第23話:コテツという名前
甘味処は、神社の参道を出てすぐのところにあった。
古い木の引き戸を開けると、畳敷きの小上がりと、テーブル席がいくつかあった。
お昼前の時間で、客は少なかった。
二人でテーブル席に向かい合って座った。
女性が「甘酒でいいかしら」と言って、花が「はい」と言った。
店員に注文して、しばらく、二人で静かにしていた。
女性が、先に口を開いた。
「コテツのことが気になって、来てくれたの?」
「はい」と花は言った。
それから、少し迷って、「供養祭のとき、写真を見て、昔のことを思い出して」と続けた。
「昔のこと?」
甘酒が来た。湯気が立っていた。
花は両手で椀を包んで、ゆっくりと話し始めた。
「私、子供の頃に、夏祭りで迷子になったことがあって。神社の裏手の、暗い木陰に迷い込んで、怖くて泣いていたんですけど。そのとき、だるそうな声が聞こえてきて、気づいたら大通りに出ていて。足元をサバトラの猫が歩いていって」
女性が、静かに花を見ていた。
「それが……コテツくんに似ていたんです。供養祭の写真の猫が」
女性は、しばらく何も言わなかった。
甘酒を一口飲んで、椀をゆっくりと置いた。
「それ、いつのこと?」
「十七、八年前だと思います。小学二年生の夏でした」
「神社の、裏手の木陰」と、女性は繰り返した。
「風が通る、あそこね」
花は息を呑んだ。
「……ご存知なんですか、あの場所」
「知ってるわよ」
と、女性は言った。
穏やかに。
「コテツがよく昼寝してたところ。あそこは風が通って、涼しくて、夏はよくいなくなったの。探すと決まってあそこにいて」
花の胸の中で、何かが静かに溶けていくような感覚があった。
「コテツは、どんな猫でしたか」と、花は聞いた。
女性が、少し目を細めた。
「怠け者よ」と言って、笑った。
顔中の皺が深くなる笑い方だった。
「ねずみ取りなんて一度もしなかったし、ご飯の時間以外はどこかで寝てばかり。でも、なんでか、困ってる人のそばにはいたのよ。近所の子が転んで泣いてたら、そっとそばに来てたり。おじいさんが病気で寝込んでたとき、ずっと布団の足元にいたり」
「……怠け者なのに」と、花は言った。
「怠け者なのに、ね」と、女性は繰り返した。
「そういう子だったの。サボってばかりのくせに、肝心なところでは、ちゃんとそこにいる」
花は甘酒を一口飲んだ。
温かかった。
「コテツ、という名前は」と花は聞いた。
「どういう由来ですか」
「虎鉄、って書くのよ」と、女性は言った。
「トラ模様だから、虎。鉄みたいに頑丈に生きてほしくて、鉄。でも本人は全然そういう名前らしくなくて、ふにゃふにゃしてるから、コテツって呼んでたら定着しちゃって」
花は少し笑った。
「可愛い名前ですね」
「可愛い子だったわよ」と、女性は言った。
それから、少し遠い目をした。
「三年前に、いなくなってしまったけど」
いなくなった。
花は、その言葉の重さを受け取った。
死んだ、ではなく、いなくなった。
女性にとって、コテツはまだどこかにいる存在なのかもしれない。
あるいは、死んだという言葉を使いたくないだけかもしれない。
でも花には、その言い方が正確な気がした。
コテツは、確かにいなくなっていた。
でも、いなくなった先で、ラジオのマイクの前に座って、だるそうにため息をついていた。
花は何も言えなかった。
言いたかった。
あの猫は今も、ちゃんといます。
だるそうに、面倒くさそうに、でも確かに、誰かの背中を押しながら。
でも、言えなかった。
根拠のない希望を持たせることが、残酷になることがある。証明できないことを言葉にすることで、傷つけることがある。
花は甘酒を飲み干した。
「……迷子のとき、助けてもらったかもしれないこと、ずっと気になっていました」と花は言った。
「あの夜のことが、今でも忘れられなくて。だから、お話が聞けて良かったです」
女性が、花を見た。
「あなた、不思議な子ね」と言った。
「でも、コテツのことを覚えていてくれて、ありがとう」
「こちらこそ」と花は言った。
「話してくれてありがとうございます」
二人でしばらく、静かにしていた。
窓の外に、春に近い光が差し込んでいた。
帰り道、花は一人で歩いた。
頭の中に、色々なことが混在していた。
コテツ、という名前。
虎鉄と書く。
サボってばかりだったけど、肝心なところではそこにいる猫。
サボリ。
ずっとだるそうで、面倒くさそうで、「知らんがな」しか言わないのに、花が眠れない夜にはそこにいた。
幽霊が泣いていたら解決策を出した。迷子の子供がいたら、木陰から声をかけた。
異界に飛ばされた蓮のために、珍しく困った。
花の名前を呼んで、ここにいなさいと言った。
サボってばかりなのに、肝心なところでは、ちゃんとそこにいる。
全部、同じだった。
花は立ち止まって、空を見た。
雲が薄くて、青空が透けて見えた。
サボリに、聞きたかった。
あなたは今も、誰かのそばにいますか。
帰りたいと思いますか。
あのおばあちゃんが、今も待っていることを、知っていますか。
でも、聞けない気がした。
サボリが「知らんがな」と言うだろうから、ではなく。
サボリが、何も言えなくなってしまう気がしたから。
そう思ったら、それ以上は空を見上げられなくなって、花はいつもの日常が待つアパートへと歩みを早めた。
その夜、花はいつものように古い防災ラジオのツマミを回した。
ザザ……ザー……。
「……フニャ。ハイどうも。サボリです。……あー、今夜のお前の部屋の電波、妙に静かですね。ノイズの角が取れて、お前自身の呼吸の音まで筒抜けですよ」
スピーカーから聞こえてきたのは、いつもと変わらない声だった。
だるくて、眠そうで、面倒くさそうな、サボってばかりの猫の声。
花はこたつの中で、少しの間、何も言えずにラジオを見つめていた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように熱い。
「……どうしましたか、お前。何か言いたいハガキ(メール)でもあるなら、さっさと読みなさい。なければ閉店ですよ」
「……今日、神社に行ってきました」
花は、静かに言った。
「お参りに。冬の終わりみたいな、いい天気でした」
「そうですか。神社の線香の匂いか何かを引っ提げて帰ってきたわけですか。通りで電波が妙に静かなわけだ」
「……サボリ」
花は、消え入りそうな声で呼び止めた。言うつもりはなかったのに、口が動いていた。
「……なんですか」
「今日、参道の外の店で、甘酒を飲みました。すごく、温かかったです」
ラジオの向こうで、明確に、沈黙が横たわった。
サボリの息を呑む気配すら聞こえないほどの、深い、深い静寂。
どれくらいの時間が経っただろう。
スピーカーの奥で、微かに、本当に微かに、サボリが喉を「クルル……」と小さく鳴らすような、猫特有の切ない音が電波に混ざった気がした。
「……そうですか。お前の私生活のメニューなど、興味はありませんよ。……じゃ、閉店」
プツン。
花はラジオを棚の上に置いた。
金属の筐体はいつもと同じなのに、なぜか今夜は、触れた指先が泣きたくなるほど愛おしかった。
ロフトから、みやびが音もなく下りてきていた。リビングの隅で、じっとラジオを見つめている。
「おばあさんに、会ってきたんですね」
「うん」と花は言った。
「コテツ、という名前を、教えてもらった」
みやびは、少しだけ寂しそうに目を伏せた。
それから、棚の上のラジオを見上げて、ポツリと言った。
「サボリ、いつもより少しだけ、お腹の底の電波が揺れていました。花さんの言ったこと、ちゃんと届いています」
「……そうかな。まだ、何も言えなかったよ」
「それでいいと思います」
みやびは、花の手のひらに、自分の小さな手をそっと重ねた。
「あの人は、ずっとサボりながら、ここで待っていたんですから。今度は、花さんがゆっくり時間をかけて、あの子に伝えてあげればいいんです」
みやびはそれだけ言うと、またするりとロフトへ上がっていった。
花は布団に入って、電気を消した。
コテツ。虎鉄。サボってばかりの、でも肝心なときにはちゃんとそこにいる猫。
いつか、私の口から伝えよう。
あなたのことを、今も待っている人がいるんだよ、と。
目を閉じた。
今夜は、驚くほどすぐに、穏やかな眠りが訪れた。




