪れた。




